20.音楽史の中のハイドン 2
 
1.契約書と他のジャンルとの関係
 (その1)音楽史1では、ハイドンを中心に、古典派音楽やその演奏について、記載をしてきた。引き続き自分なりの記述を書いていく中で、ハイドンの演奏や出版、広まっていく経緯などをもう少し記載して行きたい。引き続き、音楽史の中のハイドン 2とする。 まずは、エステルハージ候の中で、作曲や出版がどの程度、制限があったかについて。シンフォニーと弦楽四重奏の分野での違いから、興味深い記述があった。音楽史の中のハイドン その1でも引用してきた大崎滋生 著の論文から、この点について考察したい。この紀要の中では、シンフォニー92番までの中で、下記の様に分けて考察されている。
ヨーゼフ・ハイドンのシンフォニー 同時代の出版について (1)18世紀中における第92番までの出版

第1期 1768−76年頃  フランスでの最初の出版から
第2期 1776年頃ー83年 パリを中心に開花していく時期
第3期 1784−92年    いわゆる音楽パリシンフォニーの頃からロンドンに渡る前
(その2)
 この紀要の中に、かなり詳細に、この当たりが記載をしてある。 これによると、シンフォニーと他のジャンルでの、契約書に伴う出版の範囲の違いが興味深い。すなわち、1761年の副楽長に就任した当初、ハイドンは雇用主であるエステルハージ候と、様々な条件で契約を行う。その中で作曲や出版等に関しては、第4項に以下の条文がある。
「閣下の命じる音楽を作曲し、新しい作品について誰とも話題にせず、写し取らせず、閣下のために伺候し、特別に関知や承認の思し召しなしに他の誰にも作曲しないこと」
 この条項が1760年代に効力を持っていた。 
 音楽史1 その43にて、1774年に6曲のクラヴィーアソナタで記載をしたが、ここでは、エスエルハージ候への献呈が明記されているので、言わば公認的に初めて出版された。この時点では、交響曲の公認的の出版は見受けらない。
(その3)
 しかし1769年に頃に作曲された弦楽四重奏曲「作品9」、1771年付けの自筆楽譜が現存している「作品17」、同じく1772年付けの「作品20」が、あたかも廷外からの注文に応えるかのように、同時代にたくさんの筆写譜によってヴィーン周辺に広まった。かつ早期に出版されたことは、様々な解釈がある。弦楽四重奏曲は、作品1、と作品2以後、10年近く作曲されていないばかりか、このジャンルの作品は以後もの資料での伝承も確認できない。このジャンルが、エステルハージ宮廷音楽でなかったのは確実であろう。(一方、それに対して、当時かなりのバリトン三重奏曲が作曲された経緯があるのと対照的)
 そうした廷外向けの作品の存在を考えると、1760年代末に、侯爵が廷外からの注文を名誉を考えられるようになり、個別に委嘱の受諾の許可を与えた可能性もある。あるいは、当初の契約条件が事実上反故になった、または、後世が知ることができない契約改訂が行われたなどが想定される。
(その4)
それに対して、シンフォニーは、まだ、公認的な出版がされていなかった。このあたりは、シンフォニーと他のジャンルとのズレや違いがある。第1期の1764年に第2番が刊行された出版では、当時のシンフォニー作曲家24人の一人として、同輩たちと肩を並べた。しかし、その後約20年先に開花するまで至っていない。弦楽四重奏の場合は、廷外の音楽とされた可能性もあろう。
 逆に、シンフォニーに関しては、第1期から2期にかけては、オペラ時代をはさむ。特に第2期当たりからは、作曲家というよりも音楽監督という面が強くなり、シンフォニーの作曲は減っている。減ってはいるが、廷内のみの作曲にとどまっていた。すなわち、廷外となる他の貴族等からの依頼で作曲することが、まだなかった。このため、公認のシンフォニー出版にはいたっていない。 反音楽史 その15で、ヴィーン音楽家協会でオラトリオ トビアの帰還を記載した。この場で手兵を引き連れてヴィーンで成功を収めた。この場でも自己の経歴では、シンフォニーについて、全く触れられていない。当時のシンフォニーの価値も踏まえると、ハイドン周辺では、まだ、注目をされていなかった可能性もあろう。そうなると、シンフォニーの印刷楽譜にいたっては、関心も低いと思われる。

 
  2.生前から人気にあった曲は 初期、中期では20番と41番か?
(その5)
 音楽史1 その92で、ヴィーンのアルタリアが登場するまでは、印刷楽譜は、パリやロンドン等の大都市が先行していた点を記載した。ヴィーンの出版社とそれ以外の出版社のシンフォニーの数を、時系列で見てみると良く分かる。国別の出版社一覧で、横方向は年1764(フランスのリヨンでの最初の出版)−1793年(ロンドン渡英)までの1年ごと。縦方向行(段)は、国別の出版社ごとに記載されている。
 横長で4ページにも渡るために、やや見難い点があるが。最初の2ページは、フランスの出版者のリストになり、左側からの1764年からスタートする。これらのデータは、同じ出版者から、再販でなされたものは、網羅されていない。また、1793年以降に関しても記載がされていない。このため晩年あるいは、没後になってからのデータでない点に注意する必要がある。そのような中でフランスの出版社は、早くから、時系列的に埋まっている。
(その6)
 一方イギリスに関しては、最初は1773年からスタートし、フランスに遅れること9年。出版の数は、フランスの15社に対して8社。ドイツにのアムステルダムとベルリンでは、3社が1767年とフランスやイギリスに類似して埋まっている。
 それに対して、オーストリアでは、ヴィーンでは、アルタリアとトリッチュラの2社のみ。しかも1782年からのスタートとなり、1764年から1781年までは全く空白となっている。この空白を見ると、ヴィーンは、出版で遅れをとっていたかが、良く良く分かる。
(その7)
 生前の1790年までに79曲が出版された。一方、生前に出版されていなかった真作シンフォニーは、15 曲で以下の通り。
1,4,7,12,16,18,19,21,26,27,36,37,40,50,107
一方、それ以外についても、5曲は1社のみから、弦楽四重奏稿で刊行されたにとどまる。第40番までの作品の印刷楽譜の多くは、1769年から75年までに、ヨーロッパ北西部で、もしかしたら一時的に、筆写譜と殆ど同じようなレヴェルで、一時的にひろまっただけのものもあるらしい。 もっとも41番以降のものは、数社以上で出版が多くなり、出版数も複数が大半となった。
(その8)
 初版の数からの人気曲をピックアップしてみると、初期、中期の中で、当時の人気の曲が分かる。これによると、5社から出版されたのが、NO.20と41になる。偶然の一致から、どちらも、C調で4楽章の構成。私の聴取記録でもランクが偶然にも高い。また、この2つに共通しているのは、比較的、分かりやすい点を持ちながらも意外な魅力がある点。
 一方、NO.53「帝国」は昔から人気のあった曲らしいが、93年までは、4社にとどまる。この少し前に作曲されたNo.54−57は自筆楽譜が残っており、1774年の作曲年代が確定している。これらの初版は、77-81の頃1から3社で出版された。No.53の81-82年と大差がない。こうしてみると、ハイドンの人気は、少なくとも、93年のロンドン渡英までは、パリでは人気だったのは、分かるが、初期、中期の交響曲は、まだ、それほど、人気がなかった可能性がある。
(その9)
 印刷された楽譜=当時の人気 の公式が成り立つのは、短絡的な可能性があるかもしれない。しかしながら、当時は、楽器は当時で庶民は、音楽に接する機会が余りなかった。せいぜい、18世紀まではオーストリアなどの諸侯のキリスト教による公国の集合体では、音楽は支配の道具の一つであった。(音楽史 その9を参照) それが、当時は、少しずつ、宮廷音楽が崩壊し始め、市民階級が台頭しつつある時代ではあった。しかし、その数は少なく、印刷楽譜でさえとても高価であった。市民でさえ、音楽を楽しむには、ハイドンのような、新作のシンフォニーなどの曲を取り入れる手段は、印刷楽譜しかない。しかし、高価な印刷楽譜であれば、新作を知る、ましてや、新作を楽器で演奏するなり、聴くことは、とても制限があった。このため、印刷楽譜の数と当時の人気はある程度、相関関係が成り立つと思う。
(その10)
 しかしながら、ここで注意する点がある。当時、演奏されていた音楽は、楽譜にない音楽もあった。「ハイドンは飲み屋でどんな音楽を聴いていたか?」にも関わるが、これらは、印刷楽譜として残っていない。印刷楽譜に残っていなくても、当時は音楽が他にもあったと可能性があるが、現代では、まだ、分かっていない点が多いだろう。
 当時の出版社は、フランスでは中小規模が地方都市単位で立ち上がり、ハイドンの交響曲が少しずつ広がっていった。しかし、地元ヴィーンを含むオーストリアでは、まだ、出版社がまだなかった。かといって、海外から、逆に、ヴィーンやハイドンのいるアイゼンシュタットに印刷された楽譜が入って来たか?
(その11)
  これも、当時は、余り国外からの輸入はなかったと私は推定する。まず、当時の物流を考えると、現代よりもはるかに、発達していない。食物でさえ、自給自足が大半であっただろう。貴族クラスのかなり裕福な人は、楽譜を国外から手配ができたかもしれない。しかし、このような人たちは、手書の楽譜を持つことがステイタシーであり、印刷楽譜には、興味を余り持たなかった可能性がある。やや裕福な市民でも、高い印刷楽譜は買いにくい。物流コストが高いバロメーターとして、旅による移動が当時は、いかに高価であったか? 当時の庶民はもちろん、限られた地域で生まれ、その土地で死ぬ。旅とは縁のほど遠いものであった。裕福な階層でも 反音楽史 その5で記載したが、レオポルト モーツァルト 親子でさえ、1日9グルデンの支出であった。
 となると、音楽史2 その4でも触れたが、少なくとも、ヴィーンを含むオーストリアでは、シンフォニーに関してはの人気は、1793年までは、殆どなかったと推定できる。

 
  3.パリでの人気の根拠
(その12)中野著 ハイドン復活、ハイドン交響曲では、上記その1の第1期、第2期で、パリで人気があったことは、触れられていた。また、ハイドン自身が、パリでおおいに人気がありながらも、エステルハージの中のみでとどまっている、悔しさというか、歯がゆい気持ちなども記されている。それでは、具体的に、どの程度、当時、パリで人気であったかについて、出版等の切り口から調べてみた。まず、ハイドン交響曲や紀要から、以下の様に、既に開花が見られる
1769年 ゴセックによってコンセール・デ・ザマトウゥールの演奏組織が創設(資料が少ない点があり明白ではない)
1772年 リヨン アカデミー・デュ・コンセール 4本のhr.と伴うシンフォニー1曲演奏
1773年 パリ コンセール・デ・ザマトウゥール シンフォニー演奏
1777年 パリ コンセール・デ・ザマトウゥール シンフォニーNo.56演奏 ル・グロの指揮
1777年  同時に、ドゥ・シリ社から出版、翌年シーベル社、リヨンのゲラ社から出版
1779年以降 コンセール・スピリチュエルで シンフォニーの年間25回の前後の演奏会で          5−6回シンフォニー演奏
1782年  コンセール・スピリチュエルで シンフォニーの年間演奏回数は2桁になる

(その13)ここで、作曲されてから、どの程度の時期を経て、各地で出版されたかを、地域別で比較してみたい。あくまで、ロンドン渡英までの時期で、全ての交響曲をピックアップするのも、私では難しい。数点の交響曲を絞るにあたって、自筆楽譜で確定しているもののみとし、フランス、(パリ、リヨン)、ロンドン、ヴィーンで比較をしてみた。同じ国でも複数の出版社から、発行されるデータもあるが、その場合、一番、早い出版年の方を採用した。
 
 No   作曲年   フランス  ロンドン  ヴィーン  ハンブルク   備考1
 パリ  リヨン        
 45 1771   75    85-86      
46   1771  75          
 47  1771  74    89?      
49  1768 71    86       
 50  1763            出版なし
 54  1774 78以降           
 55  1774     89?   86    
 56  1774  77 78以前 85-86      
 57  1774 82以前 81以前 89?      
 61  1768 84  84以降?       83-84  
No.45ー81までで自筆楽譜により作曲年代が確定していないが比較的推定しやすいもの
 ここでは、少なくとも、40番から50番代に関しては、パリのみで出版され、ロンドンではかなり後であることが分かる。上記の表の中で、フランス(パリまたはリヨン)とロンドン、ヴィーン、ハンブルクと比較して明らかに、出版が早いものを黄色いセルで記載してみた。フランスではパリとリオンの2つに分けている。パリの本拠とする出版社はリオンにも支社あるいは提携社があった。逆にリオンの出版社は普通にパリに提携先があった。ここでのデータは、最初に掲載されている都市としてある。

(その14)
 自筆楽譜で確定できないものも、一部を比較してみた。ここでは、1980年のハイドン研究所フェーダーのデータの作曲年代に準じた。(No.72を除く)
 No   作曲年   フランス  ロンドン  ヴィーン  ハンブルク   備考1
 パリ  リヨン        
48 -1769? 84 89?
51 -1774 -82 84?-
52 -1774 74 90?
53 1778/79 86 81-82 83-84
58 -1775 73
59 1766-68? 72
60 -1774 -99 -83 89? この頃出版開始
(1779)
62 -1781 80 84 83-84
63 -1781 79 82以降 81
 64  -1778  82以前  84?以降      
65  -1778   84    90?      
66   -1779  86以前  83  81以降    79  
 67  -1779  86以前  81以降    79  
 68  -1779  80    81以降    79  
69   -1779  82以前    82以降    83-84  
70   -1779  80    82    81  
 71  -1780  79    82    81  
72   1763      84?以降      
 73  -1782  84    86  82    
74   1781  80    81-82    81  
75   1781  79?    82以降    81  
76   1782?  85以前    84  87  83-84  
 77  1782?  85以前    84  87  83-84  
 78  1782?  85以前    84  87  83-84  
79   1784  85    84?    85  
 80  1784  85    84    85  
81   1784  85    84    85  
               
 その13と同様に、フランス(パリまたはリヨン)とロンドン、ヴィーン、ハンブルクと比較して明らかに、出版が早いものを黄色いセルで記載してみた。ここでも同様に、おおむね、60番頃までの曲は、フランスが先行している。しかしながら、60番代の後半当たりからは、ドイツのハンブルクが台頭してくるためか、状況が変わってくる。また、No.73に関しては、ヴィーンで最初に出版された。 音楽史1その94を参照。全体的に俯瞰をしてみると、フランスでの先行が汲み取れる。
 先行している原因は、やはりヴィーンでは、出版がアルタリアを初め、遅れていたことが大きいであろう。紀要では、76-78に関しては、ヴィーンのトリッチュラ社とロンドンのフォースター社の双方に出版権を譲った。

 
  4.シリーズから再販へ  
 (その15) イギリスへの渡英については、機会があれば、また記載をしたい。話の流れから、初期シリーズの楽譜出版と再販に向けて、シリーズ化に向けて触れたい。
ヨーゼフ・ハイドンのシンフォニー 同時代の出版について (1)の続編 1800年前後の出版1の紀要について、この当たりに触れてある。評価の高まってきた個人の作品は、当時からセット販売されていた。その後、社会的に既に単発的に流譜している特定の作品群を系統的に刊行されていった。刊行企画の開始ときには、どう展開していか、見通せないのであって、何年も掛けてそのシリーズに組み入れるべき版下を蒐集していく。勢いそれ自体は、再販であることが多いが、同時に版権所有者との接触によっては、初版の可能性のある最初期の刊行を担うこともあった。
(その16)
 この場合、刊行に向けて各自の努力はあったにせよ、「作曲者、関係者から たまたま入手できたものの出版 から出版者独自の出版事業へ の転換」という視点が重要である。1770年代にパリのシーベル者が刊行した3曲ずつ4集シリーズはその18世紀中における第92番までの出版の例である。同社は1782年に刊行し 第1番 hob-69 が掲載され、その後、1801年まで続けた。20年間で最大規模の35曲が刊行された。
 ロンドンのフォースター社も、シリーズのひとつとして1785年頃から90年頃にかけて、アルファベット文字で順列する23曲を刊行した。その中のNo.88:Vは有名なものになっている。(ちなみに A:71.W:89) 

(その17)
 一方、18世紀の変わり目頃から、社会の変動に伴って、パート譜の購入をする層は、変化しつつあった。当時は、実用目的でパート譜が全盛であった。邸宅は家庭での音楽演奏という枠組みを現実としてシンフォニーが超えてしまうと、パート譜出版のみは、衰退の運命にあった。92番までのシンフォニーも1800年前後にどれかが、全く初めて出版されることはなく、新たに刊行されるとそれは 続版という形をとった。それらを含めて続版自体がやがてなくなり、19世紀のオーケストラ楽譜演奏するには、ストックされたパート譜を使用するか、スコア譜から新たにパート譜が筆写される事態になっていく。 しかし一方で、スコア譜出版も順調に進展していくのではなく、19世紀半ば過ぎまで、時間が経つほど遠い存在になっていく。


(その18) ハイドンの交響曲が18世紀前半に、当時、人気があったバロメーターとして、再販を含めた出版数を調べてみると分かりやすい。交響曲の再販を含めたデータは、詳細を調査すれば、分かるかもしれないが、手元の著作でも、ある程度のヒントはある。中野著 ハイドン復活の 後書きに代えての部分で、全作品の出版に関して記載されていた。これは、交響曲を含めてでのデータであり、舞曲などの曲集も1曲として数えている。ハイドンの作曲数は編曲あるいは、改作まで含めて1665曲ある。そのうち85%にあたる1419曲が現存。
 しかし、現存する1419曲余りの作品は、ハイドンの時代に出版されるようになったのは、50才代以上(おおむね1782年以上)以降の時代であった。当時、出版された作品は、全体の半分にも満たない約600曲に過ぎない。残りの800曲は手書の楽譜で伝えられた。
 これを交響曲にも当てはめてみると、生前(1808年)までの出版されたなかった交響曲は、15曲(その7参照)1419曲の内、交響曲は、約106曲と仮定した場合、まだ出版の日の目があった方かもしれない。それに対して、バリトン三重奏曲など、殆ど出版されなかったと思うので、これらとは対照的であろう。

 
 5.偽作と「つぎはぎ」による作曲者の怒り
(その19)
 シンフォニーのスコア譜の刊行について。これは既に出版されているパート譜のスコア譜化の企画性と、シリーズ楽譜という企画性の両面を持っていた。企画実践の遅れをとった出版社にとっては、この刊行は、起死回生の手段でもあった。それを史上初めて実践したのは、パリのル・デュク社だった。1775年に創業し1779年から、しばらくは活発なハイドンシンフォニーを出版した。パリシンフォニーでシーベル社とアンボー社の挟み撃ちにあって、刊行できる「ドーニ」シンフォニーで盛り返したものの、ロンドン市では、決定的に敗北した。同社のエネルギーはそこからきたのであろう。
 1801年10月22日の新聞に、第57番のスコア譜を公告したが、その譜面を持参した者に、ハイドンは応えている、。発言の伝承は一次資料によるものではないが「いい加減で嘘偽りの、こしらえ物を送ってよこすなど考えられません。捨てちまいたいほどで、私の音楽でこんな仕事をするなんて恥ずかしいことです。」と語った。 ハイドンとは何のコンタクトもなく、時代が変わっても、今だに海賊版を作り続け、しかもそれをハイドンのところに届けさせた出版社に対する怒りがにじみ出ている。
 この版が第3楽章のMenuettoを欠き、第2楽章として第60番の緩除楽章が嵌められているのだから、当然の反応であった。同社はあきらかに、全く同じ構成を持つ、シーベル社の1782年の出版カタログに載っているパート譜を版下として使った。同社のシリーズは1806年にかけて27曲に達したが、その中にロンドンシンフォニーは3曲しか組み入れられていない。57番は、D調であるが、緩除楽章はG調。一方、60番の方は、主調はC調であるが、緩除楽章はG調。両者は同じ調であるので、調性に関しては、違和感はそれほどないであろう。

(その21)
 一方、18世紀の変わり目頃から、社会の変動に伴って、パート譜の購入をする層は、変化しつつあった。当時は、実用目的でパート譜が全盛であった。邸宅は家庭での音楽演奏という枠組みを現実としてシンフォニーが超えてしまうと、パート譜出版のみは、衰退の運命にあった。92番までのシンフォニーも1800年前後にどれかが、全く初めて出版されることはなく、新たに刊行されるとそれは 続版という形をとった。それらを含めて続版自体がやがてなくなり、19世紀のオーケストラ楽譜演奏するには、ストックされたパート譜を使用するか、スコア譜から新たにパート譜が筆写される事態になっていく。 しかし一方で、スコア譜出版も順調に進展していくのではなく、19世紀半ば過ぎまで、時間が経つほど遠い存在になっていく。


(その22) 作曲者自身が怒りを出すのは十分に理解はできる。しかし考え方によっては、生前から海賊版が公然と流通していた証拠にもなる。生前からシンフォニーにニックネームが付く例はあまりに無かったと思う。しかしながら、19世紀になってから、ニックネームが多く付くようになった。この理由はいろいろと考えられようが、ニックネームをつけるほど、多く流通し、人気があった証でもあろう。
 
(その23) 偽作が多かった点についての続き。1799年までに、35曲の偽作のシンフォニーが出版されている。その出版地は、パリを中心とするヨーロッパ北西部が圧倒的に多い。1769年から1775年までに集中していて、その後は点在的である。35曲は真作に劣らず、3社以上から3曲。真作の中期以降の交響曲と比較すると、その割合は多くない。しかしながら、初期の真作とそれほど大差はない。ヨーロッパ北西部で誤用が始まり、何年か先に、ロンドンが追従する形となった。ヴィーンではハイドンとの関係がより密接であるばかりでなく、出版業そのものが後発ということも関係していようが、偽作のシンフォニーの出版は1点もないのとは対照的である。

 

 6.生前の人気作品の調査
(その25)その13と14で生前の人気作品の一覧を自分なりにリストで作成してみた。また、その5では、生前の人気作品は、No.20と41の可能性を記述した。ヨーゼフ・ハイドンのシンフォニー 同時代の出版について (1)18世紀中における第92番までの出版 の中では、生前の各国の交響曲についての、初版の年月日が、偽作を含めて、ホーボーケン番号で列挙されている。しかしながら、作曲順番ではない。
 人気作品を自分なりにリストアップをしてみると考えた中で、まずは、作曲順番に、並べ替えてみることにした。時系列で区分をすると、分かりやすい。今回は、1785年までで区切っている。中野著「ハイドン交響曲」のの第1期から3期によった。また、並べ替える方法は、中野博詩 著 「ハイドン交響曲」のランドンによる順番によった。紀要では、パリの中でも14の出版社のリストが一覧として掲載されている。ロンドンも8つの出版社。各出版社の詳細よりも、その数に私は着眼点とした。
 また、リストでは、フランスのパリとリヨンの列が離れて掲載されているが、同じフランス国内の都市である。このため、パリとリオンは、列を隣同士とし、フランスとして一緒に含めた。初版年では、?マーク(不確定)や、85/86(この場合、85年から86年の間の意味)などの表記がある。? マークは私なりに概観してのランク付けを重視したので、このリストでは無視とした。85/86などの間で表記されている場合、年号の早い方の85年としてデータを列挙した。NO.83のパリセット以降は、既に、人気作品となっているので、ここでは省略した。

(その26)
 さらに人気作品のランクを格付けするに当たり、以下の様に考えた。
ランク1 作曲後、各国からの出版社の総数。1社以下は、他との比較のため省略。
ランク2 上記ランクのうち、概ね10年以内に出版社の総数
ランク3 ランク1とランクに基づき、自分なりに、当時の生前での人気作品。
これらの3つに分けた理由は、ランク1だけでは、生前でも、かなり晩年になってから一気に出版されたものピックアップしてみるためである。ランク1の数が多くても、ランク2で、極端に少ない場合は、作曲当初の一定期間は、まだ、余り人気がなかった可能性があると推定。さらにランク3では、ランク1とランクの2評価を元に、各期の間で、相対的に比較して、当時の人気ランキングを自分なりにつけてみた。◎:一番人気、○:2番人気、△:三番人気。これらの観点から、No.83までの一覧リストを作ってみた。(暫定版)

 hob-
No 
 ×→生前出版な  作曲年
(推定)
 作曲年
自筆
楽譜
の確定
フランス イギリス オランダ  ドイツ  オーストリア   ランク1 ランク2  ランク3
パリ リヨン  ロン
ドン
アム
ステル
ダム 
 マインツ  ヴィーン    
 第1期  (交響曲様式への模索)           
1 ×  57−61              
 37  ×  57−61                        
 18  ×  57−61                        
 19  × 57−61                         
 2    57−61    68                    
 108   57−61    68*                    
 16 ×  57−61                        
 17   57−61   69                     
15 57−61   68*            
4 × 57−61              
10 57−61     -76.90+  68      3 1
32 57−61   68*            
5 57−61   69            
11 57−61   72            
33 57−61   68*            
27 × 57−61              
107 ×  1762?              
3  57−61   69、69          2  0
 20    57−61    79   76.77.90+        4    
 6  1761   -73-.81                
 7 ×    1761                      
 8  1761   -77                    
 9    1732    69                    
 25    1760    68                    
 14    1762    69.70            2  2      
 36  ×  1760                        
 12  ×    1763                      
 13      1763  不明                    
 40  ×  1763  1763                      
 49      1768                      
 72    1763        84+.98        2  0      
 21  ×  1764 1764                       
 22    1764  1764 70.73            2  0      
 23     1764   1764  69                    
 24     1764   1764      84+.98        2  0      
 30    1765  1765  70                    
 29    1765   1765                      
31 1765   1765 -88            
 28    1765   1765  69                    
 34    1763     72                    
 39    1765    73                    
  第2期  (バロック様式の同化)           
 35    1767 1767   71                    
 59    1768    72                    
 38    1767    79                    
 49      1768  71    86        0      
 58    1767    73.74            2      
 26    1768                        
 41    1768    71   -76.76+.90+        4  ○    
 48    1769    84.-86    89        0      
 44   1770-71    -88 -81 84.89         4  1  △    
 52    -1774    74    90        2  1      
 43   1770-71    74    84.89        2      
 42      1771 78+.84     85-        3  1      
 51    1773   -82    84+.98    -87    4      
 45      1772  75.-86    85        3  △    
 46      1772 75.-86             2      
 47      1772 74    84.89        3  △    
 65    1769    84    90        2  0      
 50      1773  84    90        2  0      
 64    1773   -82   84+.98       3      
    第3期  (聴衆への迎合と実験)                      
 54     1774   78+                    
 55      1774      89      86  2  0      
 56      1774  77.78  -78          3      
 57      1774  -82  -81  89        3  2      
 60    1768    -99  -83  89 -83      4      
 68   1775-76    80.-01    81+.85+  79      5      
 66   1775-76    -86    81+.85+       3      
 69   1775-76          79              
 67   1775-76    -86    81+82.85+  79      5    
 61      1776  84.-86    84+.98  83      5    
 53   1778-79    86    81.83  83      4    
 63    -1781   79.-82.82    82.98+  81      5    
 70    1779   80.82.-88     82  81      5 ◎     
 75    -1781    79.-86    82+.98    81    4    
 71    -1780   79.82.-82    85  81      5 ◎     
 62    -1781   80     84  81      3      
 74    -1781   80.-86    81    81    4 ○     
 73    -1782    84.-88    86      3 ○     
 76    1782    -85-99    84   83.84.87  6      
 77     1782   -85.-99     84     83.84.87  6      
 78     1782    -85-99    84     83.84.87      
 79    -1784    85.-99    84.98      85  5  ◎    
 80     -1784   85.-99   85  84      85  5      
 81     -1784   85.-99  85  84      85  5      
* 弦楽四重奏版

 
  7.生前の人気作品も晩年になってからが多いかも
(その27)
 第3期以降、概ね、60番代を一部含む81番までは、アルタリア社等の複数の出版社から、作曲者が公認で出版されている。このため、ヴィーンを含めた各国で、ランク1でも複数以上で出版が明白となる。またランク2の過去10年以内の出版も当然のごとくクリアし、作曲後、程なくしてすぐに出版されている。また76番以降は、5社以上からセット販売がされている。このデータは、この欄には、記載をしていないが、これらも加味すると、出版が生前から多かったことが分かる。当然のごとく、ランク3の総合評価でも、印の付くものが大半となる。
 それに対して、1781年頃より前の出版はどうなるか? この頃より前は、少なくとも交響曲に関しては、作曲者が出版社と殆ど、正式に契約を交わしていなかったであろう。1774年頃の67番頃以降について。それより前は、パリが先行して出版をしていたが、この頃より、ロンドンの方が早くなっている。この当たりから、イギリスでの人気が高まったことが考えられる。
(その28)
 特に、No.53は、フランスよりも2〜3年前に既に、ロンドンで出版され、1781年のロンドンでも演奏会として登場した記述がある。(音楽の友社 名曲解説全集 補完 No.53 参照)パリからの要請で、6曲のパリシンフォニーに至ったのは周知の通りである。しかしながら、ロンドンがパリより先行して出版された理由からも、ロンドン渡英に結びついた根拠にもなろう。さらに加えて No.75は、当時人気の作品のひとつで、91年に作曲者がロンドン渡英のときにも演奏されていた。(井上太郎 著 ハイドン106の交響曲を聴く。 75番のからの引用) 50番代から80番台のシンフォニーの一部はロンドンでも人気だったようだ。
 今後の調査のひとつとして、ロンドンでの演奏会でのプログラムもポイントの一つになろう。ただし、過去のシンフォニーでも、聴衆の好みに応じて、作曲者なり、プロモーターであるザロモンが、手持ちのシンフォニーを選別した可能性もある。(イギリス人が欲するタイプのシンフォニーは演奏されなかったなど) 
(その29)
 それよりさらに遡る第2期の1768年頃〜1781年頃のオペラ時代を含む部分。ここでは、交響曲は、精力的には、作曲されなかったと思われる。1761年に副楽長に就任してから、1768年の楽長に昇格する頃と比較すると、さすがに、出版社数は少しはある。しかしながら、1781年頃以降と比較すると、数はまだ、明らかに減っている。しかも、ランク2でも数が減っているように、かなり作曲年代が経過されてから出版されたものが多い。40番台から50番代は、パリの出版が先行しているのとは、対照的である。
 この中の No.41に関して。ゲルラッハは1768年の作曲年代としているが、この時期に、「ぽつん」と4社から出版され、しかもNo.20と比較して数年以内の発刊となっている。同じ頃の作品も、複数出版されている。しかしながら、発刊時期が遅れている。やはり当時からの人気作品であったと思われる。井上著のNo.41の部分では、ランドンの「このときまでにハイドンが書いた祝祭的なハ長調の交響曲の中で、最も輝かしく、かつ最も成功した作品」とい評価の記述がある。著者の同様に評価をしているが、私も同感だ。

(その30)
 ましてや、第1期の1761年頃以前に関しては、生前は、殆ど出版されていなかったことが分かる。その5で生前の人気作品のひとつは、20番か? と記載をした。確かに4社から出版されている。これに続くNo.10も3社から出版されているが、いずれも、作曲されてから、かなり年月を経てからのものである。その19では、晩年に、シンフォニー全集の出版に関しての怒りを記載した。これは、生前でも晩年(ロンドンでの人気以降でヴィーンに戻ってからの話)のことである。生前でも、渡英前では異なる可能性があると思う。
 すなわち、ロンドンでシンフォニーは大成功を収め、数年以内に様々な編曲の形でも出版された。ハイドンのシンフォニーは、大きく広まった。当時の人気作品は十分に分かる。それに対して、ロンドン渡英前で、パリでの人気が出始めた頃は、まだ、シンフォニーは、それほど、人気が十分でなかった可能性がある。ロンドン渡英後に、さらにブレイクしたのではないか。

 
 8.印刷楽譜の筆写譜の比較
(その31)
 海賊出版が多いときと、作曲家が公認で正式に出版した時期(概ね1781年)からとを比較するには、初版だけでなく再版の回数や、初版、再版のそれぞれの出版社数、あるいは、各発行部数などを含めて調査すると良い。そうすれば、より一層、楽譜のトータルの売れ行きが良く分かると思う。偽作については、かなり解明されて、真作のシンフォニーが選定されている。真作でも自筆楽譜が半分以上、現段階では存在していないので、作曲年代ひとつをとっても確定が難しい。筆写譜等から作曲年代は確定しているものも、解明されてきた。
 それに加えて、当時の人気のバロメーターは、印刷楽譜がヴィーン以外では主体であろう。しかし実際には、これらの調査は、この紀要のデータでも、解明が十分されていないので、難しそうである。また、地元のヴィーンを含むオーストリアは(その45)でも記載をしたが、1780年頃以前は筆写譜がまだ、流行していた。印刷楽譜は、流通が限られ発見されていないものも多い。このため、当時どの程度、実際に人気のあったシンフォニーを調査するには、限界があるようだ。

(その32)
 印刷楽譜だけで、人気の判断がしにくい例として、No.54がある。井上著のNo.54の部分では、1774年の作曲(自筆楽譜あり)だが、fl.とtrp.のない筆者譜が多くあることから、これらの楽器は後から加えられたと記載がある。No.53と同様に、序奏は後から加えられた。
 後から序奏が加筆されるほど、人気の一つではなかったと思う。ハイドンの交響曲は、ロンドンシンフォニーでは、1曲を除いて、全て序奏が付いている。またロンドン渡英前のシンフォニーも序奏が付くことが多い。
 それに対して、No.54の作曲された頃は、序奏は、付かなかった例も多くあるのとは対照的。No.54は、印刷楽譜では、生前時代、パリの1社しか、出版されていない。しかも出版は1778年以降。裏を返せば、まだ筆写譜が広まっていて、かつ人気があった根拠でもあろう。しかしながら、印刷楽譜としては、まだ人気がなかった例のひとつとも解釈できると思う。


(その33) エステルハージ候からの離れた、自由な出版に関しては、その4でも一部言及した。ハイドンの候との新たな契約が1779年1月に締結されている。ここでは、候の許可なく出版しができない条項が削除されている。裏を返せば出版に関しては、ハイドンは自由になった。これは大きな展開であり、従来は、クラヴィーアソナタの候の許可を得た、出版を例外とすれば、画期的なことであった。
 1779年といえば、丁度、その26の表では第3期の後半に当たり、著しく出版が増えて、それ以降も人気作品が続くものと、ほぼ一致している。

 
 9.副題から見られるシンフォニーの人気
(その34) 交響曲の生涯にも記載がしてあるが、「副題は人気のバロメーター?」も、興味深い。ハイドンの交響曲は、副題を伴うものが約30曲知られている。しかし、生前に、付けられたものは、数曲に留まる。以下の通り。(他にもあるかもしれないが)
No.7:昼
No.26:ラメンタチオーネ
No.45:告別
No.69:ラウドン
No.73:狩
No.100:軍隊
上記以外は、没後、すなわち1809年以降に付けられたとされている。いつごろから付けられたかを断定するのは、そもそも誰が命名したのかも、はっきりしていない点も多いと思うので難しい。ましてや、誰が、どの地域から命名が始まったのかを調べるのはさらに難しい。副題(ニックネーム)の由来の調査もある程度、限界はあろう。
(その35)
 副題を持つ約30曲近くは、没後に、しかも様々な由来で命名された。交響曲の生涯にもこの当たりについて記述がある.。ハイドンの場合、その殆どがハイドン自身でなく、後年、多くは19世紀に入ってから命名されている。作曲家の知らぬところで副題が付けられたということは、それが非常に広い範囲で演奏され、親しめられていたことを示す。シンフォニー自体も、作曲者自身の通し番号がない。約100曲近くのシンフォニーが印刷楽譜等を通して、後年広まった。これらのシンフォニーを、それぞれ区別する方法としても、副題が付けられたものも原因と思われる。一番多いD調のシンフォニーなどは、22曲にも渡り、区別がさらに難しい。
 交響曲の区別の方法としては、この頃は、大体、調性のみで、区別をされていたと思う。たとえば、ロンドン ザロモンコンサートのプログラムを見てみると、より明白になる。一例として、副題が初演当時は、殆どなかたため、○調のシンフォニーの記述となっている。副題が、付けられる理由の一つには、交響曲の自律化、大衆化とも大いに関係がある。自律化とは、何度か、このコーナーでも記述をしたが、コンサートの額縁、フレームとしての位置づけからの進化したこと。大衆化とは、限られた階層が中心の宮廷を中心とした会場から、大衆(といっても裕福な市民が中心だったが)へ、聴衆が広がったこと。これにともない、交響曲も一部の階層から大衆に向けて、変化をしたこと。
 
(その36)一方、作曲家が自ら、出版に際し、不特定多数の聴衆を意識していた。副題をつければ、その作品の流布に際して、大きな期待を寄せていた証拠にもなる。1782年にハイドンはヴィーンのアルタリア社の手紙で次の様に記している。アルタリアはハイドンの交響曲No.69のピアノ編曲版を出そうとしていた。ハイドンはそのフィナーレは、ピアノ編曲には向いていないと考えた。「ラウドンという名前を付けるほうが、フィナーレを10通り書くよりも、ずっと売れるであろうと」述べている。ラウドンは当時のオーストリアの有名な将軍ラウドン元帥に因んでいる。


 10.現代の録音と副題のシンフォニー
(その37)
副題と、録音された交響曲のとの関係も面白い。クラッシックCD感想メモの再度で、N マリナーが過去にハイドンの録音した経緯が以下のサイトに記載してある。マリナー アカデミー室内管によるハイドンの交響曲No.6〜8について、このサイトで、かつて1970年代に、録音した経緯が書いてある。ここで、マリナーは、全集の録音は行わず、フィリップスレーベルからニックネームのみのシンフォニーのみで発売した。ドラティの全集版への対抗としての記述がある。たしかに、同じ時期に全集として販売されたら、片方は、負けた場合、売り上げが減るであろう。

http://clamemo.blog44.fc2.com/blog-entry-758.html

マリナーのCDも数枚、所有しており、ごく一部であるが、聴取記録に記載をした。モダン楽器であるが当時としては小編成で、速めのテンポで、キリリとしまったニュアンスが特徴と思う。