ハイドン交響曲通しNo. 1-10

１．始めに
（その１）　石井著　反音楽史で、ハイドンを含む、西洋音楽の中で、クラッシック音楽の作曲家、演奏形式、聴衆、ドイツと他の外国の関係など、様々な記述を自分なりに記載をしてきた。「反」と言う文字を含むタイトルの通り、それまでの音楽史とは、反する意味合いのタイトルになっている。反するというとは、相手方がいることにもなるだろう。
　相手方となると、従来からの音楽史の解釈なり考え方などが、これに相当する。ハイドンに関して、この共通コメントでも、自分なりに今まで記載をして来た。このコメントでは、どちらかと言うと、従来からの音楽史の視点で記載をして来たように思う。この従来からの視点でもう一度、新たに音楽史の中で、ハイドンを中心に、もう一度、振り返りの意味合いも含めて再度、まとめ直してみたい。
　（その２）まとめ直す視点としては、やはり柱となる著者が必要である。「音楽の友」社の名曲ライブラリー「ハイドン」を今まで、各交響曲で参考にして来た。これを外す訳にはいかない。この本の監修者の一人であり、冒頭のハイドンの生涯の欄の執筆者である「大崎滋生」氏が、やはりメインであろう。これ以外に主に執筆者でもあった、中野博詞、大宮真琴のお二人は、既に故人となっている。
（その３）井上著「ハイドン１０６の交響曲を聴く」の中で、モーツァルトの交響曲との違いの理由のヒントに、同氏の「音楽演奏の社会の社会史」に記述があった。すなわちモーツァルトの交響曲は、どこでもできる平均的なものであり、奏者に特別な技量を要求することがない。モーツァルトは、特定の楽団を持っていなかった。彼の音楽は、そうぜざるを得なかった。それに対してハイドンの交響曲は、（もちろん全部ではなく、彼も次第に、平均的な楽団で演奏可能な形で書くようになっていくが）、とりわけ若い頃の一連の交響曲は、ひとつひとつが楽団員との連携プレーによって成り立っていた。
　大崎滋生氏の著作を中心に最近、読んだ本（主に、音楽演奏の社会史、オーケストラの社会史、楽譜の文化史）を最近、一読した。この中で、ハイドンの生涯やその周辺を取り巻く環境（エステルハージなどの宮廷を中心とした当時の楽団の様子、演奏されたホールなどの音響を含めたハード面、楽譜出版から広まっていったハイドンの人気などを視点にして再度、執筆をしてみたい。(タグとして2014年6月20日とする）

２．エステルハージ楽団でのチェンバロの扱い
（その４）　交響曲、聴取記録　では、今まで、３者の演奏を一通り、自分なりに記載をしてきた。その中で、ドラティとデイビス盤では、鍵盤楽器であるチェンバロが入っている。一方、フィッシャー盤では、初期の交響曲から、チェンバロが入っていない。この鍵盤楽器が入るか、入らないかによって、曲によっては雰囲気が、かなり異なることがある。　一方ホグウッド盤は、交響曲全集までは現在、至っていないが、こちらもチェンバロは、最初期から入っていない。このチェンバロの有無については、かねてから気になっていた。特に、古楽器を使用している、ホグウッドでも採用していない。また、ブックレット（英語）の部分を少し、目を通してみると、やはりチェンバロは使用しなかった。これらに関連して、ウエブスターの記述もあった。ホグウッドがチェンバロを採用しない点は、どうもこのあたりに関連があると思っていたところ、丁度、「音楽演奏の社会史」　の冒頭の部分に、チェンバロを採用しなくなった経緯が記述をされていた。
（その５）チェンバロを採用していた経緯の一つは、古楽器編成団体は、しばしば、チェンバロ奏者として出発していた人が組織していた関係もあった。このため自ら指揮をしていた。通奏低音なるものをチェンバロで派手に、奏して指揮をしていた。しかしながらランドンを除いて、ハイドン学者によれば、チェンバロは参加していなかったのが、大半の意見であった。しかもランドンにしても、もう、30年以上前の見解であって、その頃は誰もが通奏低音とういうものを、通り一辺倒でしか考えていなかった。また、今は、ランドンも自分の主張を繰り返すことはないと思われる。
　ハイドンの自筆スコアには、Bassoと書かれている。これは通奏低音と考えてよいのか？　という問題でもあった。これは、通奏低音とは何かと言う根本問題も改めて、考え直すことにもつながった。ホグウッドは、音楽学者ザスロウを顧問にしたモーツァルトのシンフォニーの全曲録音に続き、今度はハイドンに取り組んだ。同じコーネル大学のウエブスターを顧問にして、チェンバロを採用しない録音を開始した。（ザスロウは、モーツァルトのシンフォニー　東京書籍　刊行の執筆者でも知られている。モーツァルト以外に、ハイドンの記述もある）（このあたりは後に触れる）

（その６）演奏慣習の問題は、演奏の場、その音楽の社会的機能、ジャンルそして、その宮廷などの経営規模、その演奏時の特殊事情など、様々な要素が絡んでいる。宮廷楽団の種類や規模は、同氏の「オーケストラの社会史」にも詳しく記載され、今後も追々に記述をしていく予定であるが。まずそもそも、エステルハージ宮廷楽団に、最初からチェンバロ奏者が確実にいなかった根拠として、楽士としてのリストになかった。ハイドンが赴任をした頃の当時の、宮廷楽団は、総勢１２～１３名であったことが判明している。これにチェンバロ奏者が明記をされていない。宮廷予算は、当時から棒給などの細かいデータがかなり残っている。
　仮に、もしチェンバロ奏者が入っていたとしても、自筆楽譜が残っているNo.45「告別」交響曲でも説明がつかない。このFinaleは、一人ずつ、奏者が退席していく。そこには無論、チェンバロは記載されていない。また最後はヴァイオリン２名で終了する。ハイドン自身が配下の楽士たちを残して先に消えることはありえないとすれば、ハイドンと事実上の次席コンサートマスターのトマシーニが残っていると考えるのが妥当であろう。

３．作曲技法の変遷
（その７）音楽史を考えていく中で、従来は、作品の歴史、名曲の歴史、技法の変遷史に注目されてきた。グラウトの「西洋音楽史」などによると、音楽史の教科書に書かれているのは、次のようになっている。ポリフォニーから、３声のモテット、リカチュラーレ、フーガが形成された。古典派の時代になってソナタ形式は、人々によって育てられ、そして十二音法ができて・・・。「まだ、何もさした特徴もないプリミティブな段階から、次第に主題労作が見られようになり、それをハイドンが完成させ・・」という進歩史感も書かれている。しかし音楽の進歩とは何か？　この様に鳴り響いた歴史、すなわち、当時の演奏には、余り関心がなかった。
（その８）　音楽の歴史に関して、それを当時の人々がどの様に聴いたのか？誰が演奏したのか？　何のために作曲されたのか？　それが当時の人々のどのような意味を持っていたのか？どんな楽器でどの様な響きであったのか？　それがどの様に移り変わっていったのか？これらが音楽の歴史である。だから、そのためには、楽器学、楽器の歴史の研究、何人で演奏されたのか？どんな機会で演奏されたのか？なども研究されなければならない。このため従来の作品の歴史、ましてや名曲の歴史、そして技法の変遷史から脱却する必要がある。このあたりで、従来から見方を変えていく必要な視点は、反音楽史でも同じ様な考えが当てはまる。すなわち、シューマンが提唱した譜面審査が典型的な例である。
（その９）ここでどの様な中で演奏されたかを中心に記載をしてみる。今でこそ録音機械が豊富にあり、自宅なり公共施設なり、好きなときに音楽を繰り返し聞くことができる時代になった。しかし１８世紀の人々にとっては、音楽はどうだったか？　夜の暗い闇を紛らわすために、宮廷の中には夜ごと、数千の蝋燭が灯された。（蝋燭自体も当時、庶民には、とても高かった）　特にパーティのときなどには、点灯作業は１０数人の火付け係によって、数時間もかかったという。ガラス細工の豪華なシャンデリアは光をより美しく照らす装置であった。そして音楽がなければ、沈黙の闇であった。こうして宮廷生活は光と音で飾られた。そういう時代における音楽のありがたさは、何でも聴ける時代とは、まったく意味が異なっていた。
（その１０）　また、音楽は支配の道具であり、一般の人々は物書きもできず（当時の識字率が低かった）、黙って支配者に従っていた。そして、ただ信ずることのみ要求された。自分の頭で考えることは限度があり、教育も与えられていなかった。（教育は、せいぜい修道院だけで実施されていた）そういう人たちに教会の教養や聖書の教えを説くために、説教が行われた。言葉によってよりも、音楽を伴ったほうが、はるかに効果的であり、音楽は、抗しがたいものであった。

（その１１）　また祭典は、社会的秩序を確認する機会でもあった。誰が支配者なのか、その夜の祝典オペラは誰のためのものであって、何を祝うかが明確にされた。祭典の開始はファンファーレで告げられる。ラッパは権威の象徴であって、それなしには宮廷社会は、成りたたなかった。ラッパ手の教育は、社会的に極めて規制されていて、厳しい徒弟制度によって、その教育が行われた。ラッパが王権の象徴だったからである。たとえば、バッハのカンタータにおいて、神の国というくだりには必ずラッパが出てくるが、それは神とはすべてを支配する王だったからである。
　ラッパ手が厳しい徒弟制度である点に関連して、その待遇にも差があった。同じ宮廷の中でも宮廷楽団は、ラッパ手とは所属が違っていた。宮廷楽団（ここでは、さらに細かい分類方法も考えられるが、あえて一つのくくりにする）は、普段は王に随行はしていたものの、宮廷楽団の中に属していた。正式に雇用された楽士は、そこそこの待遇ではあった。しかし正式雇用までも、無給に近い待遇の見習い期間を経るなど、大変な苦労があった。　一方ラッパ手は、宮廷楽団とは異なり、軍隊に所属をしていて待遇もよかった。しかも世襲制度もあいまって、楽士とは立場は断然よかった。
（その１２）こうしてみると音楽の社会的機能は、当時と今は比べ物にならないほど、大きかった。たとえば１８世紀の百科全書と今日の百科辞典を比較してみると良い。当時は、テクノロジー、医学、宇宙などの科学に関する項目は余りなかったであろう。これに対して、当時の支配をしていたオーケストラは、おそらく現代人にとって、航空機と同じくらい、重要な関心事だったと思われる。現代では、音楽がなくても、日常生活は成り立つ。コンサートにも行けるが、テレビでも視聴できる。音楽家の社会的発言力は低い。何か事件が起こったときに、音楽家の談話が少し取り上げられる程度である。
（その１３）「１８世紀以前にも、過去の演奏が取りあげられのか？」　バッハが２世紀後に、パレストリーナを取り上げた。ア・カペラの合唱曲に、通奏低音をつけ、管楽器、オルガンを加えて、その時代のあったカンタータと同じように仕立てた。しかも宗派を超えていた。それより以前は、過去の作品は演奏される機会はなかったのか。１８世紀まで、鳴り響いていたのは、現代音楽ばかりで、過去の音楽はまったく、あるいは、例外的にしか顧みられなかったのか？その答えは単純ではない。
（その１４）たとえば１３世紀に、トゥルバドゥール（フランスから発生した音。吟遊詩人とも訳されることもある）の写本がたくさん作成された。最近の研究によれば、それらの音楽は、その時代に創られたのではない。「過去の音楽は現代音楽である」という意味では、その時代の音楽ではあるが。その時代に初めて出現したのではない。トゥルバドゥールの伝統は、もっと古く、それまではその音楽は書かれないで歌い継がれてきて、それが書かれるようになったのは、もっと古く１３世紀だった。あるいは、ミュンヘンの宮廷において、１５７０年代のラッスス（１５３２－１５９４）の聖歌隊は、たしかに彼自身の作品も歌っていた。しかしそれだけでなく、ジョスカン（１４４０年頃ー１５１１）の作品も歌っていた。ジョスカンは、しかも彼らの重要なレパートリーであった。このように、数十年前の音楽を演奏するのは普通であった。その中に少しずつ、新しいレパートリーが入っていった。

４．多作の背景　ブルクとシュロス
（その１５）それにも関わらず、１８世紀という時代は、それまで以上に新しい音楽を要求し始めた。モーツァルトは社会的要求に答え、次々と新しい音楽を書いた。J.S.バッハ（１６８５－１７５０）は、少なくともライプツィヒ時代の初めの３年ぐらいは、新しい教会カンタータを毎週のように書いた。テレマン（１６８１－１７６７)は、毎週カンタータを書くというプロテスタント・カントルの課題に最も正面から取り組み、少なくとも１７５０曲という、膨大なカンタータを書いた。しかも１６００曲は現存しているが、失われた作品も相当量あったと思われる。クリーガー（１６４９－１７６０）は、実は、それ以上に約２２００曲を書いたとされているが、現存しているものは、極端に少ない。したがって教会カンタータの創作量で2番目に多いのは、グラウプナー（１６８３－１７６０）ということになる。彼は、約１４００曲を残した。それに比べれば、バッハは、たかだか２００曲程度ということになってしまう。
　ただし、この場合、全部が残っているとは考えるべきでない。音楽生産量として考えてみると、確かに昔は次から次へと新しい音楽が演奏されたよう思われる。そして、これまでの音楽史書にもそのような記述がされてきた。しかし、これに加えて、過去の作品も演奏されていた可能性もある。バッハは、2世紀後に、しかも宗派を超えて、パレストリーナを取り上げた。
（その１６）　１８世紀の時代は新しい音楽に関して他の世紀を圧倒している。この原因は、ヨーロッパ各地の宮廷生活が絶頂に達し、あらゆる分野で競って新しいものが求められ、また各宮廷は、それができる財力を持ち始めた。しかも宮殿の建設ラッシュが起こる。そこは音楽が演奏されるための特別な部屋が作られ、音響効果が緻密に計算されている。たとえば、他の部屋と天井の高さが同じでも、残響時間がまったく異なるので、宮殿を見学すると音楽室の存在は、たちどころに判明する。そこでの奏楽のために、楽団が雇用された。
（その１７）　宮廷が大きくなった背景には、その前の歴史がある。１８世紀のドイツは、城の建設ラッシュであった。アウグスブルグの宗教和議（１５５５年）がなされ、プロテスタントが公認され、新旧両派の共存がが確認されたにも関わらず、宗教対立から３０年戦争の泥沼があった。そしてようやくヴェストファリア条約（１６４８年）が結ばれて、もやは宗教のために血を流さなくてもよい時代が来た。それまでドイツ語で「城」の意味の「ブルク」は、たいてい、丘の上にあり、領地争奪のための城（ブルク）であった。そこには、大砲や物見台があり、敵がやってきて、立てこもっていた。
（その１８）　その後、「城」のシュロスが建てられた。シュロスは平地で、その周りには堀があり、本来は敵に備えてのものであったが、１８世紀になると、その堀は、料理のためのカモやアヒルが飼われた。
　シュロスのモデルになったのは、ヴェルサイユ宮殿で、ドイツのとりわけライン河やその支流の流域は気候は良いし、ぶどうや麦を初めとして作物が豊富に取れた。その復興は早く、多くの宮殿が建てられた。３０年戦争後、最も早く復興したのはハンブルクで、その３０年後、１６７８年には、定期的なオペラ公演が始まった。しかしまだ宮廷で、オペラができる状況ではなかった。１８世紀に入って、少しずつドレスデンなどに見られるように、宮殿と宮廷楽団に加えて、宮廷オペラ劇場が完成されるようになった。宮廷楽団や宮廷劇場を作ることが、富の象徴となり、宮廷のの権力の誇示となっていく。１８世紀には、音楽の需要が飛躍的に伸びていった。ドイツが、フランスに倣っていたのは、言語にも現れている。庶民は、地元のでは古くからあるドイツ語でで会話をしていた。しかしながら、貴族たちはフランス語が公用語となっていた。

５．アマチュア音楽の増大
（その１９）　1756年にL.モーツァルトは、「ヴァイオリンの演奏技法」を出版する。その頃には、同様にロンドンで、ジェミニアーニの「ヴァイオリン演奏技法」、１７５２年にベルリンでクヴァンツの「フルート演奏指導の試み」、１７５３年にエマヌエル　バッハの「クラヴィーア演奏者の試み」なども出版される。演奏慣習の初期段階においては、当時の演奏様式を復興させるには、これらを手がかりにしなければならないと考えられていた。しかしこれらは、アマチュア向けの本であった。プロの音楽家は、どの様に演奏したのかと、教えてはくれない。L．モーツァルトの書いた序文には、「教養につくことができない状況にある貧しい人が、この様な入門書を最も必要としている」とある。
　また、当時はソロ奏者よりもリピエーノ奏者（ソロ奏者ではなく、全体で演奏する奏者）の養成を主体においていた。つまりこれらの教本は、社会が要求したものであり、彼らは、みな社会的使命感をもって書いた。それがヴァイオリン、フルート、鍵盤楽器、声楽を学ぶ人々のためであった。その当時、アマチュアは、何をやっていたかも、示している。その当時は、オーボエはプロの楽器であった。トランペットは、貴族の邸宅で吹いていた。
（その２０）　しかしながら、人々の音楽要求が質的に変わり、音楽教育の目的も変わった。かつては、教会や宮廷の行事進行の引き立て役として楽士が養成された。それが市民に保障された職業選択の自由に則って、市民コンサートで活躍する職業的音楽家の教育のため、また、市民の趣味は教養を身につけるためになった。また各地で音楽学校が設立されるようになった。
　この例が、楽譜の出版と記載方法にも関連している。ここでは、A．コッレッリのヴァイオリンソナタ作品５の３の第3楽章と、モーツァルトのピアノソナタ第14番　第２楽章の例が掲載されている。前者は、装飾などの細かい指示が全く、記載されていない。演奏に際しては、装飾が付されていることを前提に、簡素な譜面となっている。一方、後者は、作曲法の知識がなくても、通奏低音の数字が不案内な人にも記載がされている。すなわち、演奏に際して装飾が付されている。
（その２１）　楽譜は書いてある通りに演奏すれば、一応、誰でも音楽になるレシピのごとくになっていった。即興で演奏するプロはいなくなった。ピアノフォルテが登場すると、あらゆる発想記号が案出された。楽譜は、演奏指令書としての性格を鮮明にしていく。１９世紀の初めの２０－３０年の間に楽譜に書かれる記号が飛躍的に増えた。それは、市民たちが弾くようになったからである。これは、ピアノフォルテの普及も起因している。

６．当時の難解な音楽
　（その２２）音楽の分類の仕方には、２種類ある。ひとつはドイツ語でいうところのErnestーMusik　「まじめ音楽と、Unterhaltug　Musik　「娯楽音楽」である。１９世紀に最もよく売れたのは現代音楽で、それも、まじめ前衛音楽の方でなく、新しく作られた娯楽音楽であった。１９世紀の楽譜出版物を少し精査してもすぐにわかるのは、おびただしい量の「捨てられた」音楽の存在である。歴史は統計的に見る必要がある。それをくぐり抜けた「価値あるもの」に眼をむけるべきだといわれる。なぜなら、さもないと１９世紀に最も好まれていた音楽はワルツなどということにもなる。しかしこの議論は、全く説得力はない。ここで「価値あるもの」とされているものは、そのような評価が定まっているという意味に過ぎない。何が価値のあるかについては、私たちが、後世に改めて判断をする。となれば過去の現実に、眼を塞ぎ、既に「名曲」とか、「大作曲家」という評価を得ている音楽だけについて、議論することは、音楽史の研究課題とは限らない。
（その２３)　「まじめ音楽」でも、極め付きに難解なものから、限りなく「娯楽音楽」に近いものまで大きな幅があった。１９世紀のコンサートの実態がその例である。メンデルスゾーン（１８０９－４７）のシンフォニーなどは、難解な音楽の典型で、おいそれとは演奏されなかった。（演奏時間が長く、迷路を彷徨うものであった。）それにひきかえ序曲を演奏する機会は頻繁であった。序曲はシンフォニーの縮小版、一般向け版であり、標題を持っていて分かりやすい。
　　１８世紀前半の人々は、ベートーヴェンの作品を十分に消化していないことが分かる。演奏され続けたのは、ごく限られたレパートリーでしかなかった。作品１０１のソナタを１８４３年にクララ　シューマンが演奏した。このとき彼女は、父親にあてた手紙の中で、「この曲はまだ、公開で演奏されたことがないと思います。」と書いている。ベートーヴェンの第５ピアノ協奏曲は１９世紀の後半に、このジャンルで、最も演奏される作品のひとつになる。しかし、この作品のスコアは、１８５７年に出版された背景もあった。（その２４）　クララ　シューマンはベートーヴェン演奏家のパイオニアであった。夫の死後、彼女はようやく、安楽になり、その頃から毎年イギリス演奏旅行をする。やがて１８７２年に設立されたフランクフルト音楽院の院長ラフに招聘されて、教鞭をとりバッハ、ベートーヴェン、ブラームスなどの音楽を中心に教えた。
　当時の音楽学校は、裕福な市民の子弟が学んでいた。ピアノという楽器を習うのは、当時も圧倒的に女性が多かった。それに対して、男性は、ヴァイオリンを学んだ。その前の１８世紀においては、収入を上げるという観点だけから音楽家の職業を選ぶとすれば、男は、カストラートになるか、ヴァイオリンの名手になるかのどちらかであった。チェンバロ奏者になるのは、おおむね、あまり優秀でない音楽家であった。１８世紀の終わりに、ピアニストとして生活が成り立つかどうかは、まだ分からなかった。そのため、ピアノを習うのは、そして生活に心配がない、上流階級の女性たちである。モーツァルトのピアノの弟子たちは、ほとんど全員が女性であった。唯一の男性がフンメルであったとされる。
　（その２５）また作曲家たちが、ソナタを書いて捧げる相手は、みな女性であった。それに対して弦楽四重奏曲は、男性のパトロンに捧げられる。１９世紀になっても、ピアノは女性の楽器という伝統が続いた。オーケストラメンバーが全員男性というのも、こうした伝統の背景がある。
　音楽学校の設立目的は、初めからはっきりしていた。フランスでもドイツでも音楽学校に求められたのは、宮廷楽団に、そして後には、国立や私立のオーケストラに奏者を絶えず供給することであった。楽器の奏者の養成だけでは、音楽学校の経営は成り立たなかった。家庭楽器の極めつけであるピアノを学ぶ。ブルジョア階級の奥様予備軍の大量の女性たちが、音楽学校、大学教授、弁護士、経営者といった社会的地位の高い人物となって、こうした音楽的要素のあるインテリたちとなった。こうした人たちが、コンサート協会、合唱協会を支え、聴衆として彼らの娘たちも、また、音楽学校でピアノを学び、同じことが繰りかえされる。このようにして１９世紀ヨーロッパ市民音楽文化が形成されていった。そして彼女たちが学んだのは、バッハの平均律ピアノ曲集であり、ベートーヴェンのソナタであった。
　こうして音楽学校での教育レパートリーに載った作品がスタンダードなメンバーになっていく。これによって儲けるのは、バッハやベートーヴェンではなく出版社であった。楽譜出版社が急成長を遂げた。

７．ヨーロッパ文化の優位
（その２７）　ヨーロッパの世界観は１８世紀から１９世紀にかけて、大きく転換した。近代ヨーロッパ社会の大きな特徴が、市民社会と歴史主義的な思想であった。それ以前は、中世以来、唯一、絶対の神を信じているキリスト教的世界観が支配していた。それにも関わらず、その解釈によって、しばしば激しい宗教対立が生まれ、宗教戦争が起こる。そうした争いを通して、ヨーロッパ社会は、次第に成熟し、思想信条の自由、民主主義などが模索されるようになった。１５５５年　アウグスブルク宗教和議で、プロテスタント信仰が認められたことは、大きな転換点であった。３０年戦の後、宗教的対立に終止符が打たれる。
　その後、１６８３年のトルコによる最後の侵攻があり、ヨーロッパは、外部の世界に勝利した。ヨーロッパに近代を性格付けるもうひとつの重要な要因は、大航海時代以来、ヨーロッパ外の世界に目を向いたことにある。これは冒険心とかいうよりは、現状打破の差し迫った選択ではないかとも考えられている。最初に外に出て行ったのはスペインとポルトガルで、これらの国々はヨーロッパ内部へ向かう条件を持っていなかったため。そしていち早く植民地から富を獲得したスペインの国力は、１６世紀から１７世紀にかけて一時的に高まった。
（その２８）こうしたいわゆる地理上の発見を通して、ヨーロッパ外の世界が認識され、ヨーロッパ内部の対立の克服によって、事物を相対的に認識するという考え方が生まれた。さらに科学的思考も背景にして、ヨーロッパには徐々に合理主義というものが芽生えてくる。しかし思想のこうした相対比は、現実にはまた絶対比を導いた。すなわち異文化を知ったことにより、相対的な思考をせざるを得なくなった。
　　しかしそれによってヨーロッパの優位性は紛れもない事実として確認された。他の世界を見ることによって、他の全ては良いものに向かって進歩して行くと言う進行、すなわち「進歩史観」が支配するようになった。それを先取しているのは、自分たちであるという、自らの文化に対する自信が生まれた。それによって、その成果を他の世界に進出しようとした。また、他の文化を破壊し、世界のヨーロッパ化を図っていく。
（その２９）　合理主義は通信や当然の帰結として、処女受胎や聖書のその他の教えの否定につながっていく。１８世紀は一般に啓蒙主義をいわれるが、それは上からの一部のものであった。民衆の間は、なお迷信が支配する世界であった。市民が真に啓蒙されていくのは、学校で文字を書くようになった１９世紀以降になる。
　これまでの教育機関は、教養を教えるために、教会が儲けた学校で、人々は、そこで文字も付随的に教わっていた。それが１９世紀には、国家が税金を使って人々を教育するようになっていく。それによって、この時代には知的活動に参加する人々の数が飛躍的に伸びてくる。その活動は、文学、科学的研究、音楽活動であった。

８．コンサートプログラムの変化
（その３０）　１９世紀初めまでの音楽会は、娯楽であって、私たちにとっては、サーカス鑑賞と同じようなもので、おしゃべりをしたり、アイスクリームをなめながら音楽を聞いていた。たとえば最初にシンフォニーの第１－３楽章が演奏され、その後、歌手が出てきてアリアを歌い、次にピアノトリオ、オーケストラによる序曲、コンチェルト、歌曲が続く。そして最後にシンフォニーのフィナーレなどといった、混沌としたプログラムが組まれていた。それはまるで、テレビのバライティー番組のようであり、サーカスのような出し物であった。いろいろな編成の音楽が、出演者を次々に変えて連続してこそ、音楽会は楽しいものとされた。これは、交響曲の生涯にも記載がされているし、かつて、モーツァルトの演奏当時のプログラムとして発売されたことも記憶している。
（その３１）　モーツァルトの例では、ザスラウ　モーツァルトのシンフォニーからも、ハフナー交響曲の部分で記述がある。１７８３年３月２２日に、ヴィーンのホーフブルグ劇場でのコンサートは、記録が残り好評であった。モーツァルト自身の父親へ、宛てている手紙にも記録が残っている。またハンブルクの「音楽雑誌」に発表された報告記事によっても、その大筋が確認できる。このプログラムは、モーツァルトがヴィーンで開いた音楽会に典型的な内容であった。そこからはシンフォニーが一夜の音楽作りに枠をづける前奏および後奏という、いつもながらの機能を果たしていた。１２のプログラムの内、最初は、ハフナーシンフォニーの三楽章。その間に、ピアノ協奏曲415、アリアが演奏され、再度にハフナーの最終楽章が演奏されて終わる。モーツァルトは、シンフォニー楽章に、行進曲やメヌエット、コンチェルト楽章を加えたオーケストラセレナードと同じように、考えていたのかもしれない。
（その３２）　実際、モーツァルトは、コンサートとは、冒頭と最後をシンフォニックな額物で飾った大きなセレナードのようなものだと考えていたふしがある。モーツァルトの同時代人たちは、オペラに対してもおなじような見方をしていた。当時のオペラは、台本によって、おおよその枠組みこそ設定されていたものの、アリアや舞曲、その他の楽曲に替えたり、削除したり、入れ替えたりして構成を変えることは、自由に認められていた。このような追加や削除はパスティッチョ(混成作品）だけでなく、ほとんどのオペラにおいて、当時は行われていた。

（その３３）　一方１８世紀の音楽ジャーナリズムにおいて、ある作曲家の作風などが言及されるのはことがあっても、作品が特定されて話題になることは殆どない。作品が固有名詞を伴って論評されるのは１９世紀になってからである。よく話題に挙げられる作品には、ニックネームがついた。ハイドンの交響曲は、その典型であり、大半は１９世紀になって、ニックネームが付けられた。
（その３４）
　パリの音楽辞典編集者として知られるフェルティス（１７８４－１８７２）は、古楽の復興者として知られている。彼はベルリオーズの新しい傾向に眉をひそめ、ハイドンはモーツァルトを礼賛したばかりでなく、歴史演奏会（現代の名曲演奏会のようなもの）を開催した。このコンサートは、毎回、オペラの歴史、１６－１７世紀の音楽といった特定のテーマによって演奏が行われ彼が解説した。ヴィーンでは１８３２年に、音楽史を書いたキーゼヴェッターが古楽の復興者として音楽史を書いたり、音楽事典を編纂したり、古楽の演奏会を開催した。かれは、自宅でも合唱団を主宰し、そこでも過去の音楽を演奏した。
　（その３５）　名曲演奏会は、当時のこうした音楽の聴き方に対しての反発でもあった。つまり、ただ美しい音楽を聴いているだけでなく、真に理解され静かに集中して聴くものになった。作曲者と作品名、さらには、それらのプロフィールを記載したプログラムが印刷されて配布されるようになって行く。誰が作曲した、何であれ、音楽がなっていればよい時代から変化した。そこでは、同一のジャンルのものだけが演奏され、しかもそれがどの年代順に並べられた。音楽を理解するには、そのジャンルがどの様に発展してきかたも欠かせないポイントにもなった。こうして、ヴァイオリン・リサイタルとか室内楽の夕べなどが次第に形成されていく。演奏曲目を年代順に並べる伝統は、今でも残っている。また音楽における研究も、大作曲家の伝記が量産される。ポールによるハイドン伝（１８７５－８２）も、その頃に発刊された。これらの伝記は、今日まで、作曲家の研究の基礎にもなった。
（その３６）　名曲演奏会が生まれたことは、音楽会の聴取にも影響した。すなわち片手間に聴いて楽しむのではなく、物音をたてずに、全ての感覚を舞台の一点に集中して、精魂傾けて理解すべき対象となった。すなわち、音楽の背後にあるものを読み取らなければならないという、今日の考えが生まれた。過去の作品は、過去の人々のメッセージであり、美的な対照であるばかりでなく、私たちの歴史の相対関係を理解させるきかっけの考えにもつながった。バッハの作品はバッハの作品として理解されなければならないから、新作と自作の区別は重要な問題であった。ひとつの作品は、その作曲家の創作全体の中に位置づけられて、初めて真の意味をもつのであるから、創作全貌が把握されなければならない。そのためには、作品カタログが作成され、伝記が書かれる。モーツァルトのカタログを作らせたケッヒェル（１８００－７７）が、それを完成させたのは、１８６２年のことであった

9．ドイツのナショナリズム
　（その３７）バッハ復興の背後には、ヨーロッパ文化の優位からドイツのナショナリズムに向かって点がある。１９世紀、ドイツは、チェコのプラハ人口の約２５％をドイツ人が占めていた。そして、その地域に住む人々のドイツ文化政策が採られている。少数者のドイツ人が、プラハの町を支配していた。たとえば、役人になるにもドイツ語が、できなければならなかった。
　　それに反発するチェコ人たちの民族主義が起こってくる。そしてそれと対抗するドイツ人のナシュナリズムが登場する。ドイツ人も思想的に武装しなければならなくなった。ドイツ文化の優位性が強調され、その歴史的必然性が確認される。また、過去の音楽の復興が底流にあった。１９世紀は、科学技術の始まった時代で、多くの発明がドイツ人科学者でなされる。ドイツの大学が、それを担った。貧民層に教育をして軍隊に入れた。食べさせて愛国を植え付け、さらに対外的な戦争をしかけることによって、まさに富国強兵政策によって国家統一まで成功させた。

10．筆写譜の意義
（その３８）　現代は、印刷技術が進歩し、ネット時代となると、印刷物もやや、少なくなっているかもしれない。過去は、印刷楽譜がかなり出回っていた。ハイドンの生きていた18世紀後半から１９世紀前半は、筆写譜から印刷楽譜への移行期にあたる。
　この頃は音楽の大量消費が始まった時代にも一致する。ヨーロッパのいわゆる芸術音楽は、大道芸人などではなく、楽譜というものを媒介として、伝播する特徴があった。ひとつの楽譜が大量に印刷できる技術により広まったこと。その背景には文字を読めると言うことが、知的人間の社会生活条件にもなっていくこともあった。
（その３９）
　その前の筆写譜の存在から考えてみたい。１７世紀から１８世紀は筆写譜の販売が盛んであった。これは、必ずしも、楽譜印刷がまだ、限られた影響力しか持ち得なかった後進的な側面ばかりでない。同じ内容物が大量に出回ることを防ぐ、積極的な理由があった。すなわち著作権が保護されていない時代にあっては、大量頒布は必ずしも社会的な要求まではなかった。またオペラなど超大規模な作品は、上演可能性が限られていた。上演を前提とせずに、たとえば研究のために、全曲が筆写されることは、例外的な場合を除いてなかった。さらに上演されるときは、歌手が上演場所の都合や慣習によって、変更を加えることが多かった。

（その４０）　作曲の際に五線紙は必須に近いと思われる。楽譜のタイトルページには、既に五線譜が引かれていた。タイトルページに既に五線が引かれていた。コピストがその様な不必要なことをすることはありえないので、既に五線紙が当時、販売されていた根拠にもなる。ヴィーンで作成された筆写楽譜には、用紙の形状と透かし模様、引かれた五線紙の特徴、また筆跡の特徴がある程度限定されその上、当時ヴィーンで活躍していた写譜家の筆跡には確認されているものもあった。
　作曲家が３声以上の楽曲を作曲するときは、スコアの形で最初は書く。しかしそれを演奏するときはパート譜を作成しなければならない。これは作曲行為の必然的な結果でなく、むしろ演奏を通した音楽の伝播の役割を持つ。筆写で仕上がりが、きれいなものもある。J..S.バッハがその典型であった。すなわち専門の写譜屋でない、作曲者の周辺の人間によって書かれる。財力のある大きな組織に属していない作曲者は、職業写譜家を雇えない。このため家族や弟子たちを動員していた。このため仕上がりが雑になるとは、避けたかったので、きれいな筆写譜となる傾向が考えられる。
　それに対して、財力のある大きな組織の作曲家は、職業写譜家を雇える。自筆楽譜のスコアは、きれいなものでなくても良い。写譜屋が清書をするし仮に写譜の際に、自筆楽譜が不明瞭でも、すぐそばに作曲者がいるから訂正も簡単にできる。ハイドンにも専門の写譜屋がいた。
（その４２）
　中野著　「ハイドン交響曲　p119」によると、エステルハージ時代の写譜者は４名いたとされている。ここでは、下記のように４名が記載されている。
A:：ヨーゼフ・エルスラー
B：ヨーハン・シェリンガー
C:ヨーゼフ・エルスラー・ジュニア
D：不詳
このページには実際の写真が掲載されている。Cのヨーゼフ・エルスラー・ジュニア（Aの息子）による筆写された掲載写真はhob－no.－16　の第2楽章の冒頭の中からソロのｖｃ．が演奏する譜面になっている。
４名それぞれ、筆跡が異なって興味深い。
　一方、五線紙の中で、スカシを元にし、作曲年代が確定した事例を引用したい。モーツァルトの例になるが、ホルン協奏曲　第1番は、従来まではヴィーン時代の初期の頃と従来までとされていた。（1782年）しかしながら、紙のスカシによる研究から、実際にはその後、約9年後（晩年に近い時期）に作曲されたことが判明した。

下記のモーツァルトの人間像に迫り、音楽に科学の光を当てる（文学部教授　西川尚生）のサイトより

http://www.keio.ac.jp/ja/contents/research/2014/22.html

（その４３）　エステルハージでの初期の頃は、ハイドンの楽譜出版は海賊版であった。しかしながら例外的に、1774年ヴィーンのクルツベックから出版された。これは６曲のクラヴィーアソナタで（hob－XVI：２１－２６）で、ハイドン自身が、自作の出版に」関与した最初のものになる。パリ国立図書館やベルリン国立図書館に所蔵されている自筆楽譜と比較すると、きわめてよく反映した印刷楽譜であった。またハイドン自身が、楽譜の表紙の冒頭に、雇い主であるニコラウス・エステルハージ候に献呈の辞を書いている。この巻頭ページは、イタリア語で書かれている。ドイツ人の作曲による、ドイツの出版社で発刊されても、音楽の関係出版はイタリア語であった。その後、しばらくしてフランス語、ドイツ語へ移行していく。
　1780年代になると、ハイドンは出版に関与していく。１７７８年にヴィーンで出版活動を開始したアルタリア社は、この年に、６曲のクラヴィーアソナタ　作品３０（Hob-XVI：35、36、37、38、39、20）を出版する。ここでは出版が、作曲者との深い関係の中で行われたことは、アルタリア社へ当てたハイドン自身の手紙で明らかになっている。1780年ー89年の10年間の間にハイドンが書いた手紙の約90通が現存している。その内、約２／３はアルタリアに宛てた手紙である。
（その４４）アルタリア社は、この頃から約10年間に渡り、60点近くのハイドンの楽譜を出版した。この量は、ハイドン楽譜の出版全体と比べて、数倍の伸びになっている。しかし、全ての出版が作曲家との深い関わりの中で作成された印刷楽譜（オリジナル・エディション）であった訳ではない。すなわち、これまで通りの「海賊版」がアルタリア社でさえもあった。
　1760年ー70年は、ハイドンの楽譜は筆写楽譜で流通した。著者が1979年にヨーロッパ各地の図書館、修道院等で行った、ハイドンのクラヴィーア・ソナタの現存資料の調査をおこなった。同じ音楽の、同じコピストによる、さらに内容的にも殆ど同じ楽譜が、各地（といっても、ヴィーンとの関わりが、かなり密接な地域が多い）に合わせて、数部、残存していた。その様な場合には、発行部数がつきとめられている当時の書物など今日の残存状況などから鑑みると、これはその１０倍程度、すなわち、同じ筆写楽譜が数十部作成された痕跡でないかと推定している。　ヨーロッパ大陸の音楽事情を1772年に見聞して回ったイギリスの歴史家チャールズ・バーニー博士は、「ヴィーンには楽譜が売られている店がないので、新しい楽譜を手に入れたいならコピストに足を向けると良い」の記述にもあう。

１２．筆写譜の宣伝効果
（その４５）筆写譜と印刷楽譜は、この頃、過渡期になっていたと思われる。需要拡大のため、ハイドン自身も１７８０年代に入り、エステルハージ邸内の音楽要求に気を配るだけに、留まらなかった。１７８１年１２月３日付けに、ハイドンは、直前に成立したと思われる弦楽四重奏曲作品３３（HobーNo.Ⅲ：37－42）の予約を依頼している。２通の手紙が現存し、それぞれソナタ形式の完成を自ら、誇らしげに告げるものとされている。今世紀初頭以来、数多くの音楽文献の中で引用されてきた。ハイドン口述筆記をさせた署名だけの、自筆のこれらの手紙は、おそらく大量に書かれた同じ様な文面で、現存する２通ではないと推定されて来た。
　もしそうであるならば、ハイドンの言葉は、古典派音楽の様式発展が決定的な段階に到達したことを自覚的に示すなどといった意味ではなく、楽譜を購入するための、いささか、宣伝めいた表現の解釈が打ち出された。　その途端、同じ様な文面の第３の手紙が見つかった。先の２通と比較して、日付も、署名だけが自筆であることも同じであるにとどまらず、書き手も同一人と同定できる。内容的には、あの有名な言葉が１字１句記されている。さらに既存の２通と違って、その後に、「私の教会作品、シンフォニー、コンチェルト、オペラもご用命とあれば、それにお応えすべく整っております。」という句が続く。
（その４６）　これらの手紙全体には、紛れもなく自作頒布のための宣伝という趣旨が基調となっている。また、これらの手紙には、楽譜頒布という点で、当時の慣習が見て取れる。すなわち、「正確な筆写楽譜を６ドゥカーテンで予約を賜りますように」とある。当時のこの価格は、２７グルデンに相当し超高額であった。高貴な人々に、まず直接取引で高い値で筆写楽譜を販売し、その後、出版社に版権を売ることを意味している。ちなみに、同じ作品は、１７８２年にアルタリア社から、４グルデンで出版された。しかし、この４グルデンでさえも、決して安いものでなかった。それでも筆写楽譜に比べれば、約７分の１の価格であった。
　貴族たちにとっては、楽譜とは人の手できれいに書かれたものであって、印刷楽譜などという安っぽい代物は、初めのうちは、品位に関わるものであったに違いない。ハイドンの商売は十分に成り立ち、作品３３の正統的な筆写楽譜は、そのことを証明している。筆写楽譜と印刷楽譜による両立は、流通に特有のものであった。このような、作曲者自身による自作品の販路開拓は、宮廷や教会から作曲家の解放をもたらす。その先兵たるハイドンは、同時代にあってこそ、さらに自作の売れ口を、かなり広範囲に努力をしてきた。ひとつの作品を同時に複数に複数の出版社に売り渡すことにも見て取れる。

１2．印刷楽譜の歴史　１　概観　３種の印刷方法
　（その４７）印刷技術は、活字印刷（　一般に凸版と呼ばれる）から開始した。１４５０年頃に、グーテンベルクによって、活字印刷の発明は、楽譜印刷にも直接の影響を及ぼした。しかしその後も、かなりの間、木版印刷が主流であった。文字ばかりの書籍に比べて、はるかに複雑な楽譜の印刷は、技術的に克服する点が多かった。しかも音楽の流布は、なお、手書き楽譜によっていた。その意味では、楽譜印刷の社会的な役割は、なかなか大きくならなかった。
技術的な問題のひとつには、楽譜の大半が、水平の五線と垂直の音符という、二元的な構造になっていること。その組み合わせを、あらゆる可能性により用意をするには、技術的にも、また経済的にも負担が大きかった。
　（その４８）　その後、１６９０年頃に、アムステルダムのエティエンヌ・ロジェ（１６６５／６－１７２２）による彫版印刷が登場する。板を掘って「くぼみ」をつけるこの技法は、凹版印刷とも呼ばれる、原始的な印刷方法であった。銅板印刷の技術者により、エッチングによって、従来から美術品として存在していた。エッチングは、やわらかい金属に針状のもので傷とつけ、薬品に浸し、掘られた部分を腐食させ、そこにインクを流し込む方法であった。版の金属は柔らかいので、何千回もの印刷に耐えられる能力はなかった。その金属板には、初めは銅板が用いられたので、銅板印刷と呼ばれた。銅板はある程度の繰り返しの印刷には耐えたが、何分、高価であった。また別な角度からみれば、販路を持たない、振興出版社にとって、発行部数を上げて、経費を回収するには重荷であった。
（その４９）
　女子美術大学　版画研究室のホームページによると、エッチングは、もともと、１５００年頃に、アウグスブルクのダニエルホッファーが鉄板でのエッチングを初めて行ったとされている。
　14世紀頃から鎧や武具に装飾をほどこす方法として金属の腐触法が行われていた。鉄製の武具などの表面にワックスを塗り、針で掻き取り、そこに酸を擦り込み凹部を作る。この腐触法を版画に応用したものがエッチングであった。
　銅板は、その後、鉛、錫と鉛の合金の「しろめ」の金属板に変わっていった。しかしながら、銅板印刷の名前として残っている。日本印刷産業連合会　ぷりんとぴあの小箱　のホームページによると、この銅板印刷は、１８世紀末に、石板印刷（この後に記載する平板印刷）が発明されるやいなや、その存在意義を失ったと記述されている。
　以下のアドレス　女子美術大学　版画研究室　歴史のコーナー
ここでは、当時の印刷物が見られる。また、エッチングの印刷技術も時代とともに、変わって行く過程が、うまくまとめられている。

http://www.joshibi.net/hanga/history/1500.html#engraving

（その５０）　１８世紀末に、平版印刷が登場する。これは化学反応を利用して薄い石板に、インクの乗る所と乗らない所を生じさせる方法で、化学印刷とか、欧語ではリトグラフとも称される。また、板の平面が平らなことなので、平版印刷とも呼ばれる。これは、やがて、石板ではなく、金属が用いられるようになり、さらに、板は円形に丸められ、輪転機なった。
　１７９７年にミュンヘンの俳優　ゼーネフェルダー（１７７１－１８３４）によって、発明された。彼は、１８０1年のイギリスを皮切りに、各国で特許をとり、彼自身、１８０３年にヴィーンに化学印刷所を設立した。かれは、それ以後、この方法の改良に殆ど一生を捧げ、音符型の採用など、従来の楽譜印刷方式の成果をとりつつ、またインクを改良し、さらに石板を金属板に変えた。

１3．印刷楽譜の歴史　２　イタリアでの衰退
（その５１）　活字印刷の中では、１５３０年代は、楽譜出版の第1世代の基礎固めに相当した。その後、１６世紀中頃に、これを営利事業として社会的に大きく展開したのが、ヴェネチア、パリ、ニュルンベルク等の商業大都市であった。
　さらに楽譜印刷業が定着し、第２世代を迎える。国王や自治体の印刷許可を受けて、その保護の元に、事業を展開して行った。もっとも為政者が、この事業の営利性に目をつけて、それを社会制度の中に、取り込んで保護する代わりに、税金を取り立てたのが真相であろう。楽譜印刷出版社は、独占権を手に入れる。１５８０年代まで、商業都市ヴェネツイアでは、寡占的な地位を利用して、イタリアの楽譜印刷全体を、殆ど支配していた。また、彼らの子孫たちは、ほぼ約２世紀に渡り、他の出版家の追従を許さなかった。
（その５２）１７世紀初頭から、中頃にかけては、ヨーロッパ全体の不況、木材の高騰（紙の印刷に影響）、１６１８年からの３０年戦争等により、印刷業界全体が衰退していく。楽譜印刷でも、職人技術の荒れ、新版の減少と再販の増加、出版家の意気を感じさせるような独創的な出版物の減少などもあり、衰退して行った。耐久性のある活字セットが、飽和状態になり、それを使って印刷する出版家の競争も激しくなり、廃業や後継者探しの難航もあった。
　彫版印刷の部数は、数百部が限界であった。このため、販売力のない中小業者でも経済力豊かな、大・中都市でなら経営が可能になった。それまでの活字印刷の国際的な流通から、彫版印刷楽譜の大都市集出へ変化が生じた。まずロンドンで始まり人口は、当時は少なかったが、海を越えた巨大な消費とを持っていたアムステルダムやパリであった。これにより、従来の活字楽譜印刷家は、ロンドンやパリに奪われた。また技術的な劣勢もあり、立ち向かなくなった。

１4．印刷楽譜の歴史　３　パリの中小出版社の乱立
（その５５）　ハイドンの偽作問題にも起因するが、その４７に関連して、パリでの出版社の乱立について触れる。簡単な道具だけで、楽譜出版は乱立を迎えるのは、１８世紀半ばになる、。作曲者自身ないし、その妻が版元になることも容易であった。当時の音楽年鑑は、各号の終わりに、音楽関係者の住所が掲載されている。たとえば１７８３年の号には、楽譜彫版師として、３２名。楽譜銅板印刷家として１１名。楽譜活字印刷家として７名、計５０名が楽譜印刷家の名前が上がっている。それに対して写譜家はわずか１９名に過ぎない。またそれにとどまらず、作曲家のリストには、自分の作品を自ら売る作曲家は＊で区別してある。パリ在住の作曲家だけでも、５３名の名前が付いている。
　当時のパリは、自らの巨大な胃袋を満たしていただけではなく、周辺の音楽供給源も果たしていた。その上フランス全体に張り巡らした楽譜印刷が、筆写譜の販売を凌いで、採算が取れる事業になっていた。それに対して、多数の領邦国家に分かれていたドイツ各地とは対照的であった。
（その５６）　パリの音楽活動における優位性は、たくさんの外国人音楽家の移住を促す。特にイタリアとボヘミアは、豊かな音楽伝統があって音楽教育のシステムが十分に確立されていた。出身地では仕事に恵まれない音楽家や、より良い地位を求めて、パリへやってくるドイツからの音楽家も多かった。１７７８年にパリにやってきたモーツァルトの大きな目的もこの点にあった。彼は半年の滞在の後に去って行くが、父レオポルトの忠告に見られるような貴族に目をかけてもらうように行動することは、かつてのような意味を持たなかった。むしろコンサート・マネージャー、オペラ興行手、楽譜出版社たちが互いに凌ぎを削る熾烈な戦いを繰り広げている世界を、泳いで行く才覚が重要だった。パリでのモーツァルトは、余りに無邪気で、積極性に欠け、騙されやすくお金をためるにも無関心であった。反対にそのような世界にうまく溶け込むことができたのは、グルック（１７１４－１７８７）は、パリでオペラの上演と出版によって、わずか１０年足らずの間に、５－６万ルーブル稼いだといわれている。

１5．印刷楽譜の歴史　４　偽作の原因
（その５７）　楽譜出版は、音楽家の生活を支えているものとして重要になっていく。あるいは、音楽活動そのものとして、重要な分野になっていく。他方では人気にあるものを次々に出すことによって、初めて営利事業として成り立った。従ってよく売れる作品、すなわち有名作曲家の新作が求められ、無責任な作曲者名のすり替えが行われた。
　この出版にかかる偽作問題は、有名作曲家の名前を盗んで無名の作曲家の作品に付してしまう。後世は、それによって大変な悪影響が被る。しかし当時の有名作曲家は、直接的に被害を受けることはなく、その事実さえ知らないことが多かった。
（その５８）　全ての曲をすり換えるケースもあれば、曲の一部をすり換えるケースもある。楽譜印刷が手間隙かけた大事業であった嗜好品に他ならかった１７世紀は、大規模な曲集の形でまとめて出版されることが普通であった。何１０曲もおさめられたマドリガル曲集や舞曲集などである。その曲数はまちまちであったが、１７世紀末になると、１２曲、まとめる形が多くなった。音楽オランダやイギリスなどは１０曲もあったが、１曲の規模が多くなり、購買層が広がり、廉価にすることが要請された。その場合、１２曲から６曲、さらにその半分の単位がちょうど良いこともあり、１２曲が多かった。作品を販売しようとする作曲家は、そうした慣習を念頭において、同種のものを３曲か６曲まとめて、できれば、そこに可能な限り、ヴァラエティを持たせて、作曲しなければならなくなった。その場合、印刷業者の手元に同一人の同一曲集が半端な数量しか届いていない場合もある。それを補うために、似たようなスタイルの作品が何らかの形で選ばれた。
　ハイドンの弦楽四重奏曲　いわゆる作品１は、第５曲と第６曲は、カルロ(カール）・ジュゼッペ（ジョーゼフ）・トエスキのフラウト・トラヴェルソとヴァイロリオン、ヴィオラ、チェロのための四重奏であったのだが、取り違えになった。

（その５９）偽作の原因は、さまざまにある。第1点として、信頼のおける自筆譜も作曲曲自身が書いたものとは限らず、他人の作品を書き写すこともある。自ら作曲するだけでなく、他人の作品を演奏するために、筆写をすることもあった。そこに写譜者の名前がなくても、その筆跡を知っていた同時代の人、あるいは後世の人が、書き手が作曲者だと思い違いをしてしまうこともある。
　第２点に、有名作曲家がその名前に、その楽譜を書き込んだケースがある。第３点に、作曲者の名前が楽譜やカタログにしばしば姓だけしか記入されていなく、同姓の当時活躍していた作曲家が複数いたケース。ハイドン作品が弟のほうと、兄のどちらかについては、研究の初期段階で混乱していた。当時の、姓名の綴りも不統一がいい加減で、ひとつの姓が記録に数種類、異なって現れることもあった。
　第４点は、職業的作曲家に作品を秘密裏に依頼して、それを書き写して自作として発表し、世間の反応を楽しむ例もある。第５点に、１９世紀以後に、有名作曲家の楽譜が異常な関心を呼び、骨董品のような収集の対象になる。そうなると、筆跡の似た手書きの楽譜は、大作曲家のものとみなされやすくなる。

（その６０）　ニール・ザスラウ　著「モーツァルトのシンフォニー」　磯山　雅、　永田　美穂　共訳　　東京書籍　刊によると、偽作等に関する記述がある。過去にも触れた研究者、アメリカの音楽学者　ヤン・ラルーがまとめた１８世紀のシンフォニーの主題総目録から。ここでは現段階で知られているあらゆる出版譜、手書譜から集められた１６０００曲以上のシンフォニーの冒頭譜例が紹介されている。そのうち７％は作曲者が一人に特定されていなく二人あるいは、それ以上になっている。
　しかし作曲者を誤って記載しているケースもあるはずであるから、その見込みも、きちんと算定する必要がある。その数は７％では、済まなくなる。
　誤った作曲者に帰せられた作品があるとする。それは正しく表記された１０の源泉資料と間違って評価された１つの源泉資料で伝えられているかもしれない。またその反対の可能性もある。このヤン・ラルーの出版は、正しい表記をもつ源泉資料まで踏み込んでいない。このため、７％よりもさらに偽作の割合が高くなる。当時の大作曲家の例でシンフォニーの真偽の内訳が掲載されている。
　それによると、モーツァルトでさえも、９８曲であったものが、ザスラウにより２５曲は偽作。偽作の疑いが２０曲。残りの真作が５７曲で、真作の割合は５８％。ハイドンは、２６６曲の掲載。ホーボーケンにより、再度検討された結果、その内、偽作は１５８曲。偽作らしい作品が１曲。一方、真作は１０６曲で、真作の割合は、４０％となり、モーツァルトよりもさらに割合は低くなる。

（その６１)　ザスラウ　モーツァルトのシンフォニーでは、作曲家の雇用に関して、交響曲の平易性にも言及している。この本では、主にモーツァルトが中心であるが、その背後には、ハイドンの記述も多い。モーツァルト一家は、１７６６年にアムステルダムで、また１７７０年には、ミラノでゲオルグ・アントン・クロイサー（１７４３－１８１０)に会っている。クロイサーはモーツァルトの初期のシンフォニーから一部を借用していた　モーツァルトの手紙からでも、クロイサーについて、述べている。彼はコンサートマスターのヤコーピ(？－１７７３年没）が死んだ、ちょうどいいときに、マインツへやってきた。耳に聞きやすい彼のシンフォニーは、評判だった。そこですぐにコンサートマスターになり、彼は今は如才なく楽長になるべく、あれこれやっている。
　モーツァルト父子は、クロイサーの成功に我慢できなかったに違いない。彼らはヴォルフガングがクロイサーよりもはるかに優れていることは分かっていた。どうして、クロイサーが、よい地位を得ることができたかの根拠にもなった。
（その６２）　一方、ハイドンのシンフォニーの楽譜は、ヨーロッパの津々浦々で、それもアメリカ大陸で見つかっている。その彼でさえ、自分の作品をアイゼンシュタットやエステルハーザの外へ広めようとするときは、難易度に留意しなければならなかった。たとえば、第７６－７８番のシンフォニーを作曲した際にも垣間見れる。このとき、ハイドンはパリの出版社のボイエル社へ出版の依頼をする。１７８３年７月１５日付けの日付から。「昨年、私は３曲の美しく壮麗な、それでいて、決して長すぎることのないシンフォニーを作曲した。その編成はヴァイオリン２、ヴィオラ、通奏低音、ホルン２、オーボエ２、フルート１、そしてファゴット１もしくは２です。しかしこれらの曲は、とても平易で、それほど妙技を必要としません。・・・これらの３曲のシンフォニーが大変な売れ行きになることを保証します。
　　ハイドンの計算が正しかったことは、彼のシンフォニーが、非常に広範囲に流布していたという事実からも分かる。１７８０年代のシューバルトの見解もそれを裏付ける。それによれば、ハイドンのシンフォニーは「真のシンフォニー様式で作曲され、簡単に演奏でき、あふれでる情熱と創意に富むユーモアを持っているので、ヨーロッパで愛されるのは当然である。」
（その６３）シンフォニーの平易性については、L.モーツァルトも言及している。彼は、名人芸的な技術を少なくとも、自己目的になる限り、あるいは、様々な欠点を覆い隠すために使わる限り、嫌っていた。こうした姿勢はヴォルフガングとの手紙でも見られる。また、彼の著書「ヴァイオリン奏法」の中にも記載されている。名人芸的なものは、段階を踏んで、進歩もろくにしない内に、コンチェルトやソロを手がけ、すぐに、名手の仲間ができると思っている。また他の人々は、いくつかのコンチェルトやソロをきちんと練習し、どんな難しいパッセージも、まれに見る巧み捌きで弾き飛ばすことまでこぎつけている。こうしたパッセージを彼らは暗記している。
　しかし彼らは、いざ一対のメヌエットを作曲者の指示で、歌うように演奏する段となると、それができない。同じ現象は、彼らが練習したはずのコンチェルトにおいてさえも見られる。アレグロを弾いているうちはまだいいのだが、アダージョになるとかれらは楽章の小節をことごとくにおいて、大なる無知と判断力の悪さを、さらけ出してしまう。彼らは秩序も表現もなしに弾き、強弱を区別しない。装飾は妙なところにおかれ、過剰でおおむね混乱している。しかもたいていは、その音符があまりにも無内容であるため、自分が何をすべきか演奏者自身が分かっていない。彼らは、誰よりも、自己愛にとらわれている。
　息子のモーツァルトもこの考えを踏襲している。音楽が人を喜ばせるべきものであるならが、それはある程度、平易な物腰のものでなければならない。決して額に汗をかかせるものであってはならない。絢爛たるものものしい技巧だの、リズムや和声、対位法の複雑さなどで驚かせるよりも、音楽はむしろ経過なタッチで人々を魅了すべきである。
（その６４）　しかしながら、レオポルトの信条は、軽薄さを旨とするものでなかった。なぜなら、様々な感情の充分な表現に、最大の注意が払われていた。上司でもある、ザウルツブルクの宮廷楽長　ルイージ・ガティにより新作セレナータ「無人島」が初演された際、レーオポルトが日記に残したのは、次のようなことばだった。「きれいな音楽だが、イタリア的で心というより、耳のためのものだ。なぜなら、言葉の表現と真の情念がうまく一致していないのだから」すなわち、表面上の美しさと平易な作風は必要条件であっても、その作品が音楽として成功するか否かを決定する充分条件とはならないのである。不必要な難しさは避けられるべきであり、必要な難しさも、磨かれた表面の下に、隠されるべきである。仕事上の秘密は、困惑し、悩むことしかできない人々から、離しておいたほうがいい。
　こうした考え方は、息子のヴォルフガングにも当てはまる。１７８２年１２月２８日の手紙から。ピアノ協奏曲K.４１３－４１５について、引用されることから。これらの協奏曲は、難しすぎるのと、やさしすぎるの、ちょうど中間のもので、とても華やかで耳に快く響きます。自然でありながら、急遽に陥っていません。識者だけが満足するところもあちこちにありますが、識者でなくても、なぜかは分からないながら、必ず満足できるようになっています。訓練の行き届いた作曲家が、比較的少数の「識者＝ケナー」すなわち音楽通と、はるかに多くの「愛好家」すなわちアマチュアの両者の念頭におき、両者を同時に喜ばせる術を知っていた。
（その６５）シンフォニーの作曲たちは、一般に難しさを避けていた。その理由のひとつは、当時のほとんどのオーケストラが、ヴィルトーソ的な処方に対処できなかったことになる。もうひとつの理由として、主役を演ずる独奏者に倒し演奏会、その他　大勢の人々（リピエーノ奏者）に対してとでは、ふさわしい音楽の書き方が異なると理解されていた。リピエーノ奏者の誰もが、協奏曲を演奏する能力を持っているわけでもない。しかし良い奏者であれば、レーオポルトら同時代の著述家たちは、それに劣らぬ価値とした、別な技量を備えていた。それは目の前に置かれたパート譜を正確に演奏できる能力である。当時のシンフォニーは、初見ではないにせよ、たいてい１回だけのリハーサルで演奏された。その証拠は豊富に残っている。ヴォルフガングのシンフォニーのうち、最初の三分の二ほどの時期に生み出された作品の難しさに殆ど変化がないのは、ここから説明される。

１6．作曲家に必要な資質は？
（その６６）　当時のシンフォニーは、多作が当たり前であった。その５８でも記載した、ラルーの１６０００曲の交響曲の数も膨大であるが、１９世紀頃になると、交響曲の数が一挙に減少する。その分、作曲家は、量よりも質へシフトして行く。この原因には様々、考えられるが、交響曲の生涯でも庇護していた貴族の所有していた宮廷楽団の解散、市民の交響曲に関しての意識変化等があげられる。
　ハイドンが生きていた時代は、まだ量産が当たり前であった。また、同じ頃のL.モーツァルトも多作を称賛していた。ザスラウの著の中でもそれが、記載がされている。レーオポルトは要求にかなう作品と、そうでない作品との違いを誰よりもよく心得ていた。　また、彼は作曲家が雇い主にとって、有用な人材であり、一定した収入を得ることが保証されるためには、素早く、楽々と求めに応じて書かなくてはならないことをわきまえていた。というのも作曲家とは、神のごとき天才ではなく、要求に応えて、作曲する技術をもった職人、例えばよい鬘（かつら）、家具、宝石を作る職人や肖像がの絵描きと同じ様なものと考えられていたからである。（このあたりは、作曲家と歌手との人気や待遇の差にも、現れていると思う）　
（その６７）　ハイドンは１７８５年２月１６日のL.モーツァルト宛の手紙で、「誠実な人間としても、神にかけて申し上げます。あなたのご子息は、私の知る限り、最も偉大な作曲家です。よい趣味とまったく優れた作曲技術をお持ちです。」と称賛している。このあたりは、当時の作曲家が要求された、資質にも関連していると思う。
　L.モーツァルトの優れた生産力の持ち主とするのは、スカルラッティとテレマンである。ここにヘンデル、バッハ、ヴィヴァルディ、ボウモルティエ、ハイドン、フック、その他２０人ほどの１８世紀の多産な作曲家たちを加えることが出来よう。彼が息子のヴォルフガングに「怠けるな、規律を失うな、もっと音楽を書け」と口を酸っぱくして忠告した背景には、こうした多産性を重んじる態度があった。ヴォルフガングは１７７０年から７９年の１０年間の間に、約４０曲ものシンフォニーを書いた。これに対して、１７８２年から９１年の10年間には、たった６曲しか書かなかったが。

17. 当時の楽団の規模の比較

（その６８）レーオポルトの生きていた時代は、ちょうど宮廷音楽が、絶頂期にあたり、安定した職業を得るためには、やはり宮廷の楽長ポストが欠かせない。反音楽史でも、当時のイタリアの作曲家や演奏家が、貴族に雇用され、ドイツ人の雇用が、なかなか進まず昇進も難しかった。
　一方、ハイドンは１７６１年に、エステルハージ楽団の副楽長に、雇用されるが、ドレースデンの楽長ハッセなどの当時の有名な宮廷楽団の楽長と比較すると、年俸は４００グルデンと、待遇もかなり低かった。しかも、楽士たちのマナーや技術訓練、昼食の音楽の手配など、本来なら楽長とは、関係のない仕事を当初は、任せられていた。(しかし年代を経るに連れて、オペラの作曲、企画、運営など、現在の音楽監督の様な仕事にシフトをしていったが）　１７６１年から副楽長として赴任した当初は、エステルハージ楽団は、他の宮廷楽団と比較して、それほど、注目されていなかったかもしれない。当時の他の宮廷楽団の知名度などについて、今後の調査の検討課題になろう。
（その６９）　人気の指標の一つとして単純には、比較をするのは危険かもしれないが、サルツブルクの宮廷楽団の奏者数のデータがある。当時の宮廷楽団の予算は、ある程度決まった枠内で運営されたであろう。１７６１年頃といえば、レーオポルトが副楽長として、赴任をしていた時期にも比較的一致する。この当時とエステルハージ楽団の奏者数（この場合、できれば、楽器を演奏する奏者だけでなく、楽団以外の付帯的な仕事に関しても含めるとより一層、判断がしやすいと思われる）を比較をすると良い。　雇用されている、それぞれ個人の給与待遇に、大きな差があれば別な考え方が必要となるが。
　もし個人の待遇の差にそれほど差がなければ、宮廷楽団の規模と間接業務を含めた雇用者数を比較してみると判断ができる。エステルハージ楽団の奏者数は、その６にも触れたが、奏者は、総勢１２－１３名であった。少し時代を経て楽長へ昇進し、オペラ時代になると、この人数がさらに増加する。このあたりのやや詳細な人数は、中野著「ハイドン復活」にも記載がある。
（その７０）　一方、ザスラウ　「モーツァルトのシンフォニー」にモーツァルトの演奏されたときの、パート別の人数が記載されている。ザルツブルクの宮廷楽団の１７６６－７７年、１７７９－８１年の人数が記載されている。これらについて、表1にまとめてみた。

注1：　ここでは、各パートで2－3(人)のように、ばらつきあり。
注２：()は必要に応じて入る。

（その７０）　一方、ザスラウ　「モーツァルトのシンフォニー」にモーツァルトの演奏されたときの、パート別の人数が記載されている。ザルツブルクの宮廷楽団の１７６６－７７年、１７７９－８１年の人数が記載されている。これらについて、表1にまとめてみた。

表1　エステルハージとザルツブルク宮廷楽団の人数の比較
パート	1vn.	2vn	va	vc	bas	fl	ob	cl	fg	hr	trp	timp	trb.	cmb	計
エステル1761	2-3	2-3	1	1	1	0	2	0	1	2	0	0	０	0	12
エステル1776	2-3	2-3	2	2	1	1	2	0	2	2	0	0	０	0	19
ザルツブルク 1766－77	4－6	4－6	2	1－2	2－4	０	２	0	2－3	2－3	(2)	(1)	(3)	(1)	25-35
ザルツブルク 1779－81	6	6	2	2	4	0	5	0	3	2	(2)	(1)	0	(1)	30-34

注1：　ここでは、各パートで2－3(人)のように、ばらつきあり。
注２：()は必要に応じて入る。

（その７１）ここでは、その６にも記載したように、エステルハージ家のオーケストラで1761年頃は、１２から１３名で、cmb.は入っていない。ヴァイオリンは２つのパートを合わせて５人。ランドンは、この時期、侯爵家の教会音楽家たちから、弦楽器奏者、軍楽隊からトランペットと打楽器奏者、さらに、街の音楽家たちがオーケストラに随時、加えられたと推測している。ゲルラッハが行った調査では、正規の団員のほかに、聖歌隊にも属していた執事と歌手２人がヴァイオリンを担当していて、さらに人数が増えた記載もある。
　また、１７６３年に作曲された第13番で４本のホルンが使用されていることから、年を追うごとに、オーケストラが増員されていったと考えられる。
　エステルハージ家の１７７６年データでは、中野著「ハイドン　交響曲」によっている。ここでは、１７７６年としているが、1775年から１７８４年にかけて、１３人から２５人の間を推移している。このため、一部のデータになる。年ごとに移動が激しい。　管楽器に関しては、１７７６年に正式にフルートが１人加わる。オーボエは通常２人を。また特定の時期には３人。ホルンは１７７５年に４人となり、後に、５人に増強。ファゴットは２人から４人。クラリーノは１７８０年と８１年の間だけ雇用。このとき、ハイドンは交響曲には用いていないが、１７７５年から２年余り、クラリネット奏者が加わっている。
（その７２）　ハイドンは、１７８６年の記録で低音楽器の奏者数について言及している。ファゴットは、やむを得ない場合は省略できるが、むしろ使いたい。それは何よりもバスが一貫してオブリガートになっている。３つの低音楽器のチェロ、ファゴット、コトントラバスの編成は、６つのコントラバスと３つのチェロよりも好む。なぜなら後者では、パッセージによっては、聞き取りにくいからだ。つまり、チェロ、コントラバス、ファゴット、通奏低音楽器のひとつで充分に、他の楽器とのバランスがとれて、ありえる短所を補うに足りる優れたアンサンブル、透明度、音色が得られていたと考えらえる。
　この考えは、ハイドンだけでなく、当時の実践を裏付ける証拠が多かった。ファゴットは、バス・ラインに望ましい音色と明瞭さを与えた。また、トウッティの際に、ヴァイオリンを重複するオーボエまたはフルートに対し、必要なバランスを与える点でも、価値があると考えられた。

18．ロンドンでの演奏奏者の規模
（その７３）ザスラウの著では、ヴィーンを含むヨーロッパの各都市での楽団の人数が掲載されている。ハイドンの交響曲がロンドンで演奏されたが、ここでは、表１よりもさらに人数が増える。中野著　ハイドン復活によると、当時の音楽新聞の報告によれば、内訳が判明している。　１７９１－９２年のコンサートでは、ハノーヴァで、階段状の配置が組まれた。井上著　「ハイドン１０６交響曲を聴く」にも掲載がされている。この配置は、形を変えながらも１９世紀の大部分を通じて、当地オーケストラ　コンサートで使用された。
　この配置が目に見える形で示しているのは、ファゴット、チェロ、コントラバスを鍵盤楽器近くの中央に置く古い配置を改めて、外側に分散させている。これによりバッソが解体された。ハイドンのこの配置は、円形劇場風と記載がされていたので、半円形状と推定している。
　２つのヴァイオリンは、左右に分けて配置された。主要な旋律を受け持つパート(声やヴァイオリン)や音の小さい楽器（フルート、ヴィオラ）を前方に、音の大きい楽器（金管楽器、ティンパニ)を後方に配置している。（フルートとティンパニを離している）
（その７４）　会場となったハノーヴァの正式名称は、ハノーヴァ・スクエア・ルームズであった。この名称は、この建物がロンドンのハノーヴァ通りの角、スクェアーに位置した。ルームズと複数の名称になっているように、このビルは４階建てで、演奏会や集会で用いられる大ホールと数々の事務所と喫茶室からなっている。大ホールのこけら落としの演奏会が行われたのは、ハイドンがロンドンを訪れる１６年前の１７７５年であった。当時のロンドンで活発な演奏活動をしていた、クリスティアン・バッハと興行師ジョン・ガリーニ卿に協力して建てたビルであった。
　大ホールは、長さ約２４ｍ、幅約１０ｍの長方形で、当時のドイツの音楽新聞の報告によれば、観客の定員は８００人。単純計算だと、一人あたりの面積は、2400　m／800人　　→0.3ｍｍ2（わずか10ｃｍ＊30ｃｍしかない。当然、観客は立っていたと推定される。定員８００人に対して、１７９２年のザロモン演奏会では、倍近くの１５００人が入場したという記録がある。当時の公開演奏会の規模が分かるとともに、その人気が高かった。１９００年に取り壊しとなり、現在は、空き地になっているようだ。（ヨーロッパ各駅列車で行く　ハイドンの旅を読んで　その１４を参照）

永田音響設計News 94-8号（通巻80号）
発行：1994年8月10日 (下記のアドレス）　に記事によると、２箇所（ハノーヴァとキングシアターホール）の面積や残響時間等のデータが記載されている。

http://www.nagata.co.jp/news/news9408.htm

（その７５）これによると、前者の面積は、室面積が1875ｍｍ2　で、残響時間が0.96秒。フォーサイスによれば、前者のハノーヴァー・スクエアは中音域の残響時間が1 秒に足らず、かなりドライな音響だったという。これに対し後者のキングス・シアターは、残響時間も長くなっている。(1.55秒）音響学者のJ.マイヤーは、ハイドンがこうした音響効果を考慮に入れ、個々の楽器に強弱記号をつけつつ、曲を作っていたとの見解を示している(マイヤー、1978年)。
　一方、前者の座席数は、800名。後者の広さは4550で座席数は433名。一人当たりは、前者と比べると広くなっている。（それでもサントリーホールの1/4程度だが。一人当たりの座席面積からすると、現在と大差はない）

19．演奏時間と反復との関係
（その７６）１８世紀の慣行では、楽章の中ほどで反復記号が現れた場合、前半と後半は、どちらも反復された。楽章の最初、もしくは最後に記号がさらに置かれる必要はなかった。モーツァルトとその同時代人がシンフォニーを演奏するとき、この反復をすっ飛ばしたことを示唆する証拠は微塵もないとされている。（ザスラウのモーツァルトのシンフォニーより）これらの反復は、テンポや拍子、強弱、ピッチ、リズムに劣らず重要な、作曲家の指示の一部である。反復を省略することは、聴衆から、その楽章の楽想や構造を理解し反応する機会を奪うことになる。また、それは、作品の偉大さを誤って伝えることでもある。
　なぜなら、１８世紀のシンフォニーは、反復が守らなければ、１０分か１２分の間奏曲である。しかし反復が守られると、ベートーヴェンにも匹敵するスケールの作品へと変貌する。
（その７７）メヌエットのダ・カーポは、反復に関して独特な問題がある。２０世紀の演奏家の間で広く語り伝えているところでは、これらの反復は、決して守られていなかった。しかし最近の研究では、時代錯誤の誤りであったことを示唆している。１８世紀の舞曲音楽における　反復の実践は、必ずしも画一的なものでなかった。舞踏会場やダンスの舞台では、振り付けに従うために、何回も反復されることが多かった。
　一方、コンサート会場では、別な制約に従っていた。レーオポルトが息子に宛てた手紙の中で、ある名前のあげられていない作品を、ことごとく反復なしで演奏し、メヌエットとトリオを１回だけしか演奏しなかったことを激しく非難している。
　メヌエットの繰り返しも、曲の冒頭セクションを変化なしに、反復させることが慣行であった。この確証できる証拠の一端が、ハイドン交響曲　97番に見出せる。ハイドンはこのメヌエットの各セクションの反復部分(すなわち繰り返しで２回ある場合、２回目の部分？）で、装飾音を付けたいと考えた。それらの反復部を全て、楽譜へ書き出した。ハイドンがメヌエットを反復しなかったということは、ダ・カーポでも反復を守って演奏することを、ロンドンのオーケストラに期待していたことを意味するに違いない。

２0．リハーサルと演奏水準
（その７８）　その63のリピエーノ奏者の部分で、初見演奏について記載をした。これがオーケストラの演奏水準にも関わってくる。その６１では、レーオポルトが、リピエーノ奏者の初見での演奏の必要性を唱えていた。当時のオーケストラは、２つ以上の楽器を演奏する奏者が一定数いた。技術的に、多数の演奏家を作り出す音楽大学は無論なかった。アマチュア、宮廷音楽家、音楽以外で生計を立てている人々も含まれていた。一方、現代の音楽といえでも、完全にピッチのあった、完全に一体となった演奏を常に行っていないケースも、我々は知っている。こうした事実を我々が認めようとしないのは、演奏水準を自分たちに、都合よく設定しているからだ。
　　１８世紀当時のオーケストラは、一つの様式（自分の時代の様式）だけで演奏していた。通常、同じ仲間と一緒に、同じリーダーのもとで、毎日のように来る年も来る年も、演奏していた。音楽的要求はともかくとして、オーケストラのパートには、後のオーケストラ音楽に要求されるほどの技術は求められなかった。　それでも当時の演奏水準は、我々の時代と同じか、ときには、もっと高かったと思われるふしがある。

（その７９）　ハイドン自身の手紙や日記の書き込みからによると、ロンドン演奏会において、リハーサルは、少なくとも１回は実施して欲しいあるいは、リハーサルの有無に関しての記録が残っている。この部分は交響曲の生涯　にも触れられている。

１番目の例・・　3曲の90～92番のシンフォニーでは、多くの独特な音楽的効果がある。それゆえ、少なくとも１回は注意深く、特別な集中力でもって、リハーサルをすべきであることを貴地王侯の楽長にお伝えいただきたく、謹んでお願い申し上げます。（１７８９年１０月１７日の手紙）
２番目の例・・95～96番のリハーサルを丁重にしてほしい。というのも、これらの曲は、非常にきめ細かく、作曲されている。ニ長調（96)シンフォニーの最終楽章が特にそうなのです。この楽章については、できる限り柔らかなピアノで、非常に速いテンポで演奏することをお薦めいたします。（１７９１年１１月１７日の手紙）
３番目の例・・１７９５年３月３０日、私（ハイドン)は、アーノルト博士とその友人たちから、フリーメイソン(原文のまま）ホールでの、大コンサートに招かれた。私の大シンフォニーの一つが、私の指揮で演奏さることになっていたが、どのようなリハーサルも行いたくないということだった。このため、共演を断り参上しなかった。・・・・オーケストラの優れたヴァイオリン奏者は・・・全てを初見で演奏しなければならない・・・初見の上手な独奏者は少ししかいない。（１７９５年３月３０日の日記）
　
（その８０）エステルハージ楽団だけの演奏なら、このようなリハーサルを少なくとも１回はして欲しい記録は残っていないと思われる。すなわち、ハイドン自身が侯爵の下で、お抱えの楽団として存在していたが、ほぼ、同じ様なパターンで演奏されたであろう。楽団のメンバーは、ほぼ一定でハイドンの交響曲や、オペラ等のレパートリーが中心であった。　演奏水準も、かなり高かったと思われる。このためかヴィーン音楽家協会での演奏会で、手兵の楽団を連れて1795年にオラトリオ　トビアの帰還を披露した。(反音楽史　その１５を参照）

（その８１）それに対して、現代は、大半は現代の楽器で学ぶ。現代の演奏技術によって、古い楽器の真似をしようとしても、満足な結果が得られにくい。それは何年もかけてようやく学んだ演奏技術を忘れて、新しい演奏技術を習得するためにもよる。また現代楽器は、鋭いアタック、もしくは立ち上がりのよい音が出るように製作されている。古楽器は、音が分離するように製作され、レガートは特別な意味がなければ（しかし重要な）効果として取り扱われる。それに対して、真のスッタカートは、現代楽器では努力して初めて生まれる。古楽器は、殆どスッタカート音で演奏し、ヴィヴラートと特別な効果としている。現代楽器は主として、ヴィヴラートを継続的に使用される。ストレートな音は、規格外の音とされる。古楽器は、はっきり区別のつく音楽を重んじる。それに対して現代楽器は、ブレンドした音色が期待される。
　カラヤンの多くのレコーディングをプロデュースの担当したある人物は、オーケストラの演奏で、次の様に論じている。
「カラヤンサウンドは、微妙に磨き上げる。美しくない音はどこにもなく、すばらしい輝かしさがある。アタックの雑音を出さずに、フォルシィモを演奏した。」・・・　我々は一緒に仕事をしたが、その前提となる理論は、弦がヴィブラートをかけずに、また弓を動かさないままで曲を演奏してはならない。既にヴィブラートを掛けている弦に、すでに動いている弓を触れると、美しく聞き始めることができる。しかし、もし、このどちらかが止まっていて動きに入っていないと、クリック音が出てしまう。カラヤンは、これらすべてのことを計算に入れていた。

（その８２）　現代の演奏会は概して、演奏にふさわしいテンポを定め、そのテンポを維持する。悪い音程はアンサンブルの乱れといった技術的欠陥は許されない。重要なパートが良く聴こえ、音楽性の劣るパートが主役にならないように、バランス調整にも注意する。全体的な様式や強弱、音符の長さやアタック、楽器が提示される方法をコントロールしなければならない。これらの任務の中には、現代楽器よりも、１８世紀楽器の方が実行できるものもあれば、その逆もある。
　　古楽器による少ない演奏家でセクションを適度に配置ずれば、透明度は確保され、ヴィブラートのない演奏が可能になる。肝心のパートが覆われてしまう危険は、現代楽器の不透明な音色を比べて、いくぶん小さい。しかしこの同じ透明度は、音程の悪さやアンサンブルの乱れも無慈悲にさらけ出してしまう。なぜなら、ヴィブラートは、たくさんの演奏の誤りを覆い隠すことができるからだ。

２1．指揮者の存在とその解釈
（その８３）　その７９で演奏解釈について、記載をしたが根底には、指揮棒を持った指揮者により影響される。指揮棒を持った現代の指揮者の仕事、ー我々はその評価する方法ーは、リハーサルやコンサートでニュアンス、強弱、バランス、拍ごとのテンポをコントロールすることに焦点を置いている証と考えられた。形と流れを維持しながらも、音楽を表現豊かに、伸び縮みさせる柔軟性あるテンポが、優れた指揮者と考えられることがある。これに対して、単に拍子をとるだけの指揮者は、無能を見なされた。遅いことはいいことだが、といわんばかりでも、極度に音楽で音楽が崩れないように維持する能力も、偉大さの印と見なされた。リヒャルト・ワーグナーがこの様な方法をとった最初の指揮者であった。
（その８４）ワーグナーがこのような方法をとった最初の指揮者であったこと、あるいは、おそらく彼の名声がこの新しい方法に「ハク」を付けたことの証拠が存在する。ワーグナーの革新性は、彼と同世代の音楽にテンポの自由を通用したことではなく、ベートーヴェンにシンフォニーまでさかのぼって、この方法を適応したことにある。
　ひとたび、ベートーヴェンのシンフォニーに対するオーケストラの解釈様式が確立されると、この方法が、モーツァルト、ハイドン、シューベルトのシンフォニーにも拡大されるのは、自然の成り行きであった。ワーグナーは、テンポが一様で、シンメトリー楽節構造を持つ舞曲や行進曲が主流になっていった音楽を嫌悪し、古典を彼自身のイメージで解釈し直した。
　
（その８５）　一方、１８世紀は、ワーグナーの様な伝統はなかったばかりでなく、あるはずもなかった。なぜなら、そのための必要な類のリーダーシップ、今だに存在しなかった。指揮棒を振る拍子取りは存在した。その役目は、大きな教会で、オーケストラ、合唱団、オルガン奏者をうまく協調させるために、必要だった。一方、指揮をすることは、当時、コンサートマスターが通奏低音奏者が、リーダーシップをとる方法であった。このため、現代的なオーケストラ音楽の演奏で、我々が考えている進行型の造詣や個人的な解釈が入る余地がない。当時の１回のみのリハーサルでは、現代の様な演奏を生み出すことは、現実的問題として不可能であった。