ハイドン探求  サブメニュー




 
 
 
 




 1.初めに  2,エステルハージ楽団でのチェンバロの扱い
 3.作曲技法の変遷 3.多作の背景 
   
   
 
 1.始めに
(その1) 石井著 反音楽史で、ハイドンを含む、西洋音楽の中で、クラッシック音楽の作曲家、演奏形式、聴衆、ドイツと他の外国の関係など、様々な記述を自分なりに記載をしてきた。「反」と言う文字を含むタイトルの通り、それまでの音楽史とは、反する意味合いのタイトルになっている。反するというとは、相手方がいることにもなるだろう。
 相手方となると、従来からの音楽史の解釈なり考え方などが、これに相当する。ハイドンに関して、この共通コメントでも、自分なりに今まで記載をして来た。このコメントでは、どちらかと言うと、従来からの音楽史の視点で記載をして来たように思う。この従来からの視点でもう一度、新たに音楽史の中で、ハイドンを中心に、もう一度、振り返りの意味合いも含めて再度、まとめ直してみたい。
 (その2)まとめ直す視点としては、やはり柱となる著者が必要である。「音楽の友」社の名曲ライブラリー「ハイドン」を今まで、各交響曲で参考にして来た。これを外す訳にはいかない。この本の監修者の一人であり、冒頭のハイドンの生涯の欄の執筆者である「大崎滋生」氏が、やはりメインであろう。これ以外に主に執筆者でもあった、中野博詞、大宮真琴のお二人は、既に故人となっている。
(その3)井上著「ハイドン106の交響曲を聴く」の中で、モーツァルトの交響曲との違いの理由のヒントに、同氏の「音楽演奏の社会の社会史」に記述があった。すなわちモーツァルトの交響曲は、どこでもできる平均的なものであり、奏者に特別な技量を要求することがない。モーツァルトは、特定の楽団を持っていなかった。彼の音楽は、そうぜざるを得なかった。それに対してハイドンの交響曲は、(もちろん全部ではなく、彼も次第に、平均的な楽団で演奏可能な形で書くようになっていくが)、とりわけ若い頃の一連の交響曲は、ひとつひとつが楽団員との連携プレーによって成り立っていた。
 大崎滋生氏の著作を中心に最近、読んだ本(主に、音楽演奏の社会史、オーケストラの社会史、楽譜の文化史)を最近、一読した。この中で、ハイドンの生涯やその周辺を取り巻く環境(エステルハージなどの宮廷を中心とした当時の楽団の様子、演奏されたホールなどの音響を含めたハード面、楽譜出版から広まっていったハイドンの人気などを視点にして再度、執筆をしてみたい。