1.聴取記を書くきっかけ 「氷山の1角」
 平成21年(2009年)は、ハイドン没後200年に当たる。今年の1月1日「ウィーンフィル ニューイヤー コンサート」の最後のプログラムとして、指揮者バレンボイムが、ハイドン交響曲第45番「告別」第4楽章を取り上げた。この記憶はまだ比較的新しい。オーストリア古典派の作曲家の一人、ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)は生涯に渡り100曲以上の交響曲を作曲した。小中学校の音楽の教科書では、「交響曲の父」などと称されている。ニックネームのついた曲も、いくつかは知られている。しかし大半は最後の12曲、通称「ザロモンセット」が、知られているにすぎないと思う。
 交響曲の父と称されるハイドンだが、108曲(諸説によっては、多少、数は前後する)は、上記ザロモンセット12曲に対して1割程度しかない。その残りの曲は、CDは最近でこそ再発売も含めて知られつつある。しかしザロモンセットに比べると、まだ知られていない方であろう。
 交響曲の父と称される所以は、色々と考えがある。ザロモンセットに至るまでの余り注目されていない残りの約95曲は、氷山の1角に例えられるかもしれない。しかしその氷山の海面下にある約95曲も、それなりに価値はあるのではないか? 約200年余り前の当時は、作曲者がまだ活動している時期から、数多くの出版社から多数の版として出回っていた事実がある。
 しかし、当時から人気があった交響曲も、今は余り注目をされていない。「交響曲の父」としてハイドンは、交響曲を少しずつ育てて来た過程があろう。交響曲に取りかかった頃の最初期(1760年前後)と、晩年に近いザロモンセット(1791-1795)の頃とは、約30年余りの開きがある。年齢では、28歳頃から作曲に取りかかり、63歳頃の作曲を終わるまでの約35年余りに相当する。この間に、彼はどの様にして交響曲を完成させたか。CDの聴取記を自分なりに記載することを通して、交響曲の父の生い立ちを洗い出しながら、知られていない名曲や、聞きどころなどを紹介して行きたいと思う。