音楽聴取記録(交響曲の聴取 各曲の聴取記録 通しNo.54hob-No.-45


No 
Hob.
No.
 
通称名   作曲年 調性   楽

 fl  fg trp  cl  timp   cmb ランク    聴きどころ、ポイント
54 45 告別  1772 fis 4 -  -  - - (1) B
       1 fis Alleglo assai
       2 A Adagio
       3 fis Menuetto & trio、allegretto
4 fis Finale、Presto-adagio
以前から「告別」や「さよなら」の愛称名で親しみのある交響曲。第4楽章の終わり方は、ユーモアの雰囲気を示すためのサービス精神のひとつと解釈したい。それよりも、注目するのは第1楽章だと思う。fisの短調の悲劇的な調性を端的に表現している第1主題。単純ではあるが、一度聴いたら忘れられない。下行音で、ここまで表現できる旋律の歌い方。何回かの転調を経ての提示部。第2主題は、殆ど目立たなく経過部に近い。しかし、展開部の後半で新たな発展した旋律が登場するのは、斬新的な取り組みである。再現部のcodaはないが、これでも十分な聴き応え。フィッシャー盤ではテンポは速いが、第1主題のくっきりとしたイメージが印象的。Finaleは、フィッシャーでは本来、各soloがはっきり聴き取れるが、ここでも細かい動きが分かる。弦の人数が減っていくのも興味深い。
 ドラティ盤は、Allegloでの展開部と再現部の繰り返しがない。テンポは大差がないが、下行音のするどい主題が、フィッシャーと比較して、はっきりしない。Finaleで最後のテンポはゆっくりだが、細かい音が今ひとつ聴き取りにくい。No.44と、どちらかを取るといわれたら、私は、No.44を推薦したい。
 2011年1月4日 ディビス盤を聴取。
今回たまたま、この曲のスコア(総譜)を見ながら聴取をする。著作権が切れているため、無料でダウンロードが可能。下記のブログを参照。
http://classic896.blog27.fc2.com/blog-entry-89.html
 スコアを見ながら聴取をすると、Allegloの展開部に入ると、第1主題が主調とはかけ離れた調性のC調から登場し、次第にめまぐるしく転調しているのが、手に取るように分かる。また再現部では第1主題が主調で再現されるも、あたかも第2展開部のように、提示部以上にめまぐるしく調性が変わっていくこと。その分、第2主題は極度に圧縮されて、codaもなく切り詰めて終わる流れが良くわかる。 
 cmb.はディビス盤では、通奏低音として同じ動きが多いが、スコアを注意深く見ると、高音部では、装飾音が必要に応じて入っているのが分かる。第1楽章は、弦楽器が中心だが、va,もvc.と同じ旋律が多いが、ところどころ、独自の動きがあるのもスコアを見て分かる。
 cmb.の装飾は、第2楽章に入るとさらに目立つ。(T16、33-35あたり) 
 第4楽章の冒頭は、スコアでは、第1、第2vn.が合わせて4名となっている。ただし、最初の方は、Tuittiで一緒に演奏。31小節目で、早くもob.と第2hr.演奏が終了するが、スコアでは、注釈でドイツ語で書かれている。45小節目では、第1vn.の4分音符の1箇所のラの音に注釈で奏法に指定がある。数字で最初に 4の音符。その後に、0の音符で非開放弦と開放弦による奏法であるが、この僅かな奏法でも緊張感がみなぎる。このあたりは、スコアがないと見落としやすい。
 vn.の4声部もスコアでは、後半のAdagioからは細かく分かれて書いてある。楽器編成でも、cb.とvc.も分離して書いてある。Finaleは消えていくため、サービス精神も含むを記載はしたが、それはそれで当てはまる。スコアを見ると、楽器の数が次第に少なくなって行き、ページをめくる度に、寂しくなってしまう。これもスコアを見る醍醐味のひとつであると思った。見て楽しみたい曲ではあるが、スコアを見ても楽しみたい曲である。なお、ディビス盤の演奏では、cmb.のはスコアには記載がしていないが、低弦と同じ箇所で終了しているようだ。
2012年6月30日 追記 ディビス盤では通常、finaleの最後の部分は拍手が入っている。しかしこの演奏に関しては、ライブ録音にも関わらず、拍手が入っていない。参加している聴衆には、拍手が不要であることは、十分理解がされているのであろう。当日の演奏会で、どの様な順番で演奏されたのか、気になるところである。
 2013年9月2日 追記。ホグウッド盤を聴取。奏者の人数が少ない分、弦を中心とした細かい音が聴き取れるのが特徴と、しばしば記述をしてきた。この曲では、それが至るところに見出せる。特に第1楽章の冒頭が一番に当たる。今までの3者(フィッシャー、ドラティ、デイビス)では、殆ど、聞き落としがちであった、冒頭の第1主題は、ついつい第1vn.の鋭い下降旋律に注目されてしまう。
 しかしながら、伴奏に徹している第2vn.は、2つの音域で分かれての演奏になっている。また、この第2vn.は至るところで、分奏の箇所がある。この違いは、従来までの3者の演奏では見落としがちであった。それに対して、ホグウッド盤では、とてもクリアに聴き取れる。当時の小編成で演奏されたスタイルだからこそ、この点が分かるのは、ホグウッド盤ならではの特徴。 
  第2楽章は、弱音器のvn.が主体で演奏されるが、奏者と種類の少ないob.とhr.の2つの楽器の使い分けも注目。この曲だけとは限らないが、提示部と再現部では楽器のパートを変えて演奏をしている。後年にも、このスタイルは随所に採用されるが、この緩徐楽章でも特徴のひとつ。(第1楽章では、管楽器が余り管楽器が活躍しなかたので対照的)
 井上著の記述では、hr.について当時は、Fis管が特別に作られたのではないかと記述。。hr.の調性を見てみると、第1楽章は2名の奏者であったが、それぞれAとEの調でひとりずつ。第2楽章は、A調で2名。一つ飛ばして、第4楽章は第1楽章と同じ2名。その間の第3楽章は、Menuetとtiroともに、Fis調が2名。ホグウッドでは古楽器のナチュラルhr.と思うので、井上著の記述の通り、この第3楽章のみ、特別の製作したFis管のhr.を持ち替えての演奏をしたのではないか。実際の当時の演奏を、曲では、誰もがFinaleを見たいと思っている。しかしながら、それ以外にも第3楽章でhr.の持ち替えなどが見られると思うので、興味深い。ホグウッドならではの、実際に見てみたい要素が高い曲として面白さが満喫。有名なパントマイムの様なFinaleは、弦の奏者が少しずつ減っていくのが、細かく聴き取れる。ホグウッド盤とフィッシャー盤とをどちらか、比較すると迷う。通好みでじっくり聴くのならホグウッドを取りたい。
 2014年1月12日 追記。 ヴァイル指揮のターフェルムジークの演奏を聴取。最近、デイビス盤を中心に記載をしていたので、中期の交響曲で残っていたヴァイル盤を聴取。フィッシャー盤と同様に、冒頭からテンポが速く、畳み掛けるような勢い。展開部の後半で、新たに提示部で登場しない旋律が出てくる箇所。ここでは長調となり明るく、テンポが、ややゆったりとなるのが印象的。第1楽章の後半の繰り返しがないので、演奏時間は僅か 4:46. vn.の配置が対向なので、第2vn.の細かい動きが聴き取れて、いかにも当時は、vn.が中心にメインだったかを聴かせる。しかし、第1楽章の第2vn.の分奏、finaleの vn.のバリオラージュの部分などが、やや不明確。対向配置でないホグウッド盤の方がこの点では優る印象。
 2016年1月10日 D バレンボイム イギリス室内管弦楽団のCDをNo.44に引き続いての45を聴取。No.44は、1975年の録音であったが、こちらは少し下がって1978年で、会場もNo.44と異なり、ロンドン ヘンリーウッドホールとなっている。No.44と比較して、音の鮮明さ、分離感、定位感がやや不足気味。音の潤いと残響が少し減っている。No.44ではcmb.が入っていたが、こちらは最初から入っていないようだ。
 第1楽章の冒頭、第2vn.のシンコペーション風の対旋律の切れなどが、ホグウッドの様に目立たない。各楽器のパートの音も、やや分かり難く、No.44の様な、Tuttiでの弦の重厚さまでは必要とはしないものの、潤いが不足していて迫力がやや欠けている。Finaleで各楽器が減っていく部分。弦楽器でも奏者が減っていくのがよく分かるが、自然な解釈だと思った。
 2016年9月7日  トン・コープマン アムステルダム バロック オーケストラ No.45を聴取。第1楽章 T1の第1主題。ここでは、第2vn.のシンコペーションの旋律も重要であるが、コープマンの演奏は他のパートに埋もれてしまい、はっきりと聴き取れない。この旋律は、提示部以外に、展開部、再現部でも大きな役割を果たすのに残念。
第2楽章は、比較的テンポが遅い。繰り返しを採用せず。No.44と比較して、対位法的な特徴よりも、Tuttiを含めた大きなスケールと強弱の対比を重視した曲になる。コープマンの演奏は、No.44と比較して、この特徴を活かせず。
 2017年1月17日 T. ピノック No.45を聴取。ヴァイル盤と比較をしながら聴取。第1楽章のテンポは遅めなので、冒頭主題の下降旋律の緊迫感が不足。第2楽章のテンポは、一つ前聴取したNo.47と同様にバイル盤のほうが遅め。遅い分、引きする様な背後に潜む雰囲気はヴァル盤に軍配。 Finaleも奏者が多いヴァイル盤が、Adagioにピノックよりも遅いテンポも相まって寂しい雰囲気が伝わってくる。No.47と同様にあらためて、ヴァイル盤の良さを再認識。
 

2018年2月26日 (Pablo Casals)指揮のマールボロ音楽祭管弦楽団、プエルト・リコ・カザルス音楽祭管弦楽団のNo.45を聴取。以下の2つのブログにも、このCDのレビューがある。パブロ・カザルス。このCDは他にもNo.94、95が入っているが、例によって作曲順番の若いNo.45から聴取する。録音が1959年と、かなり前のライブ。

http://blog.livedoor.jp/raimund/archives/8566572.html

http://haydnrecarchive.blog130.fc2.com/blog-entry-343.html

さすがに、この時代の録音のためかダイナミックレンジが狭く、音の定位感や分離感が不足。テンポは中庸だが所によっては、ゆったりと落とす箇所がある。各パートの旋律は、それほど明確ではない。冒頭の第2vn.のシンコペーションの旋律などは私としては、もっと切れのいい臨場感が欲しいが、カザルスの演奏では、むしろレガート風にシンコペーションを強調せず。この旋律は第1楽章で随所に登場するが、同じように柔らかい。
再現部に入る直前は、第1vn.がfで、回帰をしてくる。ここでは、一瞬テンポを落とし,soloで引いているようだ。


 第4楽章の後半のAdagioではさらにテンポを落としていく。ライブ録音のためか、それまでの楽章でも時折、会場の音が少し入っていたが、Adagioに入って演奏者が少しずつ退席していく音が、かなり明白に聴き取れる。ここまでは会場の音がそれほど、意識をしていなかった。しかし退席していく部分になると、この臨場感がすばらしい。楽器自体の音の定位感は、それまでは余りはっきりと分からなかったが、退席する音は、左右の奥行き感が明白に聴こえてくる。人間の聴覚とは意外なもので、カクテルパーティ効果の様に、この楽章は不思議なものだとあらためて認識した。
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 2018年5月31日 ラトル ロンドンフィル 45番 第4楽章を聴取。No.60からに引き続き。No.60との間に、交響曲ではないが オラトリオ 四季 より第4分 序奏が入っている。これに引き続いてNo.45のFinaleを採用。前半のPurestoは、テンポも中庸。
後半のAdagio は、楽器の定位感や分離感は十分に分かる。奏者が減っていく様子はある程度分かる。ライブ録音の割には、演奏そのもの意外の音が余り聴こえて来ない。(カザルスのライブ録音などは、会場の周囲の音まで聴こえてくるのとは対照的)
ある意味会場の録音が少し、入っていた方が、臨場感があってよいかもしれない。
 201893日 チャールズ・マッケラス セントルークス管弦楽団 No.45を聴取。第1楽章のテンポは速め。vn.は対向配置でないこともあり、冒頭からの第2vn.のシンコペーションの動機が不明瞭。No.31と同様にcmb.は終始入っている。

 Finaleの後半、奏者の数が次第に減ってくる部分。弦の各パートも明らか少なくなっているのがよく分かる。セッション録音のためか、減って来る演奏以外の音(退場時の椅子の音など)は全くない。ある意味ライブの雰囲気はかけていると思った。

 
2019年2月2日45番  N マリナー アカデミー室内管弦楽団 を聴取。No.44と異なり、この時期としてはsoloの箇所が多め。また第2vn.の独自の動きも比較的多いこともあり、対向配置を好む。特に冒頭の第2vn.のシンコペーションの旋律は重視をしたい。マリナーの演奏は通常配置ということもあり、第2vn.の旋律が明白でないため、いささか、好みに合わない。カザルスの演奏で、第1楽章 展開部 の終了直前。ここでは第1vn.がsoloで引いていると記載をした。(下記のブログ)

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-887.html

 マリナーの場合も同様に、solo になっている。A フィッシャーはMernuet trio を中心に、vn.パートを中心にsoloの箇所が多いが。この曲は自筆楽譜が存在しているとのこと。自筆楽譜では、どの様に記載がしていたのか興味がある。


 Finale を中心にsolo のとして聞く箇所が多い。しかし協奏交響曲のように冒頭からsoloとして聴く曲ではない。退席する意図のパントマイム的な要素も考えると、ライブが一番良いとは思う。上記ブログのカザルスの場合は、約60年も前の古い音源で、ダイナミックレンジもかなり狭く、ステレオの広がりも不足気味。しかし臨場感がとてもあり、パントマイムの趣旨とも合わせて、ライブの映像で聴いてみたい。
 一方、マリナーの演奏は1977年のスタジオ録音。Finaleのbass.を含むsoloの箇所も含めて、奏者が減ってくる雰囲気は少しは伝わってくる。しかし私としてはライブの演奏を好むこともありNo.44と比較すると、ランクは少し落ちると思った。
 2019年4月3日 エルンスト・メルツェンドルファー ウィーン室内管弦楽団 45番を聴取。第1楽章から、Tuittiでの迫力あり。他の曲では余りfg.が余り目立たないが、この曲では割合にはっきりと聴こえる。第1楽章の提示部の終わりの2小節の部分。通常はスラーで一旦柔らかく終わる。しかしメルツェンドルファーの場合は、スラーではスタッカートで演奏。たしか、この部分では、以前 P カザルス では、第1vn.は soloだったような記憶がある。提示部の繰り返しの部分でも同様。提示部や展開部でのブリッジの部分であるが、冒頭の鋭い動機の予感につなげている雰囲気。録音は第2,3楽章ではレンジが狭く、スクラッチノイズの様なチリチリ音が要所で目立つ。
最終楽章のAdagioからは、多少はヒス音などはあるが違和感は余りない。終曲に向かって楽器が減っていくのが分かりやすい。特に低弦のbass.とvc.が旋律を受け持つ部分では、それぞれsoloで引いている。奏者の減り具合と音量のバランスが比較的良好。