音楽聴取記録(交響曲の聴取 各曲の聴取記録 通しNo.52 hob-No.-46


No 
Hob.
No.
 
通称名   作曲年 調性   楽

 fl  fg trp  cl  timp   cmb ランク    聴きどころ、ポイント
52 46  1772 H 4 -  -  - - (1) C 第4楽章のcodaで突如第3楽章が出現。
       1 H Vivace
       2 h Poco Adagio
       3 H Menuet & trio、allegretto
4 H Finale、Presto e sucherzando
 調性がH調は珍しい。第2主題が短調で最初は提示。展開部は、第1と第2主題の2つが扱われる。第2楽章は、しんみりとした印象。シチリアーノ風に類似。フィッシャーのテンポはやや速めでAndanteに近い。この頃に主調が短調の交響曲が数多く作曲されているが、第2楽章もその雰囲気を保っている。trioは例によって、弦はsoloになっている。
 Menuet主部の長調と対比されている。Finaleは提示部の繰り返しがないロンド形式。再現部は短縮され、codaで突如、第3楽章のMenuetの主題が再登場、展開されるのは、びっくりする。その後、一気にさらに速めたテンポで締めくくるのが気持ち良い。聴き通すと、印象は少ないかもしれないが、何度か聴き返すと、工夫、実験的な取り組みなどがあることが分かる、通好みの作品。UP井上著には、アメリカの音楽学者ヤン・ルーの「18世紀の交響曲総覧」によると、ロ長調の曲は5曲しかない。めったにない調性を選択した点からも、ハイドンの研究心の表れと思われると記載がある。私が思った点とも一致することが多い。
 ドラティ盤は、Adagioのテンポはフィッシャーよりもやや速い。主旋律の第vn.の音を抑えて、他の楽器のパートの細かい音が聴き取れる。Menuetの主部はフィッシャーよりもかなり遅く、Andanteと思うほど。Finaleのテンポも遅い。codaでMenuetの主題が再登場するときは、遅いMenuetのテンポと対比される。Finaleのテンポが遅いのは、少し不満。好みが分かれるところでもある。
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 2011年1月3日 ディビス盤を聴取。Vivaceは、長調の第1主題と短調の第2主題の対比が良く表現されている。第2楽章では、管楽器も入っている。この時期からは、緩徐楽章は、管楽器が休むことはないケースが多い。シチリアーノ風のこの楽章では、低弦が時には、ピチカートで支えたり、独自の動きをするなど、意外な発見がある。
 Finaleも後半で、第3楽章の一部が回帰される。ユーモア的な雰囲気は、随所にあるが、流れは重視をしていなく、逆に休止を効果的に利用。ロ長調という特殊に近い調性や、随所に短調に流れるところが多い。ランクはCであるが、意外な発見で、もっと注目をされても良い点では、トップクラスと思う。
 (その1)2011年8月17日フィッシャー盤をスコアを見ながら聴取。意外な発見が随所にあると以前を記載した。第1、2楽章では、vc.とbass.の分離が結構あるが、スコアを見ないと見落とし勝ち。
 第3楽章のMenuetはfinaleでも回帰がされるのか、その主部は、26小節と通常よりも短め。finaleは、再現部の後半でmenuetの回帰がある。ここでは、L'istesso tempo di menuetと明記され、第3楽章と同じテンポを要求。スコアでは最後の部分に繰り返しの指定がある。 しかし、繰り返しを忠実に守った場合、どうしても、冗長になってしまうと推定。この後に続くhob-No.45のfinaleでも、同じ様に、独立したadagioが登場。その先駆けとなる曲として採用したと推定。
 なお、No.46と45は自筆楽譜が存在し、作曲年代が、1772年となっている。順番からして、有名なNo.45を最後に持ってきて、それに先立ちNo.46で、ためしに作曲したのであれば、合点が行きやすい。逆にhob No.の順番に聴き通して行くと、No.45の後にNo.46が来る。これでは、先駆けてこの曲があった意味が分かり難い。
 至るところに転調を繰り返す点は、スコアからでも十分に汲み取れる。フィッシャー盤では、finaleの速いテンポとmenuetの回帰の部分の対比がよく目立つ。
(その2)ドラティ盤では、Menuetのテンポがフィッシャー盤と比較して、かなりゆっくりめ。Finaleは、なお、ハイドン研究室(リンクあり)では、この曲についてランクが高く「数々の仕掛けが楽しめる」と記載があった。この点は私と同じ考え。
 デイビス盤は、いつものとおり、フィッシャー、ドラティ盤とのテンポが中間。ただしAndanteは、思ったよりも速め。繰り返しは忠実に守るが、さすがに最後の部分は、繰り返しがなし。なお、曲の最後は、ライブ録音でもあり拍手が入る。しかし、この曲は拍手が入っていない。曲の最後は、2小節半の休止がある。この休止を忠実に守るために、拍手が入ってしまった部分をカットしたのか。あるいは繰り返しを予測して聴衆が、拍手のタイミングを自重しすぎてしまたのか。私には難しい判断を強いられる。
2012年5月、再度、スコアを見ながら、3者の演奏を聴取。元々、3者の演奏は、テンポがそれぞれ違うのが聴き所である点は、同じ様に、第3楽章のMenuetのの主部と、第4楽章のテンポ
 2013年6月21日 追記。ホグウッド盤を聴取.。第1楽章で、短調になる部分が多く、陰影の多いのが特徴。
 Menuetの主部がFinaleの後半で登場するのが、この曲の特徴である。今まで聴いてきた3者の演奏は、Finaleの後半の部分の反復がない。スコアでは、この部分は、反復にの指示があり、ホグウッド盤では繰り返しを忠実に守っている。
 様々な仕掛けが楽しめると記載をしたが、この繰り返しがあると、意外な発見も二番煎じの様な雰囲気。この点ではホグウッド盤よりフィッシャー盤を薦めたい。
 演奏会でも、めったに取り上げられる曲ではないであろう。細かいところまで、じっくり聴くと味のある部分は、この頃のNo.64の類似。こちらは、数年前のためか、No.64と比べると、少し前の様な雰囲気と思った。
 2013年10月11日 追記。 ヴァイル指揮のターフェルムジークの演奏を聴取。ヴァイル盤は奏者の数が、ホグウッド盤ほどではないが、少ないほうであると思う。その分、細かいパートの音が聞取れる。この曲では、これが顕著で、特に第1楽章の冒頭でhr.を始めとした細かい伴奏の旋律が聴き取れる。ついつい、主旋律を担当するであろう第1vn.に聴きがちであるが、意外な発見。
 一方、第2楽章は、Poco  Adagioのテンポを忠実に守っているのか、今まで4者の演奏を聴いて来た中で、もっとも遅いテンポ。弦楽器が主体の演奏の中で、第2vn.を含めた細かい弦のパートが聴き取れる。再現部の真ん中辺りで、各パートが引きずるように、あたかもエコーをかけたように、聴こえる部分がある。丁度、hob-No.-38の緩徐楽章を少し回帰させる部分にも類似。こちらは作曲年代が経過をしていることもあり、楽器の扱い方や調性もも楽章間で大きく変わっているので、単純な比較はできないが。No.38と対比させると面白い。ランクはCで良いと思うが、ヴァイルの演奏の演奏は4者の中では一番、面白いと思った。
 2013年1月12日 追記。ハイドン関係の資料をネットで調べてみたら、下記のサイトに、この交響曲が掲載。元々ハイドン交響曲の中で、約30曲のぐらいの推薦している曲のひとつ。さすがに、初期〜中期の選曲は少ないが。ハイドンの唯一 H調は珍しい。また他の作曲家も、この調はめったに取り上げられない。(何せ#シャープが5つもある)
 ブログの著者は、この理由の一つとして、「第45番でのメヌエットの嬰ヘ長調(#が6つ)の響きが気に入った。弦楽器は#が増えるほど典雅な響きになるのですが、第45番で実際に曲を書き演奏することによってそれが確認出来たので、#の多い調を主調とした曲を書きたくなったのではないか。」と記載されている。しかしこれ以降、ハイドンは、この交響曲の分野では、もはやこの調は採用せず。大衆向けに分かりやすい調性を採用。しかしながら、展開部を中心に、曲の中で様々な転調があるのは、周知の通り。

ハイドンの交響曲を聴こう
http://www2.biglobe.ne.jp/~endoy/haydn046.html

2019年7月18日 追記 リンクが切れ入るようだ
 2016年6月7日 ブリュッヘンOrchestra of The Age of Enlightenment  No.47を聴取。ひとつ前のNo.46と同様に、試行的に色々と取り組んでいる個所が多いと思う曲のひとつ。第1楽章は弦を主体とした変奏曲であるが、ピチカート奏法などの音色の変化は取り入れず。50番代より少し前のスタイル。低弦でも通常は伴奏に徹することが多いva.が重要。ユニゾンが大半だが、vc.と同じ音程あるいは、異なる音程である。ブリュッヘンは、各弦の音の分離がそれほど目立たず。
 2017年1月15日 T. ピノック No.46を聴取。通好みと思う曲の一つだが、一つ前にも書いたようにヴァイル盤と解釈が、かなり似ている。このため、ピノック盤を聞いた後、再度ヴァイル盤を聴取し比較してみる。両者の違いは、やはり、かなり共通していて、楽器編成では奏者の数とcmb.の有無。しかし第2楽章では、ヴァイル盤は、ピノック盤と比較してかなりテンポを落とす。テンポを落としている分、ロ短調の調整とも相まって、悲壮感が高い。
 一方、Finaleは、ヴァイル盤では展開部と再現部の後半の繰り返しを採用。再現部で、Menuetの一部の旋律が戻ってくる思わぬ仕掛けがある。私としては、この仕掛けは一度でよいと思うので、繰り返しは好まない。それに対してピノック盤では、くりかえしを採用していないので、その分ピノック盤を推薦したい。
 
2017年3月23日スピルナー No.46を聴取。ハイドンで唯一のH調であるが、通好みが特徴としているのは、過去にも何度も記載をして来た。第3楽章のMenuetの一部はFinaleで回帰してくるので、Menuetそのものが、通常の曲と比べて、やや短め。Trioもコラール風な旋律で、不思議な雰囲気。一番面白いのはFinaleだが、スピルナー盤は、後半の繰り返しを採用。当初は、この繰り返しが内容が、私の好みにあうと記載をして来た。
 一方、この演奏を聴いてみて、他の曲ほど、繰り返しの部分の装飾は余りないものの、それほど違和感がない。フェルマータは休止符の個所が多く、演奏者の解釈により、このFinaleはかなり雰囲気が異なる。ライブの演奏だとFinaleの後半の繰り返しは行わないほうが望ましいかもしれない。しかし現代はCDで、繰り返し聴き直すことができる。改めて繰り返しの良さも、この演奏を通して見直した次第。
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  2018年5月29日 ラトル ロンドンフィル 46番 第4楽章を聴取。No.6から引き続いて聴取。このCDの収録時間は、全部で51:27.この時点で、ほぼ中間点になる。Menuetに引き続いての順番なので、一般的にはFinaleの様な雰囲気の曲が合っている。ハイドンの交響曲のFinaleで、なぜこの曲を選択したのか? CDの最後は、No.90のFinaleになっている。収録の順番としては、中間的に一応区切りをつけることもあり、No.90とは異なるタイプのFinaleをもってきたのではないか。
 作曲時期は1772年で、疾風怒涛の頃の曲のひとつ。楽長時代の最初の頃で、演奏対象は宮廷内のみ。大衆向けのスタイル向けでは無論なく小編成の奏者のみ。音楽が分かる一定数を対象とした聴衆のみの曲のひとつ。H調という、余り使われない調性を使用。第3楽章までは、通常の作曲スタイルい近いかも。しかしこのFinaleは、codaで突然、、ひとつ前の楽章のManuetの一部の旋律が登場し、流れの雰囲気ががらりと変わるユニークな部分がある。この意外な効果は、一般には余り知られていないが大きな特徴。これを目当てに、数あるFinaleの中から選択したのかもしれない。
 スピルナー ハイデルベルク盤は、Finaleの後半の繰り返しの採用。楽譜を忠実に守るなら、ラトルも、繰り返しを検討したかもしれない。しかしライブ盤ということや、No.90のFinaleが演奏会の最後に持ってくることを考慮すると、繰り返しを採用しなかったのは妥当だと思う。
  2018年6月10日 ヘルムート ミュラー=ブリュール ケルン室内管弦楽団No.46を聴取。少し前の ラトルの第4楽章で繰り返し含む、Codaの特徴について記載をした。No.43にも少し共通するがFinaleで、こちらも第3楽章Manuetの一部回帰を含むcodaがある。No.43のミュラーの演奏では、展開部と再現部の繰り返しを行い、その後Codaを持ってくるのは、大半の指揮者が行うのと同様。全集を録音しているデイビス盤は、大半は繰り返しを採用。スコアによると、展開部+再現部+T213(スコアの最後まで)は繰り返しの指定がある。しかしデイビス盤でさえも、この繰り返しの指定を守らない。もし忠実に繰り返しを守っていたら、Manuetの回帰を含む以外な仕掛けを2度味わうことになり、面白みに欠けるからだ。これに代わって再現部のT163までを繰り返している。一方最近聴取したラトル盤(ライブ)では、後半の繰り返しは採用せず。一方ミュラーの演奏は、デイビス盤と同じ。この当たりを整理してみると下記の通りとなる。

スコアの指示:提示部(繰り返し)→展開部+再現部(T213までcoda?を含む)繰り返し

ラトル盤(ライブ):提示部(繰り返し)→展開部+再現部(T163まで)→coda

ミュラー番    提示部(繰り返し) →展開部+再現部(T163まで)繰り返し→coda

デイビス、ミュラーいずれも、作曲者の指定とは異なり曲の終結であるT213の時点でなく、T163で繰り返しをしている。この手法だと、T164〜T213はcodaの位置づけとなる。この手法は、No.43とも共通している。No.43から引き続き聞いてみると、この共通点が良く分かる。
 2018年11月23日 46番 D バレンボイム イギリス室内管弦楽団を聴取。以前、No.44,45,48で1枚ものを入手済み。2枚セットで残りのNo.46,47,49
が入っている。3曲は重複するため、残りの3曲を記録に書く。以前の3曲では録音がどちらかといえば少し平面的と記載した。左右の広がり感はあるが、管楽器の奥行き感が少し不足気味。No.46に関しても同様。 
   モダン楽器で第2vn.は左側に位置。各パートを均等に表現するよりは、注目される旋律は、時には目立たせるのが特徴のひとつ。疾風怒濤期の緩叙楽章は聴き所が多いが、バレンボイムの演奏は、どちらかといえば管楽器が必要に応じて、前に出ている箇所がある。
展開部の途中でT29当たりから第1vn.が謡うように高音域で演奏する。ここでは第2vn.以下のパートは目立たせない。T31で2本のob.が入ってくると第1vn.はob.に受け渡して控えに回る。16分音符の動機は最初からいたる所にあるが、低弦でも柔らかく演奏。

Finaleの後半では、展開部と再現部の繰り返しは採用せず。大半の指揮者は、Menuetの一部旋律が回帰してくることもあり、繰り返しはなし。私の知る限りホグウッドのみ繰り返しを採用。これに先立ち、第3楽章Menuetのテンポをどの様に演奏するかも興味がある。バレンボイムは通常に近い。これに引き続き、Finaleで回帰してくる部分は、第3楽章よりもさらにテンポを落としている。
単に聞き流すだけだと、この回帰の部分は、第3楽章の類似箇所と同じ様に感じるかもしれない。テンポは一応同じ様に指定されていると思うが、確かに楽器のパートを含めて同じになっている。しかし速いFinaleに挟まれるように対比させるため、あえてテンポを少し落としたのかもしれない。T187からは、さらにテンポを落としているのが印象的。ハイドン唯一のH調で転調の箇所も多い。少し複雑な動きで実験的な要素も感がられる曲のひとつ。
通好みかもしれないが、様々な演奏を聴く楽しみがある。以前ラトルのライブ録音でレビューをしたことがある。このときはライブ録音で第4楽章のみの演奏だった。一方、こちらの方は、第1楽章からの通しての演奏なので、Finaleのcoda で、第3楽章とのテンポの違いなどが楽しめるのがメリット。No.46でどの楽章をとりあげるかとなれば、やはりFinaleになってしまう。ハイドンの曲で、一番面白い楽章を取り上げるとすればFinaleは個人的には少ないと思うが、この曲は当てはまると思う。
 2019年4月1日 エルンスト・メルツェンドルファー ウィーン室内管弦楽団 46番を聴取。少し前のNo.28では弦楽器と管楽器のバランスが悪く、ob.に押されている点を記載した。第1楽章で類似箇所がこの曲にもある。元々、♯が5ツあるめったにない調性。短調に時折なる部分も多く、陰影と強弱に富んだ曲のひとつ。疾風怒濤期には、とても多い特徴で、ある意味ハイドンの全曲の中でも、このあたりが微妙なニュアンスを味わうのが一番ピークでもあるところ。
 第1楽章、提示部T36の部分。短調で第1vn.の16分音符を含む上行動機、第2vn.のシンコペーション。ob.の持続音。過去の特徴が全て、ある意味網羅されている部分。メルツェンドルファーではob.が前面に出てしまう可能性がある。しかしこの部分では、ob.も適度なニュアンスで各パートもきれいに分離して聴こえる。
 他の楽章も弦楽器と管楽器曲のバランスも良好。Finaleで第3楽章の一部が回帰してくる部分も自然な雰囲気。このFinaleは休止の部分が多く、しかも休止の箇所が微妙に違う。スコアでは最後の部分に繰り返しの記号があるが、2小節余りも休止があって終わりになる。もしスコアどおりに最後の部分まで繰り返しがあったら、しばらく休止があって、再度、T72の展開部の冒頭に戻る。(ホグウッドはクリ返しを採用)もしライブ録音だったら、終わりそうで終わらない雰囲気はNo.90にも共通。S ラトルが No.64と同様に交響曲選集として、このFinaleを選曲したのも No.90と共に合点は行く。Codaのhr.の低い和音も、しっかりと聴こえてメルツェンドルファーでも良い演奏のひとつとしたい。