通
No |
Hob.
No. |
通称名 |
作曲年 |
調性 |
楽
章
数 |
fl |
fg |
trp |
cl |
timp |
cmb |
ランク |
聴きどころ、ポイント |
65 |
60 |
迂闊者 |
1774 |
C |
4 |
- |
1 |
- |
- |
- |
(1) |
C |
あくまで組曲の一つとして聴く交響曲。 |
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1 |
C |
Adagio-Alleglo di molto |
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2 |
G |
Andante |
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3 |
C |
Menuet |
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4 |
C |
Presto |
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5 |
F |
Adagio(di Lamenntatione) |
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6 |
C |
pretissimo |
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2017年5月1日 T ファイ No.60を聴取。視覚効果の高い曲で組曲として楽しむのが特徴と、自分なりに評価をして来た。冒頭の序奏からHr.が左側trp.が右側に左右対称的に配置しているので、Tuittiでの楽器が左右全体に広がって迫力がある。
余り注目されないが、第1楽章のT41でNo.45にも登場したシンコペーションの旋律を含む部分がある。提示部ではNo.45の旋律は登場しないが右側の第2vn.の旋律が引き立つ。この旋律は展開部のT109でNo.45の同じ旋律が登場し短調の調性と相まって聴かせ所。T119ではスッタカート風に刻み込むような下降する旋律が、調性を変えてT121でレガートとなるなど、微妙な解釈がある。この箇所ひとつをとってもスコアの背後にあるものを聴取者へ引きだすファイの姿勢が現れる。
第2楽章では繰り返しでは伴奏部分では、弦がピチカートに変更するなど、飽きさせない。第6楽章の中間部でvn.の即興がある。ホグウッドの聴取記録では指揮棒をたたく音を記載した。ファイの場合は、この叩く音はない。しかし左右に分かれたvn.パートの1名ずつのsolo奏者が明確に聴き取れる。第2vn.のsoloは、わずかだが少し遅れて第1vn.に追随して終わるなど興味深い。もともとこの曲自体、ツギハギのスタイルで6楽章あるので、聞き流すようなタイプではある。しかしファイの演奏は、従来と異なり聞き流す解釈は全くない。スコアに潜むニュアンスを、独自の解釈を通して現代の我々に導くことを目指している典型的な曲と思った。
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2018年5月30日 ラトル ロンドンフィル 60番 第6楽章を聴取。No.46から引き続く。No.46のFinaleで前半の一区切りをつけると思う雰囲気であったが、アンコールあるいは余白の様にNo.60の最後の楽章が登場。No.46と違って、作曲年代が少し下がり1774年頃のオペラ時代。この頃はツギハギの交響曲が多く、オペラからの転用箇所も多い交響曲の一つ。T19からのvn.のsoloの箇所で調弦を少し変えていく部分。ここでは、やはり実際の調弦の操作を見たい視覚効果の高い部分。この様に即興的で、楽しい部分の選択は選曲に関しては正解。
なお同じ指揮者でバーミンガム交響楽団のCDも入手しているが、この部分では指揮棒の音が聴こえているようだと記載をした。(下記の自分のブログを参照)アーノンクールの場合は、明らかに指揮棒の音であったが。このCDでは、指揮棒の音かどうかは不明瞭。(T15-16の部分)
http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-726.html
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2018年10月8日 60番 ニコラス ウオード The Northern Chamber Orchestra を聴取。ハイドンで唯一6楽章でツギハギ交響曲の一種でもある交響曲。統一感に関しては乏しい。その分テンコモリの中、分散した聴き所があるのが特徴。No.22、29と違って打楽器群が入る。序奏の冒頭の打楽器はそれなりの迫力があるのに対して、弦楽器のパートがやや押されている雰囲気。裏を返せば、打楽器群が効果的に使用されている部分が特徴でもある。提示部の後半で第2主題が提示され、はぐらかされたように消えかかるように一旦終わる。T83のffで爆発するがこれに入る直前のダイナミックレンジが思ったより広い。この部分(提示部)ではtimp.がないのが特徴。一方再現部の類似箇所では、音程こそ違うがT214はfだがtimp.が伴う。提示部と違った迫力の差が味わえる。
第6楽章の最初の部分で序奏の後、T19からvn.パートが調弦に入る部分。アーノンクールでは、この直前に指揮棒をたたいていたようだ。ウオードの場合は通常のまま。奏者が多い場合は、vn.の2つのパートを各1名ずつ計2名でT19から調弦する場合もある。ウオードの演奏は、元々のvn.の総数が少ないこともあり、soloかどうかが分かり難い。もし初演あるいは再演当時、同じ規模の人数であった、やはりsoloかどうかは分かり難かったかもしれない。これまで3曲の交響曲を聴取してきた。もし同じ奏者の数で後期の交響曲を演奏したら、やはり迫力感が不足する。NAXOSシリーズは後期は、別な奏者となっている。作曲年代と規模を考えたら、この演奏スタイルは良いと思った。
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2019年4月17日 エルンスト・メルツェンドルファー ウィーン室内管弦楽団 60番を聴取。ハイドンの交響曲では殆どないと思うva.が2声に分かれてかかれている交響曲。この部分ではob.にうもれてしまい、2声のパートが良く聞き取れない。
第6楽章で最初の頃にあるvn.の調弦部分。T ファイなどは、 2人の左右に分かれた2名の soloの奏者が、調弦をする部分が明白に分かる。メルツェンドルファーの方は、soloかどうか不明瞭。全体通して印象が少ない。
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2019年6月9日 60番 N マリナー を聴取。「つぎはぎ」で組曲の様に楽しむ曲ではあるが、va.の2つのパートの分離、通常の楽章に加えている点。第5楽章の謡うようなvn.とTuittiの対比。第6楽章の調弦など聴き所の点は多い。このため、視覚効果の高い曲ではある。過去のレビューでファイの演奏では、2つのvn.の対向配置を生かして、No.45の第1楽章などのような類似箇所で、vn.のパートが印象的と記載した。
http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-712.html
マリナーの場合は、思ったより各パートが目立たない。第2楽章のva、も思ったより目立たず。
第6楽章でT19から2つのvn.が調弦に入っていく部分。この部分では指揮者によってホッグウッドなどは、指揮棒を2回たたいているパーフォーマンスなどがある。マリナーの場合は特になし。また調弦の部分をvn.の2名のsoloで引くこともある。マリナーの場合は、soloでない雰囲気。
視覚効果の高い曲のひとつと記載した。過去のレビューで何度も、vn.の最低弦G線を半音上げる部分。ここで、soloの場合だと、solo奏者のみを注目すればよい。しかしvn.奏者が全てだと一斉に合わせて行う必要がある。このため、ある意味、vn.奏者には、特殊な奏法を合わせて実施するため、この当たりは実演を見てみたい。
ところで、各楽章の間合について興味を持った。今まで聴取して来た中では、第5楽章と第6楽章の間合いは、通常のCDの収録を同じようだった。ところが、マリナーの場合は明らかに間合いをかなりあけている。楽章間の間合については、ライブ録音では間合いのタイミングなどは興味深い。マリナーの場合はライブではないが、かなり長い間合いを採用したのは何故か?
第5楽章は、通常のvn.の調弦になっている。第6楽章の冒頭からT23でG線は半音高く通常通りの音程に戻る。しかし第5楽章の終わりから第6楽章のT23までは、vn.奏者がG線を半音下げる奏者が生じると思う。実際、第6楽章は、T23までG線で引く低い音程はない。この間合いの間に、もしライブ録音だったら、G線を半音低くさげる操作が入って来る。Tuittiだと、2つのvn.奏者の全てが、第5と第6楽章の間でこの半音下げる操作が入ってくる。この操作を想定して、あえて間合いを長くとっていたのかもしれない。
間合いといえば、確か、マーラーの交響曲第2番で、第1楽章の終わりに、作曲者は少なくとも5分は間を空ける指示があったと思う。マーラーの時代、ハイドンの時代、現代ではそれぞれ時間の感覚が異なる。CDで指揮者の違いを細かくチェックできる現代では、時間の概念なども異なる。昔のLPの時代だと、楽章間での時間調節は、レコードプレーヤーを上げるボタン操作など、同じ場所で簡単にできることが難しい。一方CDでリモコンの操作だと、この当たりは簡単にできる。聴きたい箇所もピンポイントで昔のテープレコーダーなどと違って容易。マリナー自体での演奏に対しての印象は余りないが、楽章間の空白、間合いの取り方については興味があった。
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2020年7月5日 60番 ジョヴァンニ・アントニーニ イル・ジャルディーノ・アルモニコ を聴取。No.30から引き続いて視聴。CDで第1、2楽章の繰り返しを採用しなかったのは映像でも同じ。
Nマリナーの演奏で、第6楽章で間合いを少しとっていたのを記載した。アントニーニのCD盤では、この間合いは殆どない。vn.の首席奏者はT15の直前まで、G線は、通常の音程で引いていると推定できる。CDだとT15の間合いが短いので、実際G線を半音下げる動作ができるか気になっていた。(下記のアドレスに譜面あり)
http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-913.html
Youtubeではこの当たりでアップではないが少しわかる。T15が終わって僅かな時間であるが、第1vn.のコンサートミストレスは、半音下げる調弦の操作を行っているのが分かる。G線を下げた後に元に戻す部分。ここで指揮者は一瞬ではあるが、「困ったような何か訴える表情」がアップになる。この当たりの表情などは映像でないと分からない。
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2020年10月1日 60番 ニコラウス・アーノンクール 、 ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを聴取。たまたまなのか、このCDはNo.45の次に収録されている。No.60の第1楽章の一部で、No.45 第1楽章の主題の動機が時折でてくるのが共通している。この続きを意識したなのか?(もっとも No.45の動機は、No.60以外に他の交響曲でも時折、使用されているが) ハイドンを聞き始めた当初は、つきはぎ交響曲の典型で、どこから聴いてもよい交響曲の一つと記載してきた。それは過去のことであり、私はとしては、楽章間の間合いも含めて、通して聞きたい曲になっている。
同じ楽章でのテンポの差を際立てされるのは、アーノンクールの特徴の一つ。特に、この第2楽章の冒頭の部分。冒頭からの最初の3小節の動機は、弦楽器のみで特に2声のvn.の演奏で、テンポをかなり落とす。vn.のG線の低い音域と古楽器を生かした、やや暗い音色をうまく表現。それに続くT3からの第2動機は、テンポを速めた大きな音量と対照的。第2動機は弦楽器は2声に分かれたva.が受け持っている。
ハイドンは弦楽器でva.を2声のパートに分けるケースは余りない。提示部の他の箇所にも一部は2声に分かれている。もう少しスコアを見てみると第5楽章のピチカートの伴奏部分もva.は2声に分かれている箇所もある。2声に分けた私なりの推測であるが。第2動機で弦楽器の伴奏としての厚みを持たせたのかと思う。この第2動機はユニゾンではなく管楽器も2声になっているからだ。展開部での冒頭からの類似箇所は、この音色と音量の差が余りないのもアクセントになっていると思う。T ファイもアーノンクールを師として仰ぎ、曲によっては、ファイもテンポをかなり差をつけている。この原点にもなっている雰囲気。
楽章の間合いに関して。N マリナーでは、第5と第6楽章の間で、かなりの間合いをCDの録音の中でとっている点を記載した。最近、聴取あるいは視聴したアントニーニの場合は、この間合いは通常の楽章と同じ様に、間合いは普通。アーノンクールの場合も同様だ。vn.の調弦を戻す手前で、ホッグウッドでの演奏は、指揮者が指揮棒?をたたく音が入っていた。今のところ、この音が入っているのは、ホッグウッドのみ。アーノンクールの場合も入っていない。第1vn.の調弦の部分はsoloだけが担当するか、あるいは第1vn.奏者の全員が担当するのか?私にはこの区別は分からない。しかし調弦をを戻す部分で、ライブの様に音域を一定に引き延ばすのではなく、少し区切るように演奏するのは興味深い。今まである程度のこの曲を聴いて中で、アーノンクールらしい特徴があるひとつだと思った。
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交響曲 第60番 編曲版
交響曲 第60番 編曲版 2022年3月25日 No.53 第2楽章に引き続き聴取。ソプラノは交代し、ハープ以外に奏者が増える。ハープ主体の編曲が中心ではあるが、打楽器のダルシマーが所々に入っているのが効果的。この楽器の詳細は分からないが、ピアノの前身で撥弦楽器の一つ。引き方によって微妙な音色が可能の様だ。特に第3楽章のTrioの部分。元々、この曲には打楽器群が入らない。長調の箇所が多い中この部分だけは短調になり、雰囲気が大きく変わる箇所。原曲ではT39には、持続音の旋律が入らない。しかしこの曲では、T39からダルシマーが入っている。この楽章だけとは限らないが、繰り返しは、どの箇所も全くない。このため、要所要所で注意深く聞く必要がある曲。
第5楽章は、原曲でも、第1vn.が主体で、歌うようにsoloのように引く楽章。確かに、この演奏でも第1vn.を主体に、Harpは伴奏に回り分散和音の音色を生かしている。しかし終始、第1vn.だけに任すだけでなく後半ではHarpもvn.と掛け合う箇所も聴き所。第6楽章の最初の方で、調弦を直す部分。最初からわざと、弦はどのパートも少し音程をずらしているのか? 私の聴取環境では分かり難いが。
録音に関して。ライナーノート P5では、va.は左側の手前。Vn.は左側のやや奥に位置している。第2楽章のva.は原曲では2部に分かれている。この曲ではva.の分かれたパートはvc.が受け持っているかもしれない。
いずれにしても原曲とは違った面白さが堪能できる。ただしNo.60の原曲を知った上でのレビューが必要と思う。ハイドンの交響曲は当時、様々な編曲がされ、演奏されたようだ。このNo.60だけとは限らないが、原曲を熟知した上で、編曲の面白さも分かると思う。
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2022年7月29日 60番 鈴木秀美 OLC オーケストラ・リベラ・クラシカ を聴取。冒頭から思ったより遅いテンポ。曲全体を通して平均的には、遅いテンポで通している雰囲気。第5楽章と第6楽章の間で、vn.は、弱音器を外す動作が入る。この録音ではこの外す間合いが殆ど入っていない。第6楽章でのvn.の調弦を直す前の部分。休止の間に舞台中央で、楽器以外の音が入っている。指揮者が何らかのパフォーマンスがあったと思うが、音源だけでは分からない。
ライヴ録音が基本のCDだが、以前から拍手のカットを含めて、楽章間の間合いが気になっていた。この曲も同様で、第5,6楽章の間が実際に、短かったのか。あるいは、CDの収録に関して、間合いを短くしたのか。アントニーニの最近のYoutubeの映像では、ライヴで全て通しての映像を最近、視聴した。この時は弱音器を含めた調弦の直す部分など、自然な流れで、見ていても仕掛けが楽しめる。この曲はライブで視覚的な楽しみが必要だが、事前な学習(曲の成立、通常とは多い6楽章、調弦を直す由来)が必要となる。このあたりは、複数の奏者などを聴き比べてから、新たに挑戦する必要がある。 この演奏に関しては、ライブと収録の方法について、改めて、この方法でよいのかどうか考え直した。
飯森豊水氏の楽曲の解説の中で、No.60に関して、プレスブルク新聞の特派員の記述があった。折しも最近これに関しては、編曲版でNo.60を含む、面白さを記載した。
http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1454.html
この編曲版のライナーノートは 1776年のザルツブルクの新聞からの引用だが、オーストリアなどの同じ地域ですでに人気があったようだ。なお、編曲版の録音は2017年頃なので、このCDよりも後となる。この編曲版のCDは、和訳はないが表装を含めて、実に楽しい。 (下記にレビューあり)
http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1456.html
それに対して、このシリーズは表紙の写真は全て、花のアップの様だと思う。CDのテーマに何か、花の特徴などについての共通点があれば、意義があるかもしれない。しかし花の写真の撮影者などの記載はあるが、写真や作品テーマなどについての記載がない。アントニーニのように、ハイドン以外の作品を収録し、テーマを持たせている表装とも異なる。表装などについては、不満もあると感じた。
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2022年8月30日 60番 オルフェウス室内管弦楽団 を聴取。下記のハイドン音盤倉庫にも好演のレビューがある。
https://haydnrecarchive.blog.fc2.com/blog-entry-197.html
指揮者のいないオフフェウス室内管弦楽団は、吉田秀和「名曲の楽しみ」にもしばしば登場した。2009年11月18日の放送では、芝居音楽としての楽しみの紹介の後、この演奏が紹介された。この時はさほど、この演奏に関してのレビューは特に印象がない記載だった。
http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-388.html
その後、そこそこ同じ曲で奏者を替えて聴取すると改めて、この演奏での特徴が自分なりに感じている。2009年の時は、比較する奏者の数も限られ、古楽器の演奏はこのときは初めての聴取だった。このため余りレビューとしては記述ができなかった。その後、アントニーニをはじめ、古楽器を含めた演奏の特徴も加味すると、この楽団の印象も変わって来た。テンポ自体は、確かに、余り変化はなく流れを重視している。繰り返しを全ては採用していない。この点については共通した認識は同じ。
一方、各パートの音色あるいは、特色に関しては、指揮者のいないこの演奏の中で、奏者の自主性に任せているのかもしれない。ハイドンの交響曲では、6楽章ある唯一の交響曲。第2楽章はva.の分奏が珍しくある。提示部のva.の部分を含む、扱い方やテンポの差などが興味深い。
下記のブログでアーノンクールのコメントと譜例あり。
http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1349.html
上記のレビューではアーノンクールの場合、冒頭とその後に続く旋律の強弱、テンポ、音色の対比などが興味深いと記載をした。これに対して、この演奏では全く対照的に流れるように進む。第2楽章の提示部以外にva.を分奏について記載をした。しかし第5楽章などにも、va.の分奏の部分がある。あえて2つに分けたva.の音色を重視しているかもしれない。
第2楽章の提示部を経て、展開部になるとva.の扱いが変わってくる。T60からT80まで、va.は全く登場しない。その間、T65からhr.が割りこむように入るなど、異様な雰囲気が漂う。va.という楽器は、もともと音域からして内声部の補強の意味合いも多いかもしれない。Tuittiの箇所でva.が入るか入らないかで、音量を含めた音色が異なる。逆にva.が入らない箇所だとtuittiとは異なる雰囲気になる。この箇所などは典型。以前、「オーケストラがやって来た」 あるいは「題名のない音楽会」の中で、テレビ中継でtuittiの音量の大きい箇所であえてva.のパートを抜いて演奏したことを思い出す。このときは実際なにか、物足りない音色だった記憶がある。この経験を思い出した。
第5楽章が終わって、第6楽章に続く間合いの部分。この演奏では、少し間をおいているので、私としては好みに合う。第6楽章の調弦を直す部分は、第1vn.がsoloで行っているのかどうかは分からない。ライナーノートには、奏者の氏名まで記載されている。しかしメンデルスゾーンなどの他のCDのものも含まれていて、正確な奏者の数が分かり難い。この後に続くNo.91と同じ奏者の数かどうかも不明。このcdは分売なので、せめてCDの奏者については、個別に記載して欲しかった。2曲目はオペラ Armida 序曲。その後、第3曲目にNo.91が続く。CDの合計の収録時間は54:10。 Lpなら これぐらい長さでも十分であるが、CDとしての分売としては、もうひとつ、他の収録の曲も追加して欲しかった。
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