音楽聴取記録(交響曲の聴取 各曲の聴取記録 通しNo.62 hob-No.55   
2024年2月29日 更新

No 
Hob.
No.
 
通称名   作曲年 調性   楽

 fl  fg trp  cl  timp   cmb ランク    聴きどころ、ポイント
62 55 校長先生 1774 Es 4 -  -  - - (1) B Finaleのロンド形式と変奏曲の混在。
       1 Es Alleglo di molto
       2 B Adagio、ma semplicemente
       3 Es Menuet
4 Es Finale、Presto

最新名曲解説全集では掲載はない。しかし補完には掲載されている。(この当たりは、No. 53と同じ)それによると、通称名の由来は、第2楽章の一定のテンポによるらしい。
 第1楽章はEsを主体に展開される。序奏はない。第1主題の提示でNo. 53と期待をして、第1主題が属調 の再現があるかと思うが、こちらはなし。経過部から第2主題と通常通りに続く。提示部は主として4つに大別される。展開部はかなり長く、こちらも主に4つに大別されるがNo. 53と同様に、各動機が扱われている。特に第3部のところで主調で第1主題が戻ってくるのは、中後期では良くあるパターン。長い展開部で聴き応えがある。
 第2楽章は、定番の弱音器使用。この由来となっていると思う、一定のリズムの変奏曲。繰り返しの有無、繰り返しの後半で変奏を伴うなど、今までにない試みがある。第3楽章のMenuettrioでは、例によってフィッシャー盤では弦のsolo
 第4楽章はロンド形式と変奏形式の混在。ob.fg.solo随所にある。第4楽章では、fg.が短い箇所ではあるが、聴かれる点が多い。この点は後期のユーモアの雰囲気に通じる。全曲を通じて、2楽章に変奏曲があるのは珍しい。全曲を聴き通して、第4楽章の形式と雰囲気に印象に残る。
202011日追記 タグとして2011122日とする)

20121222日 デイビス盤を聴取。展示部に対して、展開部が長いと思ったらそれ以上だった。(提示部66小節に対して、展開部は74小節) 緩徐楽章は、ほとんど2つのvn.が旋律を受け持っていて低弦が伴奏に徹する。この一定の低弦のリズムが、校長先生の由来になったと思うが。逆に各楽器の音色や旋律の受け渡しなどは、期待がほとんど持てない。
 Menuettrioでは、デイビス盤でもフィッシャー盤と同様にsoloとなる。トータルの印象ではランクはBとしているが、最初に比べると全体的に印象が少ない。ランクは、以前はBとしていたがCに下げるべきか悩むところ。(このひとつ前のNo.54とも対比させられるため)。

2013910日 追記。ホグウッド盤を聴取。この頃は自筆楽譜が少なく、作曲時代が特定しにくいことが多いが、hob-No.-5457は残っている。このため作曲年代が確定している。ホグウッド盤では、古楽器によることと、フラットが多い調性ということもあり、音色の明るさを重視しない。むしろ落ち着いた雰囲気に終始。後年、変奏曲のスタイルがしばしば登場するが、同一曲の中で2つの楽章があるのは珍しい。
 第2楽章は由来にもよる一定のリズムが支配。その分、楽器をを変えたり調を変えたりの工夫はあるが。聴き方によって、所詮リズムは一定になる訳は変わらず。じっくり聴くには、やや苦しいところ。
 石田著「交響曲の生涯」の中で、第3楽章のTiroの由来で、この部分が登場。trio = 3声は、本来の弦の3本を採用。スコアではvc.を含むsoloで、ここでは演奏。奏者が少ないながも違いが分かる。特にvc.に関しては恐らく、ホグウッドでは奏者がせいぜい2名程度と推定。Menuetの主部では、弦の奏者がそれでも約13名程度から一機にtrioで3名に減る。このため音量の対比が目立つ。しかしながらホグウッド盤でも、全体的に聴き通してみてこれといった特徴が少ない。

2015424日 追記。ゴバーマン盤を聴取。第1楽章の冒頭から2つのvn.パートは殆ど同じ動きになっている。T29からの経過部で第1 vn.は、上がっていく旋律に対して、第2vnは対旋律を描くように下がっていく部分が明瞭に分かる。各弦のパートがよく分かる例のひとつ。展開部初めのT84でも第2vn..が2つのパートに分かれている部分も印象的。
 第2楽章の変奏曲も最初のT32までは、2つのvn.パートは全て同じ音程と旋律で終始する。しかし第1変奏のT35で第1vn.がここから独自のパートを受け持つ。しかしながら元の主題が部分的に回帰してくる部分は、冒頭と同じ様に2つのパートは一緒。一定にリズムに終始した変奏曲ぐらいしか当初は印象になかった。しかしこのゴバーマンの演奏を聴いてみて、微妙な旋律やパートの変化が初めてわかる。一度聴いただけでは、この曲のよさは分からない。
 最終楽章にFinaleも同様に、2つのvn.パートが一緒になったり分かれたり。変奏曲で明るく進んでいくのが良く分かる。この曲自体は弦楽器が主体で動いていく部分が多い。弦の各パートを良く生かした演奏。聴き通していく中でNo.23 G-dur と同じ様に、旨く表現していると思った。


20181010日 55番 ニコラス ウオード The Northern Chamber Orchestra を聴取。自筆楽譜が存在1774年。No.45を含む疾風怒濤期よりも2年後の後になる。自筆楽譜が存在する。No.45,46.47のシリーズと比較して僅か2年後でも、変奏曲などの形式が入ってきて、聴衆への迎合が少しずつ入ってくる雰囲気。わずか2年の違いでも曲の雰囲気ががらりと変わる時期。 この頃の作曲時期のひとつとしてNo.51の中で、交響曲の分水嶺について記載をした。

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-100.html

このNo.55に関してsoloの箇所として第3楽章 trio のvc.がある。しかしこれ以外には、soloの箇所は余り目立たず。しかし第1楽章などはハイドンの得意とする展開部でシンコペーションの旋律が出てくる。長い展開部の中でもこの旋律は引きたつ。しかし対向配置でないこともあり今ひとつ、この演奏ではインパクトが不足気味。第2.4楽章は比較的分かりやすい変奏曲を採用。
 通して聴くとウオードは、緩叙楽章の柔らかい雰囲気が特徴。有名なNo.94の第2楽章のように緩叙楽章の途中で、急に f となってT34で少し驚かせる箇所がある。第2楽章の冒頭は弦楽器のみで、他のパートはT32まで全て休み。T33で管楽器が f で加わるが柔らかい印象。初演当時は少ない奏者であったと思う。まだ聴衆への迎合は余り作曲者自身も意識をしていなかった交響曲のひとつだと思う。
 裏を返せばエステルハーザ候を含むある程度、音楽に対する理解(転調などを含む曲のメカニズムなど)が分かる聴衆を前に作曲をしていた。このレベルを念頭に作曲された現代の聞き手側でも、それなりに知識等が必要であると思う。ウオードの演奏は、繰り返しの後半での装飾はないが。奏者が少なく大きな個性が余り見出せない。その分、模範となる演奏のひとつになるのではないかと思った。

 
 
2019411日 エルンスト・メルツェンドルファー ウィーン室内管弦楽団 56番を聴取。数年前に作曲された同じES調のNo.43と対比させてみても面白い。打楽器群は入らないのは共通している。序奏がない冒頭の第1主題は、弦楽器の重音で提示されるのは共通。No.43の方は、どちらかといえば終始、弦楽器が主体で動き、管楽器は和音で補強する箇所が多い。一方No.55の方は第1楽章から要所でも重音がある。井上著「ハイドン106の交響曲を聴く」の中で再現部 T185で短2度を含む不協和音が爆発する と記述がある。終わりに近い部分で、展開部と再現部の繰り返しがないので一瞬で終わってしまう。スコアで追わないと中々、分かり難い箇所ではある。ややゆっくりしたテンポとも相まって、この部分を旨く表現していると思った。
 第2楽章はNo.43はソナタ形式だったが、こちらは変奏曲。第1楽章に引き続いて、テンポが遅めで繰り返しは忠実に守る。繰り返しの後半での装飾等は特にない。2つのvn.が中心で動く印象が、概して強いかもしれない。しかしメルツェンドルファーの演奏では、va.以下の低弦も強調され切れ目のあるのが特徴的。

N
 ウオードレビューで譜面があるが(下記のブログ) T33で管楽器が初めてf で登場する。ウオードの場合は、管楽器がこの部分では柔らかく入るのが特徴と記載をした。それに対してメルツェンドルファーの場合は管楽器が、Tuittiとしてf で入っている。録音が得てしてob.が前面に前に出すぎる箇所があるが、この曲に関しては自然な雰囲気。

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1016.html

3楽章のTrioで、vc.soloがはいる部分がある。指揮者によっては、第12vn.のsoloでないパートに埋もれてしまうケースもある。しかしこの箇所も自然な雰囲気。No.43は、疾風怒濤期の典型のひとつで、ソナタ形式の緩叙楽章は、「こじんまり」と丁寧に演奏されることが主体と思う。それに対して、こちらの曲は数年先の作曲でもあり、楽器の音色の変化や、分かりやすさ聴衆に向けての開放感などが主体となる。同じ調性のNo.43No.55を続けて同じ指揮者で聴取すると面白い。No.43の方は、録音はFinaleを中心に、余りよくない箇所があった。こちらの方は、Finaleでも録音は比較的良好。
 201964日 5番 N マリナー を聴取。No.53からメルツェンドルファー盤が入り、しばらく中断していたが再開。第1楽章は、思ったよりテンポが遅め。第2楽章の変奏曲は、曲の中途 T34で突然、管楽器が強奏で加わる。井上著では「有名な驚愕交響曲の先触れのようだ」と記述がある。しかし、こちらの方は第2楽章の冒頭からvn.は弱音器をつけているので、 T34でも 打楽器群がないことも加わり、No.94の先触れには、余り関係ないと私は思う。終始vn.は弱音器をつけているので、マリナーに関しても T34の部分では、他の指揮者と同様に柔らかい雰囲気。
この第2楽章は「音楽で描いた肖像画」のたとえがこの本にはある。変奏曲ではあるが、時間が経過していくに従い旋律はもちろん変わっていく。しかしそれ以上に、スコアには強弱記号が書いてある。箇所によっては、微妙にニュアンスを変えている。第2楽章の冒頭では2つのvn.がユニゾンで p で演奏していた。その後2つのvn.パートは、ユニゾンが多い箇所が多い。しかしT80からの変奏では、第1vn.のみが単独で登場し、 しかもpp の指定になっている。冒頭よりも明らかに音量を落としていて、明確な対比が このマリナーの演奏でも良く分かる。肖像画というたとえは面白い。最初に表紙があって、時間の経過とともに、この絵を裏へめくっていくように曲を聴いていくたとえかもしれない。同じ人の肖像画が表紙にあって、めくる毎に、この絵が少しずつ表情を変えながら変わっていくたとえ。これは変奏曲という、最初の主題から旋律、リズム、調性を変えながら進んでいく手法に共通していると思う。
 第3楽章 Manuet の trio では、2つのvn.solo(指揮者によっては、vc.のみがsoloになることもあるかもしれないが) soloTuittiのバランスも自然。かなり前の録音であるが、メルツェンドルファーと違って、マリナー盤は初期から通して聞いている中とても良好。各パートの定位感と分離感も鮮明で安心して聴ける。推薦したい曲のひとつ。


 202195日 55番 鈴木秀美 OLC オーケストラ・リベラ・クラシカ を聴取。No.26から引き続く。その間にモーツァルト fg.協奏曲が入る。ライナーノートには、指揮者のコメントの一つとして特に、この曲の第1楽章はベートーベン No.3の交響曲の一致の指摘がある。
 確かに共通点が多いようだ。同じ調性であることはもちろん、No.55の冒頭の出だしの部分。和音が続いた後、柔らかい旋律が続く雰囲気などはよく似ている。第3交響曲での冒頭の部分も類似箇所と思うが。









それ以外の小結尾部分。第1vn.が冒頭の主題を確保しながら、対比させている箇所など。No.55の提示部の終わりの部分の動機(コデッタ)。この動機は、とても短いが展開部でも活躍する。第3交響曲の提示部の部分でもT65で同じような動機が登場する。



 そもそもこの2曲は同じ調性であるが、第2.4楽章に変奏曲を配置しているなども共通点がある。No.55の楽器編成で打楽器群が入っていないのが不思議だとのコメントもあった。確かに打楽器が入るとその分、迫力はあるかもしれない。
 初演当時、宮殿の場所の中、限られた聴衆が毎回、異なる交響曲を聴いていた。井上著「ハイドン106の交響曲を聴く」の中で、この曲の第1楽章、再現部T185の強烈な短2度を含む不協和音の記載があった。わずか1小節だが、もしこの箇所に打楽器が追加になっていると、この不協和音は消されていたかもしれない。打楽器が入らない分、ごく一部の箇所とは言え、作曲者なりに、この曲の聴き所を記載していたのかもしれない。ある意味、打楽器群が入らないことはよかったと思う。



 第2楽章の変奏曲で Adagio ma Semplicemente  「ゆっくりと しかし簡単に」 の記述がある。過去にもこの変奏曲で「肖像画をめくっていくたとえ」を記載した。変奏の数や変化が余りないが少しずつ変わっていく雰囲気は確かに本をめくりながら顔が少しずつ変わっていく例えと感じている。
「しかし簡単に」の注釈について。テンポの変化も余りない。「簡単」の根底には、一定の伴奏する旋律があると思う。特に冒頭から低弦は殆ど1小節目から、旋律が入っていて、裏拍にから入る記載がないようだ。このためこの楽章全体に一定のリズムで続いている雰囲気を保っている。
 一方、同じ変奏曲のFinale。同じ変奏曲の形式でも、前泊が随所にあるため、速いテンポも加わり躍動感がある。2つの楽章でも低弦は常に一定のリズムを刻んでいる。元々、低弦の厚みが大きいので、曲を通しての安定感がよくわかる印象。後期の変奏曲では、転調が多くテンポも変わるのとは対照的。
 このCDは、モーツァルトのfg.協奏曲を挟む3曲の構成。同じ一晩に3曲がセットで順番に披露されている。一つ前のCDにも共通するが、モーツァルトの管楽器の協奏曲を間に入れている。前者fl.協奏曲は、シャープ系の明るい調性。管楽器のfl.を生かした音色。一方、このCDは、fg,と いう低音楽器。しかも3曲ともにフラットの調性。奏者は古楽器を使用しているのでフラット系の、やや暗い音色がよくわかる。2曲目のfg.協奏曲は、古楽器では日本で初めての初演と記載があった。fg.の細かい仕組みはよくわからないが。私がこのCDを聴く限り、低音楽器でありながらも、1オクターブ高い倍音も豊富に聞こえる雰囲気。旋律楽器で低音を演奏する機会が多いfg.だが、独奏楽器でこの演奏を聴いてみると、管楽器で倍音が多い雰囲気がよくわかる。
 1曲目のNo.26d-mol でフラット記号が2つの調性。長調の部分は多くなく3楽章で突如のように終わる。一方の3曲目のNo.55は、不協和音がほんの一部を含むものの概して、後期に向けた分かりやすさを一見して前面に押し出している。指揮者も前半と後半の対比がポイントであるとコメントをしていた。以前は同じCDを聴取するにあたり、作曲順番を比較的、忠実に守って聴取をしていた。たまたまこのCDは作曲順番に収録されている。仮に作曲順番で収録されていない場合も、作曲年代にかかわらず、順番に通して行く方法がよいと改めて認識した。

 録音が気になったので、この会場となった朝日ホールについて調べてみた。音響設計は、過去に何度か掲載した永田音響設計ではないようだ。ホールの大きさは舞台を除くと大体、間口が約10m 奥行が 約30m。 以前、ロンドンの初演当時 ハノーヴァ ホールの残響を含めたホールの大きさについて記載をした。

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-287.html


奥行は、ハノーヴァ ホールは 幅 10m×奥行 24mと記述があったが。現在は、このホールは解体されていて現存していない。舞台などの付属設備なども含めて詳細な比較はできないが。朝日ホールは2階席もあるが552席数と比較的、小さいホール。大きさ的には昔のホールと大差がないかもしれない。しかし満席だと残響が1.7秒もある。ハノーヴァ ホールの残響は0.96秒と比べて長い。ハノーヴァ ホールは解体されているので単純な比較はできないが、残響が長い分、現代では響きの良い会場で聞けることになる。



 2024年2月26日 55番 J クランプ Johanees klumpp Heidelberger Sinfoniker を聴取。自筆楽譜が存在し、鈴木秀美 OLCのライナーノートによると、ベートーベン No.3との類似性の指摘がある。以下は OLCの演奏のブログのアドレス

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1406.html


しかし私にはこの曲との類似は余り感じない。この曲全体を通して感じることの一つに、強弱の対比がある。例えば第1楽章の提示部の部分。この頃の作曲の特徴の共通した特徴の一つかもしれないが、分かりやすい動機のが登場した後、強弱を変えて何度か変わっていく。強弱の部分ひとつをとってみてもT57の強弱の入れ替わりが多い。調性は異なるが、例えば初期の頃の交響曲のひとつNo.9を例に取り上げてみる。全部で3楽章でこちらのテンポは速い。T44〜T46の第2主題の2小節部分のみ。提示部だけの部分なので単純には比較できないかもしれないが。初期の頃と比べると、こちらの方は弱奏の部分は1箇所のみ。



第3楽章  Menuetto も全体的に長く、強弱の対比も多い。Finaleのロンド形式も変奏曲。強弱対比がもちろん多い。全体の4楽章の内、変奏曲が2曲もあることを含めて、強弱の対比が多いと思う。それに対して後の2曲はNo.68、67なので、強弱の対比もあるが、solo
奏法を含めた音色の変化を加えているとの対称的。
上記のことから、No.55に関しては、第1に曲全体を通して音量の対比Pointになると思う。
 打楽器群が全て入らない曲なので、弦楽器、管楽器同士を中心とした強弱の対比となる。この曲だけとは限らないもしれない、少なくともvn.2つのパートに関しては、ユニゾンで演奏する箇所が少ない。第2vn.は殆ど下の音のパートを弾いている。2つのvn.パートの奏者数
4名ずつなので、tuittiの箇所の音の音程の差なども聴き所が加わる。展開部の疑似再現。ハイドン曲を聴く」にも記載があるが、再現部T185の不協和音の箇所など、直ぐは分からない仕掛けもある。
 2024年2月27日 55番 J クランプ Johanees klumpp Heidelberger Sinfoniker を聴取。(その1からの続き)

 ニックネームの由来となった 学校教師、校長先生の第2楽章。ライナーノートには、様々な変奏をとりながら、ハイドンはこの変奏をその後は取り上げなかった。(Haydn never becomes superficial in his orchestration either.) 変奏の展開方法は、ある意味、似通った? ありふれた展開の手法にも見える。例えばNo.81の第2楽章と比較してみると分かりやすい。No.81は変奏の数は少ないが、各パートの受け渡しの箇所も多く、弦楽器はピチカートで弾く箇所など音色の変化が大きい。一方、No.55は管楽器のsoloの箇所は限られ、調性やテンポの変化も少ない。No.55は敢えて、調性やテンポの変化の制限を受けながらの中で、強弱を中心に変奏曲としての集約を図ったような意図もうかがえると感じる。 

第2変奏のT31の部分。この交響曲の中では、唯一、菅楽器のみのsoloが入る箇所。管楽器のfg.はFinaleが始まってから低弦と一緒に演奏していた。しかしこの箇所のみfg.が独立、菅楽器のsoloの一員として参加する。Finaleが始まってから音色が大きく変わる箇所。緩徐楽章で弦楽器のみのユニゾンに加えて、菅楽器が追加で入るのとは異なるパターン。管楽器がバトンタッチをする雰囲気になる。T31までは 弱奏が続き、T31からも一応、弱奏のまま。録音ではかなりT32の部分から管楽器の音が大きく入っている。一瞬、少し違和感が入るかも。しかし聴覚というのは不思議なもので、最初は大きく聞こえそうな管楽器のsoloの箇所も、聞き流し行くに従い、心地よい音量になってくる。

 2024年2月28日 55番 J クランプ Johanees klumpp Heidelberger Sinfoniker を聴取。(その2からの続き)

第3楽章  Menuetto も全体的に長く、強弱の対比も多い。Finaleのロンド形式も変奏曲。強弱対比がもちろん多い。全体の4楽章の内、変奏曲が2曲もあることを含めて、強弱の対比が多いと思う。それに対して後の2曲はNo.68、67なので、強弱の対比もあるが、solo奏法を含めた音色の変化を加えているとの対称的。

 ライナーノートには、 Menuetto  Trio の最後の方で、No.13 Finaleの 主題で Fuck も採用した Fugue の旋律の記載がある。たしかに T67−69の第1vn.の旋律は類似をしている。しかし私には、同じ楽章の Menuetto   T33-36の ob.のパートに既にその萌芽があると思う。ハイドンの交響曲の中の Menuetto では、後期の作品の中には、No.92のように Trioより前に、既に主題の予兆を示すような箇所があるからだ。



鈴木秀美 OLC の奏者数とクランプの奏者数は全く同じ。vn.も対向配置。両者の録音を比較してみると、やはりクランプの方は、ライヴではなくスタジオ録音のためか各パートの音が鮮明。たとえば2名のob.奏者も第1、2ob.奏者のそれぞれの位置まで分かる。昔のLPで弦の奏者が多く、菅楽器が奥側にありすぎて、細かい音まで分かり難いことは皆無。残響を抑え直接音を多く取り入れている。この録音のよる効果で各パートの掛け合いが堪能できるのは、やはりありがたい。