音楽聴取記録(交響曲の聴取 各曲の聴取記録 通しNo.54 hob-No.45
2024年6月10日 更新

No 
Hob.
No.
 
通称名   作曲年 調性   楽

 fl  fg trp  cl  timp   cmb ランク    聴きどころ、ポイント
54 45 告別 1772 fis 4 -  -  - - (1) B 第4楽章は、ユーモアの雰囲気で。
       1 fis Alleglo assai
       2 A Adagio
       3 fis Menuetto & trio、allegretto
4 fis-A Finale、Presto-adagio
以前から「告別」や「さよなら」の愛称名で親しみのある交響曲。第4楽章の終わり方は、ユーモアの雰囲気を示すためのサービス精神のひとつと解釈したい。それよりも、注目するのは第1楽章だと思う。fisの短調の悲劇的な調性を端的に表現している第1主題。単純ではあるが、一度聴いたら忘れられない。下行音で、ここまで表現できる旋律の歌い方。何回かの転調を経ての提示部。第2主題は、殆ど目立たなく経過部に近い。しかし、展開部の後半で新たな発展した旋律が登場するのは、斬新的な取り組みである。再現部のcodaはないが、これでも十分な聴き応え。フィッシャー盤ではテンポは速いが、第1主題のくっきりとしたイメージが印象的。Finaleは、フィッシャーでは本来、各soloがはっきり聴き取れるが、ここでも細かい動きが分かる。弦の人数が減っていくのも興味深い。
 ドラティ盤は、Allegloでの展開部と再現部の繰り返しがない。テンポは大差がないが、下行音のするどい主題が、フィッシャーと比較して、はっきりしない。Finaleで最後のテンポはゆっくりだが、細かい音が今ひとつ聴き取りにくい。No.44と、どちらかを取るといわれたら、私は、No.44を推薦したい。
(2020年1月1日追記 タグとして2011年1月14日とする)
2011年1月4日 ディビス盤を聴取。
今回たまたま、この曲のスコア(総譜)を見ながら聴取をする。著作権が切れているため、無料でダウンロードが可能。下記のブログを参照。
http://classic896.blog27.fc2.com/blog-entry-89.html
 スコアを見ながら聴取をすると、Allegloの展開部に入ると第1主題が主調とはかけ離れた調性のC調から登場し、次第にめまぐるしく転調しているのが、手に取るように分かる。また再現部では第1主題が主調で再現されるも、あたかも第2展開部のように、提示部以上にめまぐるしく調性が変わっていくこと。その分、第2主題は極度に圧縮されて、codaもなく切り詰めて終わる流れが良くわかる。 
 cmb.はディビス盤では、通奏低音として同じ動きが多いが、スコアを注意深く見ると、高音部では装飾音が必要に応じて入っているのが分かる。第1楽章は、弦楽器が中心だが、va,もvc.と同じ旋律が多いが、ところどころ独自の動きがあるのもスコアを見て分かる。
 cmb.の装飾は第2楽章に入るとさらに目立つ。(T16、33-35あたり) 
 第4楽章の冒頭は、スコアでは、第1、第2vn.が合わせて4名となっている。ただし、最初の方は、Tuittiで一緒に演奏。31小節目で早くもob.と第2hr.演奏が終了するが、スコアでは注釈でドイツ語で書かれている。45小節目では、第1vn.の4分音符の1箇所のラの音に注釈で奏法に指定がある。数字で最初に 4の音符。その後に、0の音符で非開放弦と開放弦による奏法であるが、この僅かな奏法でも緊張感がみなぎる。このあたりは、スコアがないと見落としやすい。
 vn.の4声部もスコアでは、後半のAdagioからは細かく分かれて書いてある。楽器編成でも、cb.とvc.も分離して書いてある。Finaleは消えていくため、サービス精神も含むを記載はしたが、それはそれで当てはまる。スコアを見ると、楽器の数が次第に少なくなって行き、ページをめくる度に、寂しくなってしまう。これもスコアを見る醍醐味のひとつであると思った。見て楽しみたい曲ではあるが、スコアを見ても楽しみたい曲である。なお、ディビス盤の演奏では、cmb.のはスコアには記載がしていないが、低弦と同じ箇所で終了しているようだ。
2012年6月30日 追記 ディビス盤では通常、finaleの最後の部分は拍手が入っている。しかしこの演奏に関しては、ライブ録音にも関わらず、拍手が入っていない。参加している聴衆には、拍手が不要であることは、十分理解がされているのであろう。当日の演奏会で、どの様な順番で演奏されたのか、気になるところである。
2013年9月2日 追記。ホグウッド盤を聴取。奏者の人数が少ない分、弦を中心とした細かい音が聴き取れるのが特徴と、しばしば記述をしてきた。この曲では、それが至るところに見出せる。特に第1楽章の冒頭が一番に当たる。今までの3者(フィッシャー、ドラティ、デイビス)では、殆ど、聞き落としがちであった、冒頭の第1主題は、ついつい第1vn.の鋭い下降旋律に注目されてしまう。
 しかしながら、伴奏に徹している第2vn.は、2つの音域で分かれての演奏になっている。また、この第2vn.は至るところで、分奏の箇所がある。この違いは、従来までの3者の演奏では見落としがちであった。それに対して、ホグウッド盤では、とてもクリアに聴き取れる。当時の小編成で演奏されたスタイルだからこそ、この点が分かるのは、ホグウッド盤ならではの特徴。 
  第2楽章は、弱音器のvn.が主体で演奏されるが、奏者と種類の少ないob.とhr.の2つの楽器の使い分けも注目。この曲だけとは限らないが、提示部と再現部では楽器のパートを変えて演奏をしている。後年にも、このスタイルは随所に採用されるが、この緩徐楽章でも特徴のひとつ。(第1楽章では、管楽器が余り管楽器が活躍しなかたので対照的)
 井上著の記述では、hr.について当時は、Fis管が特別に作られたのではないかと記述。。hr.の調性を見てみると、第1楽章は2名の奏者であったが、それぞれAとEの調でひとりずつ。第2楽章は、A調で2名。一つ飛ばして、第4楽章は第1楽章と同じ2名。その間の第3楽章は、Menuetとtiroともに、Fis調が2名。ホグウッドでは古楽器のナチュラルhr.と思うので、井上著の記述の通り、この第3楽章のみ、特別の製作したFis管のhr.を持ち替えての演奏をしたのではないか。実際の当時の演奏を、曲では誰もがFinaleを見たいと思っている。しかしながら、それ以外にも第3楽章でhr.の持ち替えなどが見られると思うので興味深い。ホグウッドならではの、実際に見てみたい要素が高い曲として面白さが満喫。有名なパントマイムの様なFinaleは、弦の奏者が少しずつ減っていくのが細かく聴き取れる。ホグウッド盤とフィッシャー盤とをどちらか、比較すると迷う。通好みでじっくり聴くのならホグウッドを取りたい。
2014年1月12日 追記。 ヴァイル指揮のターフェルムジークの演奏を聴取。最近、デイビス盤を中心に記載をしていたので、中期の交響曲で残っていたヴァイル盤を聴取。フィッシャー盤と同様に、冒頭からテンポが速く、畳み掛けるような勢い。展開部の後半で、新たに提示部で登場しない旋律が出てくる箇所。ここでは長調となり明るく、テンポが、ややゆったりとなるのが印象的。第1楽章の後半の繰り返しがないので、演奏時間は僅か 4:46. vn.の配置が対向なので、第2vn.の細かい動きが聴き取れて、いかにも当時は、vn.が中心にメインだったかを聴かせる。しかし、第1楽章の第2vn.の分奏、finaleの vn.のバリオラージュの部分などが、やや不明確。対向配置でないホグウッド盤の方がこの点では優る印象。
2016年1月10日 D バレンボイム イギリス室内管弦楽団のCDをNo.44に引き続いての45を聴取。No.44は、1975年の録音であったが、こちらは少し下がって1978年で、会場もNo.44と異なり、ロンドン ヘンリーウッドホールとなっている。No.44と比較して、音の鮮明さ、分離感、定位感がやや不足気味。音の潤いと残響が少し減っている。No.44ではcmb.が入っていたが、こちらは最初から入っていないようだ。
 第1楽章の冒頭、第2vn.のシンコペーション風の対旋律の切れなどが、ホグウッドの様に目立たない。各楽器のパートの音も、やや分かり難く、No.44の様な、Tuttiでの弦の重厚さまでは必要とはしないものの、潤いが不足していて迫力がやや欠けている。Finaleで各楽器が減っていく部分。弦楽器でも奏者が減っていくのがよく分かるが自然な解釈だと思った。
2016年9月7日  トン・コープマン アムステルダム バロック オーケストラ No.45を聴取。第1楽章 T1の第1主題。ここでは第2vn.のシンコペーションの旋律も重要であるが、コープマンの演奏は他のパートに埋もれてしまい、はっきりと聴き取れない。この旋律は提示部以外に、展開部、再現部でも大きな役割を果たすのに残念。
第2楽章は、比較的テンポが遅い。繰り返しを採用せず。No.44と比較して、対位法的な特徴よりも、Tuttiを含めた大きなスケールと強弱の対比を重視した曲になる。コープマンの演奏はNo.44と比較して、この特徴を活かせず。
 2017年1月17日 T. ピノック No.45を聴取。ヴァイル盤と比較をしながら聴取。第1楽章のテンポは遅めなので、冒頭主題の下降旋律の緊迫感が不足。第2楽章のテンポは、一つ前聴取したNo.47と同様にバイル盤のほうが遅め。遅い分、引きする様な背後に潜む雰囲気はヴァル盤に軍配。 Finaleも奏者が多いヴァイル盤がAdagioにピノックよりも遅いテンポも相まって寂しい雰囲気が伝わってくる。No.47と同様にあらためて、ヴァイル盤の良さを再認識。
 

2018年2月26日 (Pablo Casals)指揮のマールボロ音楽祭管弦楽団、プエルト・リコ・カザルス音楽祭管弦楽団のNo.45を聴取。以下の2つのブログにも、このCDのレビューがある。パブロ・カザルス。このCDは他にもNo.94、95が入っているが、例によって作曲順番の若いNo.45から聴取する。録音が1959年と、かなり前のライブ。

http://blog.livedoor.jp/raimund/archives/8566572.html

http://haydnrecarchive.blog130.fc2.com/blog-entry-343.html

さすがに、この時代の録音のためかダイナミックレンジが狭く、音の定位感や分離感が不足。テンポは中庸だが所によっては、ゆったりと落とす箇所がある。各パートの旋律は、それほど明確ではない。冒頭の第2vn.のシンコペーションの旋律などは私としては、もっと切れのいい臨場感が欲しいがカザルスの演奏では、むしろレガート風にシンコペーションを強調せず。この旋律は第1楽章で随所に登場するが、じように柔らかい。
再現部に入る直前は、第1vn.が f で回帰をしてくる。ここでは、一瞬テンポを落とし,soloで引いているようだ。


 第4楽章の後半のAdagioではさらにテンポを落としていく。ライブ録音のためか、それまでの楽章でも時折、会場の音が少し入っていたが、Adagioに入って演奏者が少しずつ退席していく音が、かなり明白に聴き取れる。ここまでは会場の音がそれほど意識をしていなかった。しかし退席していく部分になると、この臨場感がすばらしい。楽器自体の音の定位感は、それまでは余りはっきりと分からなかったが、退席する音は左右の奥行き感が明白に聴こえてくる。人間の聴覚とは意外なもので、カクテルパーティ効果の様に、この楽章は不思議なものだとあらためて認識した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 2018年5月20日 45番 ロスバウト ベルリンフィルを聴取。1958年のステレオ録音。第2vn.は、左側に位置。第1楽章の冒頭で、第2vn.のシンコペーションのリズムが一番の聴き所であると思うが、この演奏では余り目立たず。
 Finale後半から楽器が減ってくる部分。前半までの奏者が、モダン楽器で通常通りの多いと思う。その後、次第に後半から減ってくる。中ほど、ob.奏者が終わる当たり。この部分で既にvc.はsolo.となっているようだ。自筆楽譜では、当時の奏者は、弦はそれぞれ1名ずつだと思うので、Finaleの最初から低弦は、奏者は1名ずつ。初演当初はこの部分はvc.奏者は1名のみ。しかし現代では、大半は低弦は複数の奏者が最初は演奏されるので、どの当たりから奏者を減らしていくのか興味があるところ。この当たりの部分は、実際の演奏で見てみたい部分ではあるが。
 この録音では既に少なくともvc.に関してはこの時点で既にsoloで引いているようだ。以前、バレンボイム ウイーンフィル コンサートで視聴したときは、この後に続くcb.の部分は既に奏者をかなり減らしていた記憶がある。この曲を聴き通してみて、フレーズごとに丁寧に緩叙楽章を中心に、柔らかいニュアンスで表現している部分が、やはり特徴だと思った。

(タグとして2018年5月20日とする)
 2018年5月31日 ラトル ロンドンフィル 45番 第4楽章を聴取。No.60からに引き続き。No.60との間に、交響曲ではないが オラトリオ 四季 より第4分 序奏が入っている。これに引き続いてNo.45のFinaleを採用。前半のPurestoは、テンポも中庸。
後半のAdagio は、楽器の定位感や分離感は十分に分かる。奏者が減っていく様子はある程度分かる。ライブ録音の割には、演奏そのもの意外の音が余り聴こえて来ない。(カザルスのライブ録音などは、会場の周囲の音まで聴こえてくるのとは対照的)ある意味会場の録音が少し、入っていた方が臨場感があってよいかもしれない。
 201893日 チャールズ・マッケラス セントルークス管弦楽団 No.45を聴取。第1楽章のテンポは速め。vn.は対向配置でないこともあり、冒頭からの第2vn.のシンコペーションの動機が不明瞭。No.31と同様にcmb.は終始入っている。

 Finaleの後半、奏者の数が次第に減ってくる部分。弦の各パートも明らか少なくなっているのがよく分かる。セッション録音のためか、減って来る演奏以外の音(退場時の椅子の音など)は全くない。ある意味ライブの雰囲気はかけていると思った。

 2019年2月2日 45番  N マリナー アカデミー室内管弦楽団 を聴取。No.44と異なり、この時期としてはsoloの箇所が多め。また第2vn.の独自の動きも比較的多いこともあり、対向配置を好む。特に冒頭の第2vn.のシンコペーションの旋律は重視をしたい。マリナーの演奏は通常配置ということもあり、第2vn.の旋律が明白でないため、いささか、好みに合わない。カザルスの演奏で、第1楽章 展開部 の終了直前。ここでは第1vn.がsoloで引いていると記載をした。(下記のブログ)

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-887.html

 マリナーの場合も同様に、solo になっている。A フィッシャーはMernuet trio を中心に、vn.パートを中心にsoloの箇所が多いが。この曲は自筆楽譜が存在しているとのこと。自筆楽譜ではどの様に記載がしていたのか興味がある。
 Finale を中心にsolo のとして聞く箇所が多い。しかし協奏交響曲のように冒頭からsoloとして聴く曲ではない。退席する意図のパントマイム的な要素も考えると、ライブが一番良いとは思う。上記ブログのカザルスの場合は、約60年も前の古い音源で、ダイナミックレンジもかなり狭く、ステレオの広がりも不足気味。しかし臨場感がとてもあり、パントマイムの趣旨とも合わせて、ライブの映像で聴いてみたい。
 一方、マリナーの演奏は1977年のスタジオ録音。Finaleのbass.を含むsoloの箇所も含めて、奏者が減ってくる雰囲気は少しは伝わってくる。しかし私としてはライブの演奏を好むこともありNo.44と比較すると、ランクは少し落ちると思った。
 2019年4月3日 エルンスト・メルツェンドルファー ウィーン室内管弦楽団 45番を聴取。第1楽章から、Tuittiでの迫力あり。他の曲では余りfg.が余り目立たないが、この曲では割合にはっきりと聴こえる。第1楽章の提示部の終わりの2小節の部分。通常はスラーで一旦柔らかく終わる。しかしメルツェンドルファーの場合は、スラーではスタッカートで演奏。たしか、この部分では、以前 P カザルス では、第1vn.は soloだったような記憶がある。提示部の繰り返しの部分でも同様。提示部や展開部でのブリッジの部分であるが、冒頭の鋭い動機の予感につなげている雰囲気。録音は第2,3楽章ではレンジが狭く、スクラッチノイズの様なチリチリ音が要所で目立つ。
 最終楽章のAdagioからは、多少はヒス音などはあるが違和感は余りない。終曲に向かって楽器が減っていくのが分かりやすい。特に低弦のbass.とvc.が旋律を受け持つ部分では、それぞれsoloで引いている。奏者の減り具合と音量のバランスが比較的良好。
 2020年2月8日 45番 シュテファン・ザンデルリンク ロイヤルフィルハーモニー管弦楽団 を聴取。No.43,44で繰り返しの件で記載をしてきた。この3曲目も同様で、提示部のみを中心に、最低限の繰り返しのみ。vn.は対向配置でないこともあり、冒頭の第2vn.のいシンコペーションのリズムは余り目立たず。その分、No.43などt同様に、Tuittiでの弦のユニゾンが特徴のためか、奏者の数が多い特徴を生かしていると思う。しかし、随所にはsoloのかsoloの箇所がある。再現部直前のT140の部分。手元にあったスコアでは※として第1vn.は自筆楽譜は「f」の記載と注釈が記載してあった。No.45の自筆楽譜は見たことはないが、もし、作曲者の指定通りなら、第1vn.のパートは無論、soloではなく「f」のまま1小節余りの空白のあと、Tuittiにつながることになる。
 しかし、今まで大半の演奏を聴いてきた中で、T137の部分は多くの指揮者は「p」となっっている。このザンデルリンクも同様で、しかもsoloで引いているようだ。たしか P カザルスの演奏も soloで引いていたような記憶もある。
この曲は随所にsoloの箇所もあることに加えて、視覚効果を含めたライブで楽しみたい曲の一つになる。ライブの条件としては、曲の間合いもポイントになる。第1楽章から第2楽章の間に、vn.は弱音器をつける操作がはいる。僅かな時間ではあるが、多少は空白の楽しみが欲しいところ。このCDではこの空白時間が短い。ライブの雰囲気を味わうには今一つ。N マリナー でNo.60の曲。ここでは、vn.の調弦を変えることを含めてうまく表現したのとは対照的。昔のLPだと片面の収録時間の制限もあり、短めのケースが多いかもしれない。CDだと収録時間を余り気にすることががない。曲によっては各楽章の冒頭から任意に聞けるなど時代は変わっている。ライブが根底にある場合、1曲を通してきくことになる。このため各楽章の間合いは大切なポイントであると思う。しかしこの点については残念。
 2020年9月23日 45番 ニコラウス・アーノンクール ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを聴取。No.53から引き続く。同じ音域で強弱を微妙に変えたレガート奏法の箇所は余りない。しかしそれ以外にも1小節内のテンポを微妙に動かしたりする特徴がある。第1楽章はその例の一つ。
 T23から低弦より8分休符を挟む動機が登場。この動機はこの楽章全体で大きなウエイトを占める。1小節目の最初の8分休符はスコアでは通常の休符しか分からない。しかし奏者によってはこの休符の長さが微妙に異なる。
 アーノンクールの場合は、8分休符を少し長めにとっている。長い休符のために1小節単位の動機が、引きずるような感じになっている。
 2020年11月10日  T ファイ(Thomas Fey)指揮シュリアバッハ室内管弦楽団 No.45を聴取。No.64と同様に、強弱と起伏ある解釈は同じ雰囲気。第1楽章、展開部の後半で新しい主題が登場する部分。大半の指揮者はここでテンポを落とす。ファイの場合はテンポの落とし方がさらに激しく悲壮的な第1楽章の中で、テンポを落とした主題が儚いように響く雰囲気。

なお、下記のHMWのこのCDレビューでは、第1楽章の提示部の終始する部分で第1vn.が、短調で終始する記述になっている。
https://www.hmv.co.jp/news/article/308040001/

何度かこの部分を聴取してみたが、通常の演奏と同じような長調の終始のように、私には聞こえる。
 Finaleの後半でAdagio にテンポを落とす開始部分のT150。ここではvn.は4名の記載になっている。第1と2vn.を合わせて8名。スコアではvn.が4パートに分かれている。第1 2vn.は、ここから2声に分かれる。分かれた瞬間のT150で2つのvn.は、2声に分かれているのがよく分かる。小編成の奏者を生かした好演。No.64とNo.45の2曲を比較した場合、私にはNo.64の 弦を中心とした各パートの明瞭さが特徴をさらに出している分、No.64の方に軍配を上げたい。
 
2021年3月5日 45番 ジョヴァンニ・アントニーニ イル・ジャルディーノ・アルモニコ を聴取。前のNo35にも記載をしたが、すでに何度かこの曲も聴取すみ。パソコンの不調の関係もあって、レビューが遅れた。弦の切れを中心に前からコメントをしている。冒頭からの第2vn.のシンコペーションの動機。指揮者によっては、この動機を切れよりも、やや長く和音のようにつなげるように演奏する方法もある。アントニーニの場合は、これとは対照的に、つなげるような音色は皆無。切れを重視して、低減と一緒に刻むような音色が印象的。
 この楽章は、単一主題で展開部の最後のほうで、新たな新しい動機が中間部の主題のように登場する。この部分では確か、T ファイの場合などは、音色や雰囲気を変えるためかテンポを落とす部分もある。アントニーニの場合は、それほどテンポは落とさない。
 Finaleは、特に後半のAdagioからは、指揮者によって様々な演奏スタイルがある。D バレンボイムウイーンフィル・ニューイヤーコンサートの時は、ライブの映像が印象的。映像が主体でライブだったので、あくまでライブの雰囲気が前に出ている。奏者が退席するときは、照明こそ暗くはならないが、実際にパーフォーマンスを色々交えながら退席をしていた。また、S ラトルでは、この曲ではFinaleのみが別収録で、あくまでアンコールあるいは、抽出した楽章として登場。録音はライブ的な雰囲気ではない様子。P カザルスのかなり古い録音は音質こそかなり劣るが、楽器以外の音が豊富に入っていて、いかにもライブの録音が堪能できる。
 以上、ライブの解釈を少しまとめてみた。それに対してライブでなく、あくまで通常の交響曲のFinaleで通している演奏もある。アントニーニの場合は、後者の方で、あくまで通常の交響曲のFinaleの雰囲気。モダンオケを含めた多くの演奏はT140からのAdagioの冒頭の部分。Adagioの冒頭の部分は、Finaleの早いテンポを引き継いで、奏者を減らさない手法もある。一方、ホグウッドなどの奏者が少ない場合、箇所からvn.が2名ずつになり、雰囲気がガラリと変わるケースもある。アントニーニの場合も、奏者が少ない利点を生かして、T140からは、vn.が2名ずつに減り、対向配置も生かして奏者の位置もよくわかる。
 ライブでない雰囲気が特徴なのは合点がいく。ただし、この録音に関しては各楽章の間合いが、もう少し欲しいところだ。hr.は古楽器なので、第2楽章から第3楽章に関して、持ち替えがある。ライブ映像だと、このあたりで多少の間合いが生じる。
 恐らく譜面台で譜面をめくる作業も入り、間合いが多少はある。第2楽章と第3楽章の調性も変わり、雰囲気も大きく変わることもあり、多少は間合いが欲しいと思った。幸いにもリモコン付きのCDプレーヤだと、昔のレコードと違っていったん停止の作業は便利なところだ。昔のLPでリモコンがない場合、スピーカーで聴取していると、間合いの動作が入ってしまう。もしこの演奏がライブ演奏が見れることがあれば、CDとの対比も興味深い。
 45番 鈴木秀美 OLC オーケストラ・リベラ・クラシカ 

2021年11月1日 45番 鈴木秀美 OLC オーケストラ・リベラ・クラシカ を聴取。このCDではモーツァルトに続き3曲目。1曲目のレビューにも記載したが、3曲目で各曲の調性を意識した統一感があることもある。このため、他のCD以上に各曲の調性についても興味が高くなる。第1楽章の冒頭は、指揮者によって、特徴が色々と分かれている。第2vn.のシンコペーションをどこまで目立たせるかも様々な演奏がある。対向配置を生かして最近ではアントニーニの切れのある印象をレビューした。

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1387.html

こちらの演奏では、アントニーニほどの切れは余り目立たない。視覚的要素が最も高い交響曲の一つなので、Finaleの奏者の退場の仕方もいろいろある。退場の方法でライナーノートの指揮者の部分では特に目立った記述はない。また飯森豊水氏の楽曲解説では無言劇の解釈に加えて、楽団の解散までの可能性も記述がある。(ハイドンを一時支持していたノイコムはこのエピソードは矛盾を指摘)ライナーノートでは退場に関して、特に即興的あるいは、意図的に通常の演奏スタイルとは異なる手段をとっていない記述のようだ。
 実際、音のみの演奏を聴いてみても、退場する際の離席する音などが全く聞こえてこない。単に奏者が演奏を終えているだけで離席を含めた退場は行っていないようだ。vn.は8名の奏者だが、奏者が少なくなっていくのがよくわかる録音。

 

2021117 45番 ジョヴァンニ・アントニーニ イル・ジャルディーノ・アルモニコ Youtubeを視聴。下記のアドレスに掲載されていた。アップされた日付が20211173月3日なので最近のようだ。

 

https://www.youtube.com/watch?v=GMaM6ivx8X8

 

 No.47から引き続くが、こちらの会場はハイドンザールと違い、よく見られる会場のようだ。弦の奏者は下記の通り。

 

54222

 

最近、鈴木秀美 OLCCDを聴取したが恐らく、この演奏では退室がないと思う。一方、アントニーニの方はFinaleで実際に退場する。指揮者は終わりに近い部分で右側(下手)へ舞台裏まで退場する。指揮者以外に他の奏者も実際に舞台裏まで少しずつ退場する。退場する際に板張りの舞台を奏者が実際に歩いていく。舞台は円形の階段状になっている。奏者は靴を履いているので、舞台裏まで楽器を持って退場する際に、足音まで入って臨場感が高い。

 短い時間であるが舞台背後から観客の方も映っている。観客の方も、Finaleでどのように退室していくのか、奥の方の観客は身を乗り出してみている様子も興味深い。視覚的様子の高い交響曲の一つと思う雰囲気は、やはり映像で見たいものだと思った。チャンネ登録数や「いいね」の回数も多いので人気の動画のようだ。

 45番 G アントニーニ Youtube 2024年1月9日 追記。

 アントニーニなどの公式サイトをその後、調査。YoutubeのデータなどからNo.15の収録について下記の事項を転載。

Basel,Wednesday, 31.10.2018, 19.30 pm Martinskirche Basel

 上記の会場は、Basel市内にある。有名なバーゼル大聖堂の程近い場所にある教会。一連のYoutubeの映像の中で、やや近接音が多めに入っている雰囲気。Finale Adagioで奏者が少しずつ退場していくシーン。細かい音までよくとらえられている。この音を敢えて入れようとしているためか?  T50 あたりからbass.のsoloが入ってくる部分。vn.の大半の奏者もこの時に一斉に退場する。
 10月31日の夜となると、外の気温もかなり下がってくる。しかし指揮者のアントニーニは上着を脱いでの力演。
 Youtubeの録音会場は スイス。しかしCDの方は、イタリア トビヤッコのMahlerホールになっている。CDの録音は、退場の際の楽器以外の音は入っていない。ある意味ライヴの雰囲気には向いていない。それに対してYoutubeの方は、視覚情報が入ってくるので、新たな雰囲気を味わえる。
 2022年8月6日 アイオナ ブラウン/アカデミー室内管弦楽団  Iona Brown Academy of St. Martin in the Fields 45番 を聴取。調性の違いなのか、この交響曲に関しては、高音域の音色がNo.44と比較して大きく艶があり、録音レベルも通常に近い。奏者の氏名に No.45とこの後に続くNo.49にはKlarinet 2名が記載されている。自筆楽譜には Klarinet の記載はなく、また2曲を通して聴取したが、Klarinet は入っていないようだ。他のCDとの混同していたのか?
 No.44にも共通するが、音量の強弱については、全体の流れを考慮しながらも、旋律によっては、楽譜の指定とは異なる箇所がある。No.44の第1楽章にも記載したが、No.45にも同様の例がある。第1楽章の展開部の終わりに近い部分。T94あたりから指揮者によっては強奏を維持し、T107から登場する独自の旋律が p で 登場する。この対比のためT105まで f で通す例が多い。しかしこの演奏では、 dim.で音量を落としながら弱奏に向かっている。例によって、N マリナーの箇所を聴いてみたが、マリナーの場合も、この箇所は音量を落としていた。

 その後に続く、展開部の最後の部分。T139〜140の箇所で、第1vn.が演奏によっては、soloに近い音色となる。下記の カザルスのライヴ録音がその典型。(譜例あり)

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-887.html
 

このCDでは、音量はもちろん落としているがsoloではない。なお、マリナーの場合は、音量は同じだが、vn.はsoloに近い音色に聞こえる。
 No.45はFinaleにパフォーマンス的な仕掛けがあるため、ライヴの方が好みにあるかもしれない。CDとしての収録なので、退席などの仕掛けはない。N マリナーの場合も同様に、仕掛けの雰囲気は全くない。

2022年12月3日 45番 Derek Solomons, L'Estro Armonico  デレック・ソロモンスレスト レストロ・アルモノコを聴取。
ハイドン 音盤倉庫にもレビューが記載されている。

https://haydnrecarchive.blog.fc2.com/blog-entry-808.html

上記のレビューによると、No.45の前半は、やや固さがみられ、後半は自然な流れの印象。hr.の溶け合いが特徴と記載している。第1楽章のやや固い印象は、私としては余り感じない。Finaleの楽器が減っていく部分は自然な印象は、共通していると思う。視覚効果の高い曲の一つだと思うが、この演奏では通常のスタジオ録音で単に奏者が減っている府に気。
 武石みどり著の解説は興味深い。名曲解説全集の記述の中で、嬰へ短調の主調の中、嬰へ長調に関連する点。第3楽章は 嬰へ長調(fis)の調性となりhr.もfisを使用する。名曲解説全集では、hr.はこの部分で特別に用意をしたと記載があった。ライナーノートには、作曲された前後1772年11月中旬から下旬ころの間、hr.を半音下げるための調管を購入された10月22日付の領収書の記述がある。(G菅のhr.を付けてfis菅に変更する)他のCDのライナーノートにみ記載されているかもしれないが、私は初めて知った。この点は日本語解説を購入しているメリットがある。
 2023年1月1日 45番 Vktor Tretyakov State chamber Orchestra of the USSR を聴取。 vn.は通常配置のモダン楽器で奏者の数は多いようだ。冒頭からテンポは中庸。残響が多く管楽器の音量が小さい。ライブ録音のためか、第2楽章では会場の音が結構、入っている。(第1楽章までは、会場の音が殆ど聞こえなかったのと対照的)第1楽章の弱奏部分でも、それなり会場の音が入ってもよさそうだが。第1楽章と第2楽章の全体的な音量を比較すると第2楽章は、そこそこ大きい音量。第2楽章は奏者の音を拾うために、録音レベルを上げた可能性が大きいようだ。
 輸入盤だが発売元は韓国の様だ。解説の最初も韓国語で記載。ライナーノートの原本も元は韓国の様だ。Finale Adagioの後半で奏者が減るのは分かる。録音のせいか、soloの音源がやや大きく、無理に音源を拾うような録音。会場での奏者の退席などもないようだ。
第2楽章からかなり会場の音(特に セキ の音)がかなり大きい。ライヴとはいえ、ここまでかなりの音だと、違和感がある。録音年月日の記載はあるが、録音会場などのデータの記載がない。指揮者はもともと、vn.の独奏者として有名だが、指揮者としての経歴はよく分からない。輸入盤とは言え、ライブとしての録音ならびにCDの装丁などに不満がある。

-
 2023年1月5日 ブリュッヘンOrchestra of The Age of Enlightenment を聴取。全集でブリュッヘンのレビューは一部済んでいるが、No.45とNo.49に関しては、他の指揮者となっていた。このCDはNo.45.No.48、No.49の3曲を収録。2曲目のNo.48はすでに全集の方でレビュー済み。No.45の1曲目を聴取。
 ブリュッヘンの演奏は、どちらかというと当たりはずれば多い印象。レビューの一つ前にモダン楽器で最後の交響曲となるがヤンソンスを聴取した。ライヴであったが、大ホールで奏者の多い録音とはいえ、テンポの微妙な揺れや強弱のニュアンスの違いなどがうまく表現されていた。
 一方、この演奏に関しては、ほぼ同じようなテンポで終始し古楽器でvn.は対向配置だが、各パートの旋律の強弱、音色の対比が余りない雰囲気。第1楽章 提示部 のT59で2つのvn.の部分。第2vn.が下降しながら調性を変化させている部分で不協和音が聴き所。対向配置とは言え、余り目立たない。
 Finaleの後半 Adagio で楽器が減っていく部分。最後の方は、2名のvn.が転調して、弱音器を使用するが、余り音色の変化が分からない。
 2023年10月28日 45番 R グッドマン ハノーヴァバンド Roy Goodman The Hanover band を聴取。No.45は疾風怒涛期の中でも一番、録音数が多いと思う。私のレビューでも数が多い。数が多い分、比較する数も多くなるので、ある意味特徴がないと印象がどうしても薄くなってしまう傾向にある。冒頭の第1楽章のテンポがかなり速い。展開部の終わりに登場する、経過的な部分もテンポをそれほど落とさない。展開部と再現部の繰り返しがあるが、テンポを落とさないので一気に駆け抜ける感じ。
 それに対して第2楽章のテンポは、かなり遅め。一般にこの緩徐楽章は、これまで聴取して来た中でもかなり遅い部類だと思う。管楽器の各パートの音色がよくわかる。スコアを見るとその分、さらによくわかる箇所でhr.のパートがある。2名のhr.奏者は第2楽章の冒頭からT127までは休んでいる。疾風怒涛期の緩徐楽章でしばしば共通する手法でもあるが、最初にこのT127の部分でhr.が急に入ると、音色に大きな変化を与える。(提示部では管楽器はob.のみ使用のため)しかもこの時の音量もかなり控えめになっている。弦のパートの音量も控えている中、音量の変化がよくわかる。


それに対して、Finaleのhr.のパート。Adagio  T52の部分でsoloの箇所はかなり大きい音量。しかし違和感が全くない。fg.についても同様にT46の部分でもやや大きい音量ではあるがよくわかる。一般にこのAdagioは、視覚的効果からの絡みもあって、パフォーマンスがどのように展開するか気になることも多い。CDだと視覚情報が入らない。このため音源からの情報のみとなる。グッドマンの演奏は古楽器の小編成だが、音量や音色の変化がよくわかる。レンジの広い録音による影響が大きいと感じる。曲の最後の部分でも消えるような、かすかな音量までとらえている。視覚的効果が入らないCDのみの演奏でも、ここまでレンジの広い録音で上手く表現しているのは印象的。近年、ライヴ録音なども含めて視覚的な情報が入ることが多いのとは対照的。

 45番 G アントニーニ Youtube 2024年1月9日 追記。

 アントニーニなどの公式サイトをその後、調査。YoutubeのデータなどからNo.15の収録について下記の事項を転載。

Basel,Wednesday, 31.10.2018, 19.30 pm Martinskirche Basel

 上記の会場は、Basel市内にある。有名なバーゼル大聖堂の程近い場所にある教会。一連のYoutubeの映像の中で、やや近接音が多めに入っている雰囲気。Finale Adagioで奏者が少しずつ退場していくシーン。細かい音までよくとらえられている。この音を敢えて入れようとしているためか?  T50 あたりからbass.のsoloが入ってくる部分。vn.の大半の奏者もこの時に一斉に退場する。
 10月31日の夜となると、外の気温もかなり下がってくる。しかし指揮者のアントニーニは上着を脱いでの力演。
 Youtubeの録音会場は スイス。しかしCDの方は、イタリア トビヤッコのMahlerホールになっている。CDの録音は、退場の際の楽器以外の音は入っていない。ある意味ライヴの雰囲気には向いていない。それに対してYoutubeの方は、視覚情報が入ってくるので、新たな雰囲気を味わえる。