通
No |
Hob.
No. |
通称名 |
作曲年 |
調性 |
楽
章
数 |
fl |
fg |
trp |
cl |
timp |
cmb |
ランク |
聴きどころ、ポイント |
52 |
46 |
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1772 |
G |
4 |
- |
1 |
- |
- |
- |
(1) |
C |
第4楽章のcodaで突如第3楽章が出現。 |
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1 |
G |
Alleglo |
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2 |
D |
Un poco adagio |
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3 |
G |
Menuet & trio |
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4 |
G |
Finale、Presto assai |
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2011年1月3日 ディビス盤を聴取。Vivaceは長調の第1主題と短調の第2主題の対比が良く表現されている。第2楽章では、管楽器も入っている。この時期からは、緩徐楽章は、管器が休むことはないケースが多い。シチリアーノ風のこの楽章では、低弦が時には、ピチートで支えたり、独自の動きをするなど意外な発見がある。
Finaleも後半で、第3楽章の一部が回帰される。ユーモア的な雰囲気は、随所にあるが、流れは重視をしていなく、逆に休止を効果的に利用。ロ長調という特殊に近い調性や、随所に短調に流れるところが多い。ランクはCであるが、意外な発見で、もっと注目をされても良い点ではトップクラスと思う。
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2013年6月21日 追記。ホグウッド盤を聴取.。第1楽章で、短調になる部分が多く、陰影の多いのが特徴。
Menuetの主部がFinaleの後半で登場するのが、この曲の特徴である。今まで聴いてきた3者の演奏は、Finaleの後半の部分の反復がない。スコアでは、この部分は、反復にの指示があり、ホグウッド盤では繰り返しを忠実に守っている。
様々な仕掛けが楽しめると記載をしたが、この繰り返しがあると、意外な発見も二番煎じの様な雰囲気。この点ではホグウッド盤よりフィッシャー盤を薦めたい。
演奏会でも、めったに取り上げられる曲ではないであろう。細かいところまで、じっくり聴くと味のある部分は、この頃のNo.64の類似。こちらは、数年前のためか、No.64と比べると、少し前の様な雰囲気と思った。 |
2013年10月11日 追記。 ヴァイル指揮のターフェルムジークの演奏を聴取。ヴァイル盤は奏者の数が、ホグウッド盤ほどではないが、少ないほうであると思う。その分、細かいパートの音が聞取れる。この曲では、これが顕著で、特に第1楽章の冒頭でhr.を始めとした細かい伴奏の旋律が聴き取れる。ついつい、主旋律を担当するであろう第1vn.に聴きがちであるが、意外な発見。
一方、第2楽章は、Poco Adagioのテンポを忠実に守っているのか、今まで4者の演奏を聴いて来た中で、もっとも遅いテンポ。弦楽器が主体の演奏の中で、第2vn.を含めた細かい弦のパートが聴き取れる。再現部の真ん中辺りで、各パートが引きずるように、あたかもエコーをかけたように、聴こえる部分がある。丁度、hob-No.-38の緩徐楽章を少し回帰させる部分にも類似。こちらは作曲年代が経過をしていることもあり、楽器の扱い方や調性もも楽章間で大きく変わっているので、単純な比較はできないが。No.38と対比させると面白い。ランクはCで良いと思うが、ヴァイルの演奏の演奏は4者の中では一番、面白いと思った。 |
2013年1月12日 追記。ハイドン関係の資料をネットで調べてみたら、下記のサイトに、この交響曲が掲載。元々ハイドン交響曲の中で、約30曲のぐらいの推薦している曲のひとつ。さすが初期〜中期の選曲は少ないが。ハイドンの唯一 H調は珍しい。また他の作曲家も、この調はめったに取り上げられない。(何せ#シャープが5つもある)
ブログの著者は、この理由の一つとして、「第45番でのメヌエットの嬰ヘ長調(#が6つ)の響きが気に入った。弦楽器は#が増えるほど典雅な響きになるのですが、第45番で実際に曲を書き演奏することによってそれが確認出来たので、#の多い調を主調とした曲を書きたくなったのではないか。」と記載されている。しかしこれ以降ハイドンは、この交響曲の分野では、もはやこの調は採用せず。大衆向けに分かりやすい調性を採用。しかしながら展開部を中心に、曲の中で様々な転調があるのは、周知の通り。
ハイドンの交響曲を聴こう
http://www2.biglobe.ne.jp/~endoy/haydn046.html
2019年7月18日 追記 リンクが切れ入るようだ |
2016年6月7日 ブリュッヘンOrchestra of The Age of Enlightenment No.47を聴取。ひとつ前のNo.46と同様に、試行的に色々と取り組んでいる個所が多いと思う曲のひとつ。第1楽章は弦を主体とした変奏曲であるが、ピチカート奏法などの音色の変化は取り入れず。50番代より少し前のスタイル。低弦でも通常は伴奏に徹することが多いva.が重要。ユニゾンが大半だが、vc.と同じ音程あるいは異なる音程である。ブリュッヘンは各弦の音の分離がそれほど目立たず。 |
2017年1月15日 T. ピノック No.46を聴取。通好みと思う曲の一つだが、一つ前にも書いたようにヴァイル盤と解釈が、かなり似ている。このため、ピノック盤を聞いた後、再度ヴァイル盤を聴取し比較してみる。両者の違いは、やはり、かなり共通していて、楽器編成では奏者の数とcmb.の有無。しかし第2楽章では、ヴァイル盤は、ピノック盤と比較してかなりテンポを落とす。テンポを落としている分、ロ短調の調整とも相まって悲壮感が高い。
一方、Finaleは、ヴァイル盤では展開部と再現部の後半の繰り返しを採用。再現部で、Menuetの一部の旋律が戻ってくる思わぬ仕掛けがある。私としては、この仕掛けは一度でよいと思うので、繰り返しは好まない。それに対してピノック盤では、くりかえしを採用していないのでその分ピノック盤を推薦したい。 |
2017年3月23日スピルナー No.46を聴取。ハイドンで唯一のH調であるが、通好みが特徴としているのは、過去にも何度も記載をして来た。第3楽章のMenuetの一部はFinaleで回帰してくるので、Menuetそのものが、通常の曲と比べて、やや短め。Trioもコラール風な旋律で、不思議な雰囲気。一番面白いのはFinaleだが、スピルナー盤は、後半の繰り返しを採用。当初は、この繰り返しが内容が、私の好みにあうと記載をして来た。
一方、この演奏を聴いてみて、他の曲ほど繰り返しの部分の装飾は余りないものの、それほど違和感がない。フェルマータは休止符の個所が多く、演奏者の解釈により、のFinaleはかなり雰囲気が異なる。ライブの演奏だとFinaleの後半の繰り返しは行わないほうが望ましいかもしれない。しかし現代はCDで、繰り返し聴き直すことができる。改めて繰り返しの良さも、この演奏を通して見直した次第。 |
2018年5月29日 ラトル ロンドンフィル 46番 第4楽章を聴取。No.6から引き続いて聴取。このCDの収録時間は、全部で51:27.この時点で、ほぼ中間点になる。Menuetに引き続いての順番なので、一般的にはFinaleの様な雰囲気の曲が合っている。ハイドンの交響曲のFinaleで、なぜこの曲を選択したのか? CDの最後は、No.90のFinaleになっている。収録の順番としては、中間的に一応区切りをつけることもあり、No.90とは異なるタイプのFinaleをもってきたのではないか。
作曲時期は1772年で、疾風怒涛の頃の曲のひとつ。楽長時代の最初の頃で、演奏対象は宮廷内のみ。大衆向けのスタイル向けでは無論なく小編成の奏者のみ。音楽が分かる一定数を対象とした聴衆のみの曲のひとつ。H調という、余り使われない調性を使用。第3楽章までは、通常の作曲スタイルい近いかも。しかしこのFinaleは、codaで突然、、ひとつ前の楽章のManuetの一部の旋律が登場し、流れの雰囲気ががらりと変わるユニークな部分がある。この意外な効果は、一般には余り知られていないが大きな特徴。これを目当てに、数あるFinaleの中から選択したのかもしれない。
スピルナー ハイデルベルク盤は、Finaleの後半の繰り返しの採用。楽譜を忠実に守るなら、ラトルも、繰り返しを検討したかもしれない。しかしライブ盤ということや、No.90のFinaleが演奏会の最後に持ってくることを考慮すると、繰り返しを採用しなかったのは妥当だと思う。 |
2018年6月10日 ヘルムート ミュラー=ブリュール ケルン室内管弦楽団No.46を聴取。少し前の ラトルの第4楽章で繰り返し含む、Codaの特徴について記載をした。No.43にも少し共通するがFinaleで、こちらも第3楽章Manuetの一部回帰を含むcodaがある。No.43のミュラーの演奏では、展開部と再現部の繰り返しを行い、その後Codaを持ってくるのは、大半の指揮者が行うのと同様。全集を録音しているデイビス盤は、大半は繰り返しを採用。スコアによると展開部+再現部+T213(スコアの最後まで)は繰り返しの指定がある。しかしデイビス盤でさえも、この繰り返しの指定を守らない。もし忠実に繰り返しを守っていたら、Manuetの回帰を含む以外な仕掛けを2度味わうことになり、面白みに欠けるからだ。これに代わって再現部のT163までを繰り返している。一方最近聴取したラトル盤(ライブ)では、後半の繰り返しは採用せず。一方ミュラーの演奏は、デイビス盤と同じ。この当たりを整理してみると下記の通りとなる。
スコアの指示:提示部(繰り返し)→展開部+再現部(T213までcoda?を含む)繰り返し
ラトル盤(ライブ):提示部(繰り返し)→展開部+再現部(T163まで)→coda
ミュラー番 提示部(繰り返し) →展開部+再現部(T163まで)繰り返し→coda
デイビス、ミュラーいずれも、作曲者の指定とは異なり曲の終結であるT213の時点でなく、T163で繰り返しをしている。この手法だと、T164〜T213はcodaの位置づけとなる。この手法は、No.43とも共通している。No.43から引き続き聞いてみると、この共通点が良く分かる。 |
2018年5月29日 ラトル ロンドンフィル 46番 第4楽章を聴取。No.6から引き続いて聴取。このCDの収録時間は、全部で51:27.この時点で、ほぼ中間点になる。Menuetに引き続いての順番なので、一般的にはFinaleの様な雰囲気の曲が合っている。ハイドンの交響曲のFinaleで、なぜこの曲を選択したのか? CDの最後は、No.90のFinaleになっている。収録の順番としては、中間的に一応区切りをつけることもあり、No.90とは異なるタイプのFinaleをもってきたのではないか。
作曲時期は1772年で、疾風怒涛の頃の曲のひとつ。楽長時代の最初の頃で、演奏対象は宮廷内のみ。大衆向けのスタイル向けでは無論なく小編成の奏者のみ。音楽が分かる一定数を対象とした聴衆のみの曲のひとつ。H調という、余り使われない調性を使用。第3楽章までは、通常の作曲スタイルい近いかも。しかしこのFinaleは、codaで突然、、ひとつ前の楽章のManuetの一部の旋律が登場し、流れの雰囲気ががらりと変わるユニークな部分がある。この意外な効果は、一般には余り知られていないが大きな特徴。これを目当てに、数あるFinaleの中から選択したのかもしれない。
スピルナー ハイデルベルク盤は、Finaleの後半の繰り返しの採用。楽譜を忠実に守るなら、ラトルも、繰り返しを検討したかもしれない。しかしライブ盤ということや、No.90のFinaleが演奏会の最後に持ってくることを考慮すると、繰り返しを採用しなかったのは妥当だと思う。
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2018年11月23日 46番 D バレンボイム イギリス室内管弦楽団を聴取。以前、No.44,45,48で1枚ものを入手済み。2枚セットで残りのNo.46,47,49
が入っている。3曲は重複するため、残りの3曲を記録に書く。以前の3曲では録音がどちらかといえば少し平面的と記載した。左右の広がり感はあるが、管楽器の奥行き感が少し不足気味。No.46に関しても同様。
モダン楽器で第2vn.は左側に位置。各パートを均等に表現するよりは、注目される旋律は、時には目立たせるのが特徴のひとつ。疾風怒濤期の緩叙楽章は聴き所が多いが、バレンボイムの演奏は、どちらかといえば管楽器が必要に応じて前に出ている箇所がある。
展開部の途中でT29当たりから第1vn.が謡うように高音域で演奏する。ここでは第2vn.以下のパートは目立たせない。T31で2本のob.が入ってくると第1vn.はob.に受け渡して控えに回る。16分音符の動機は最初からいたる所にあるが、低弦でも柔らかく演奏。
Finaleの後半では、展開部と再現部の繰り返しは採用せず。大半の指揮者は、Menuetの一部旋律が回帰してくることもあり、繰り返しはなし。私の知る限りホグウッドのみ繰り返しを採用。これに先立ち、第3楽章Menuetのテンポをどの様に演奏するかも興味がある。バレンボイムは通常に近い。これに引き続き、Finaleで回帰してくる部分は、第3楽章よりもさらにテンポを落としている。
単に聞き流すだけだと、この回帰の部分は、第3楽章の類似箇所と同じ様に感じるかもしれない。テンポは一応同じ様に指定されていると思うが、確かに楽器のパートを含めて同じになっている。しかし速いFinaleに挟まれるように対比させるため、あえてテンポを少し落としたのかもしれない。T187からは、さらにテンポを落としているのが印象的。ハイドン唯一のH調で転調の箇所も多い。少し複雑な動きで実験的な要素も感がられる曲のひとつ。
通好みかもしれないが、様々な演奏を聴く楽しみがある。以前ラトルのライブ録音でレビューをしたことがある。このときはライブ録音で第4楽章のみの演奏だった。一方、こちらの方は、第1楽章からの通しての演奏なので、Finaleのcoda で、第3楽章とのテンポの違いなどが楽しめるのがメリット。No.46でどの楽章をとりあげるかとなれば、やはりFinaleになってしまう。ハイドンの曲で、一番面白い楽章を取り上げるとすればFinaleは個人的には少ないと思うが、この曲は当てはまると思う。 |
2019年4月1日 エルンスト・メルツェンドルファー ウィーン室内管弦楽団 46番を聴取。少し前のNo.28では弦楽器と管楽器のバランスが悪く、ob.に押されている点を記載した。第1楽章で類似箇所がこの曲にもある。元々、♯が5ツあるめったにない調性。短調に時折なる部分も多く、陰影と強弱に富んだ曲のひとつ。疾風怒濤期にはとても多い特徴で、ある意味ハイドンの全曲の中でも、このあたりが微妙なニュアンスを味わうのが一番ピークでもあるところ。
第1楽章、提示部T36の部分。短調で第1vn.の16分音符を含む上行動機、第2vn.のシンコペーション。ob.の持続音。過去の特徴が全て、ある意味網羅されている部分。メルツェンドルファーではob.が前面に出てしまう可能性がある。しかしこの部分では、ob.も適度なニュアンスで各パートもきれいに分離して聴こえる。
他の楽章も弦楽器と管楽器曲のバランスも良好。Finaleで第3楽章の一部が回帰してくる部分も自然な雰囲気。このFinaleは休止の部分が多く、しかも休止の箇所が微妙に違う。スコアでは最後の部分に繰り返しの記号があるが、2小節余りも休止があって終わりになる。もしスコアどおりに最後の部分まで繰り返しがあったら、しばらく休止があって再度、T72の展開部の冒頭に戻る。(ホグウッドはクリ返しを採用)もしライブ録音だったら、終わりそうで終わらない雰囲気はNo.90にも共通。S ラトルが No.64と同様に交響曲選集として、このFinaleを選曲したのも No.90と共に合点は行く。Codaのhr.の低い和音もしっかりと聴こえてメルツェンドルファーでも良い演奏のひとつとしたい。 |
2019年7月17日 アントニーニ盤 46番 を聴取。第2集のCDの作曲順では2番目。この後に、No.47がhob番号と並んで続くことになる。単に全集の録音をhob番号通りに聴取していくと、No.45.46.47があたりが続くことになる。疾風怒濤期の典型で、この時期の曲は短調や、やや特殊な調、頻繁な転調、複雑な展開など後半の交響曲とは大きな対比をなす。この時期のCDを連続して聴取すると、気分的に疲れると感じるときもある。もっとも初演当時は、エステルハージ候の限られた参加者が、毎日、あるいは数日ごとに、差し替えながらの環境だったと推定できる。そうなると録音の時代と違って、この当たりの曲が集中して作曲されても、それほど違和感がなくかもしれない。
アントニーニは2032年を目指して、ライナーノートには年代順の録音や発売などにこだわりはないと記載している。むしろ、単一あるいは複数の曲に共通するテーマを取り上げ、ピップアップをしているようだ。有名なNo.45とNo.46は同じ時期と推定され、自筆楽譜が存在しているとのこと。作曲年代が近いなか、この2曲は、特殊な調性で形式が複雑な点などが共通していると思う。共通した2曲を1枚に収録する手段もある。しかし、現代では、この2曲を通して聞くと、少し、気分的に負担になると自分には思う。このため、No.45を収録していない点は、ある意味理解できる。
演奏の方は冒頭から、古楽器をいかした切れの良いアクサ縁とろリズム感は同様、pの箇所も、マリナーの様に、pの弱い音量の中で、各パートも良くわかる。「通好み」の作品と記載したが、パートに関しても、2本のhr.は、2つに分かれている箇所なども第2hr.(低音の方)も鮮明に聴こえる。(第2楽章 再現部T60の部分の譜面あり)
Finaleは、No.45と同様に、管楽器でfl. は入っていない。音色は、どちらかといえば、調性も相まって暗い雰囲気。Finaleは、スコア通り、展開部と再現部の後半を忠実に繰り返しを採用。 ラトル ロンドンフィル のライブ盤の様に、わざわざ このFinaleだけを取り上げるには、仕掛けを楽しませてくれる理由がある。
http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-910.html
ラトルのライブは、最後に回帰してくる第3楽章の一部は、Menuetでも、やや遅めのテンポだった。Finaleの最初は、速めのテンポと対照的になっている。一方、アントニーニの方は、第3楽章 Menuet のテンポは少し速め。Finale のテンポもは速め。このため、テンポの差は余りない。しかしMenuetの3拍子とFinaleの4拍子とは、明確に対比がある。強弱のコントラストも良好。休止の箇所が多い効果を含めて、このFinaleは元々、興味深い。ハイドン唯一の H-dur のやや暗い調の音色を旨く生かした好演。 |
2020年7月1日 46番 ジョヴァンニ・アントニーニ イル・ジャルディーノ・アルモニコ yotube を聴取。No.22から引き続いて視聴。
https://www.youtube.com/watch?v=3rG3UvAEjE8
上記のアドレスは、最初にNo.22が入っている。No.22以上に、強弱、陰影が多い曲。第1楽章から強弱と陰影が大きいのは、指揮者の身振り手振りだけでも十分に読み取れる。 S ラトルでは第4楽章だけ、ハイドン の企画シリーズとしても取り上げらえているユニークな楽章。
Finaleの最後の方で、Menuet の一部が回帰してくる。2小節の休符の後に、T191で2本のhr.が単独で最初に和音を開始する。この2小節の間の取り具合が面白い。僅かだが、hr.の出だしのタイミングがずれた様な雰囲気。この時、他のパートの奏者がhr.の方を見て、音の出だしを注目している部分がよくとらえている。T204で一応、この楽章は終わるが1小節以上の休符箇所で、繰り返しを指揮者が採用するかどうか。繰り返しに入る直前で、客席から僅かではあるが、拍手が少し入っているようだ。逆にこの僅かな音が、この曲の面白さにも、つながっているのでライブの良さでもある。
この映像では、アンコールも収録されている。どの様な曲か興味があったが、No.46のFinaleをもう一度演奏する。アンコールのためか、繰り返しは採用しないが理にかなっている。映像から比較的小規模で、どこかでみたことがあるホールだと思っていた。最後のクレジットで、アイゼンシュタットにハイドンザールで2015年5月9日のライブ録音を表示があった。このホールは、多くの指揮者がライブで録音している。やはり見覚えのあるホールだった。
また最後のクレジットで、W F BACH の交響曲もリストにあった。このアドレスには入っていないが、当日、この曲も間で演奏されたと思う。CDの第2集と同じ収録曲になっている。 |
2020年12月13日46番 鈴木秀美 OLCを聴取。No.23から引き続く。この間にCDではvc.協奏曲が入る。ライナーノートには指揮者が記載していないので、協奏曲では指揮者はsoloと兼ねていると思う。No.46は通好みというか、調性もハイドン交響曲の唯一のH−derで転調が大きいのも特徴的。ライナイーノートにも指揮者が「ハ長調とロ長調とは単なる半音ではなく天と地ほど違いがある。このような特殊効果のように曲全体をある色彩感で包む」と記述がある。この表現に凝縮されていると思う。曲の最後に拍手が入っている。スコアではFinaleの展開部と再現部には繰り返し記号が入っている。この曲は自筆楽譜があるので、作者は恐らく、曲の最後の部分は繰り返しの記号を記載しているだろう。しかし繰り返しに関連して終始に関連したフェルマータの記載がない。
指揮者によっては、ホッグウッドは繰り返しを忠実に守っている。繰り返しを守らなくても、1小節余りの休止を挟んで曲が終わることになる。聴衆は曲のタイミングを図るのがNo.23と同様に難しい。ライブ録音の演奏では曲の最後に、少し早めに拍手が一部入っている。指揮者はこの時、早めに指揮棒を下したのかもしれないが。スコアを忠実に守るならしばらく一定の休止動作がある方が自然な解釈だと私は思うが。
また少し前にさかのぼるが第1と2楽章の間合いについて。ライブ録音で楽章間の間合いをどの様に収録するかは、ある意味、好みが分かれるところではある。私はできるだけライブの間合いでCDも聞きたい。その方がライブならでは白熱した雰囲気が伝わってくるからだ。このCDでは、第1と2楽章の間の間合いが殆どなく通常の時間になっている。実際のライブ演奏では、この間に譜面台での譜面のめくりはもちろん、弦楽器でvn.の弱音器の取り付け、古楽器によりhr.の持ち替えなどの操作が入る。このため多少だが間合いが生じていると思う。この間合いが殆どないのが残念だ。2曲のCDを通して聞いてみてライブとはいっても、収録に関し間合いが大きく調整されている点は私には不満だった。
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2022年12月10日 46番 Derek Solomons, L'Estro Armonico デレック・ソロモンスレスト レストロ・アルモノコを聴取。No.45から引き続く。演奏としての大きな特徴は、聴き通してきた中では余りない。
国内盤の裏面に、この第1楽章の0:30と2:30 あたりに「ひずみ」があると記述がある。調査の結果、オリジナルマスターテープの製作過程で生じたとなっている。この2か所は、提示部でT18のところ。最初の提示部と繰り返しの提示部で同じ箇所となっている。収録の際に何度か、テイクを取ってその後、編集をすると思う。2か所が全て同じ部分でこのひずみが発生しているということは、提示部を収録する際に、繰り返しをしなかったのか?
あるいは、繰り返しを通して演奏したが、同じようなひずみが発生したのか? ひずみの箇所は、hr.が高い音域を受け持つ部分で特に、hr.には、どうしてもひずみがともなう可能性がある。オリジナルの音源で発生することは理解できる。hr.の音源が原因で、ライヴであろうが、テイクであろうが、ひずみが生じるのは致し方がない場合は、当方は許容できる。なお他の箇所や、他の楽章ではこれほどのひずみが聞こえない。
以前 マギーガン No.79 のレビューで、端のほうから、ひずみ ではないが、楽器とは少し違う音が、同じ箇所で繰り返して入っていることがあった。
http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1044.html
このレビューでは Menuetto の提示部の部分だった。一方、このNo.46では、hr.のみでひずみがあると私は思う。全ての奏者は古楽器で、hr.も同様。No.45も特殊な調性から半音下げる調管を調達した経緯がある。ライナーノートにも記述があるか、G 菅をもとに、この調管を使用すると H‐dur になる。奏者にとって、この調性はめったに演奏する機会もなく、しかも音量の大きい高い音域だとこの箇所は苦労した可能背があり、ひずみ に近いhr.の音色になった可能性があるからだ。
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2023年10月29日 46番 R グッドマン ハノーヴァバンド Roy Goodman The Hanover band を聴取。No.45から引き続く。No.45にも管楽器のパートの目立つ動きをレビューした。このNo.46も同様。ロ長調という当時はめったに書かれていない調性。第1楽章の提示部でロ短調になる部分がある。T36からの部分で、第2vn.はシンコペーションの旋律が登場する。2名のhr.の位置もよくわかる。
Finaleの最後の方で第3楽章 Menuetto の一部の旋律が回帰してくる部分。ラトルの演奏では、この箇所でテンポを少し落としていた。しかしグッドマンの場合は、テンポは同じ。No.45、46、47はほぼ同じ時期に作曲されている。No.46はロ長調というめったにない調性。Finaleではひとつ前の楽章の一部が回帰してくるなど仕掛けというよりも、もっと意表をつくような交響曲だと、かねてから思っていた。下記のブログに、私と同じような記述があった。
https://www.classic-suganne.com/entry/2022/06/19/192122
上記のブログな中のひとつに、va.を含む内声のパートを重視し、できれば2名が欲しいこと。低弦に関しては、vc.とbass.の奏者を多くするよりも、fg.を加えることなどの記述がある。これらの点は、過去の本からも知っていた。しかしその出展は1768年に書かれたアプラウススの書簡であることをこのブログで初めて知った。
総譜の中でフォルテやピアノがパート譜に記入されていない場合には、写譜家が演奏を用意するときに、これを修正しなければならないとある。自筆楽譜やスコアが現存しない場合でも、パート譜が存在し、ハイドン自身の書き込みがある場合もあった。No.46は自筆楽譜が存在するが、パート譜があれば見てみたい。初演当時、専属の写譜はいたと思う。また仮に写譜屋がいない場合、ハイドン自身、総譜からパート譜への写す作業の時間も恐らくないと思う。
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