音楽聴取記録(交響曲の聴取 各曲の聴取記録 通しNo.44 hob-No41
2024年10月21日 更新

No 
Hob.
No.
 
通称名   作曲年 調性   楽

 fl  fg trp  cl  timp   cmb ランク    聴きどころ、ポイント
44 41 1767 C 4 -  -  - - (1) B モーツァルトのNo. 34番に類似。
       1 C Alleglo con spirito
       2 F Un poco Andante
       3 C Menuet & trio
4 C Finale、Presto
モーツァルトのNo. 34 C調の交響曲は、これを模範としたのではないかと直ぐに思った。Menuetはこちらはあるが。第1と第4楽章は、旋律、構成などが似通っている点が多い。Allegloの展開部では、提示部の様々な旋律が扱われ、強弱の対比や休止に目を見張る。Alleglo全体にクレッシェンド効果があって充実感がある。
 Andanteは弱音器のvn.にfl.が花開く。fl.協奏曲の雰囲気。fl.は第1楽章では登場しなかったので華々しい。フィッシャー盤では、fl.のsoloが細かく聴き取れ息遣いまで聴こえる。(長いパッセージで息継ぎが大変であった演奏だと思う。)
 Menuetでは、弦の3連符府の動きにもアクセントがある。第4楽章のPrestoは主題が無窮動的な旋律は、モーツァルトの最初に紹介した交響曲に似ている。旋律は似ているが雰囲気は、もはやハイドンの特徴である根底のユーモアがある。聴き終えた後の爽快感は、 モーツァルトとは違った雰囲気。trp.は補強的に近い動き。timp.は独自の動きがある。祝典的なC調であるがその要素は押さえ気味で、しっとりと聴かせてくれる箇所が多い。どの楽章も均整が取れている。当時は人気があった作品ではないかと思った。
 ドラティ盤は各パートで、ob.のsoloの即興がなし。Andanteのfl.のsoloの動きが控え目。
(2019年12月31日追記 タグとして2011年1月3日とする)

(追記) 2009年10月3日 NHK FM放送 「名曲の楽しみ ハイドン その生涯と音楽 吉田秀和」を聴取。その中でトレバー・ ピノック指揮 イングリッシュ・コンサートの演奏を聴取。No.39に引き続いて行う。楽器編成、数、配置などはNo.39と同じ。trp.とtimpが入り祝典的な雰囲気はある。フィッシャー盤ではcemb.は入っていなかったが、ここでは採用。第1楽章のob.の即興部分がないのを始めfl.などの各楽器のsoloは、余り目立たない。第2楽章でfl.のsoloが入るが音量がやや小さく、その音色からモダン楽器でないことが判明。各楽器の細かい扱い方ダイナミックさを伴う、C調の明るい雰囲気を基調とした雰囲気を重視したい点から、やはりフィッシャー盤を取りたい。
2011年1月6日 ディビス盤を聴取。今までと同様にcmb.が入るが違和感はない。第2楽章以外は、ob.が2本活躍するが、ユニゾンを含めob.が心地よい。ただしフィッシャー盤と違ってob.の即興はない。第1楽章のAllegloもテンポが遅め。
 圧巻はAndante の展開部。フィッシャー盤ではcmb.がないので、弦を中心とした経過的な旋律に終始をする。それに対してディビス盤ではcmb.が、かなりの高音域まで独自の動きを担う。ここまで、はっきり聴こえることは初めてのケースであった。fl.とob.同士が合わさって演奏するスタイルからして、もはや持ち替えの時代が去ったことが明白な曲でもある。
 祝典的な調性のCで同じ時期のHob−No.-48(通しNo.55)の Maria Theresia も同じ調性で、祝典的な聴き所である。こちらの方は祝典的な点は、やや劣るかもしれないが、当時の人にとって誰もが楽しめる、古典派の典型的な交響曲として一押し。Finaleは後半の繰り返しがある。codaがないので、あっさりと終わり勝ちであるが、旨く強弱を付けて締めくくっている。
2011年1月6日 ディビス盤を聴取。今までと同様にcmb.が入るが違和感はない。第2楽章以外は、ob.が2本活躍するが、ユニゾンを含めob.が心地よい。ただしフィッシャー盤と違ってob.の即興はない。第1楽章のAllegloもテンポが遅め。
 圧巻はAndante の展開部。フィッシャー盤ではcmb.がないので、弦を中心とした経過的な旋律に終始をする。それに対してディビス盤ではcmb.が、かなりの高音域まで独自の動きを担う。ここまで、はっきり聴こえることは初めてのケースであった。fl.とob.同士が合わさって演奏するスタイルからして、もはや持ち替えの時代が去ったことが明白な曲でもある。
 祝典的な調性のCで同じ時期のHob−No.-48(通しNo.55)の Maria Theresia も同じ調性で、祝典的な聴き所である。こちらの方は祝典的な点は、やや劣るかもしれないが、当時の人にとって誰もが楽しめる、古典派の典型的な交響曲として一押し。Finaleは後半の繰り返しがある。codaがないので、あっさりと終わり勝ちであるが、旨く強弱を付けて締めくくっている。
2011年6月3日スコアを見ながら3者の演奏を聴取。フィッシャー盤の第1楽章の展開部の途中で、強弱の扱い方が興味深い。 ob.2本の活躍に目を見張ることは前記をした。それに加えて、105小節のところで一旦「f」の指定が続くように記載がある。その後、120小節にも再度の「f」 の指定がある。フィッシャー盤では、この15小節の間は、次第に「f」 から次第に音量を落としている。この強弱の差は効果的である。
 第3楽章のMenuetで、後半では初めて3連符のリズムが登場。(それまでは、登場なし)Menuetの主題の展開的要素で終始。しかしその3連符は、Finaleでは、終始このリズムで支配をする。最初の記録では、Finaleに関しては、記載をしなかった。しかし注意深く聞いてみると、Prestoの速いテンポの中で、強弱の細かい指定が至る箇所にある。フィッシャー盤では、展開部と再現部の繰り返しを含めても、演奏時間は3分余り、しかし3連符のリズムを基調としながら、明るく流れる様に終始。
 ドラティ盤ではAndanteのfl.のsoloの動きが控え目と記載をした。逆にob.もかなりの高い音域でパートを受け持っている点が対照的。
 ディビス盤のテンポは、ドラティとフィッシャーの中間が多い。しかし第1楽章に関しては一番遅くなる。しかしその分、細かい音まで聴き取れる。管楽器と弦とのユニゾンは、従来からある手法。提示部の第2主題は、第1、2vn.が1オクターブを違えて提示。しかし再現部は、第1vn.とob.が同じ音域でユニゾンで再現。ob.はsoloの指定があるので、3者とも弦の音を控えている。細かく聴いてみると、楽器の音色の扱い方が微妙に異なっている。この当たりの違いもデイビス盤が一番分かりやすい。
 第2楽章の中間部では、cmb.の独自の動きがあると記載をした。手持ちのスコアでは.cmb.のパートの記載がない。しかし記載されているパートは、比較的同じ旋律が続いているので対照的。3者の演奏で、cmb.の独自の動きがあること。テンポが比較的ゆっくりで全体の構成が分かりやすいこと。入門で聴くにはデイビス盤を推薦。
 その後、3者を十分に聴き比べるとなると、Finaleの流れる様な心地の良さには、フィッシャー盤に軍配が上がると思う。初期から後期までの全曲を聴き通してみると、この曲と通しNo.の次に当たるNo.42とは作風が似通っている。ランクは同じBでありスタイルは異なる箇所も多いが、両者ともに価値が高い曲と再度、認識をした次第。
2013年5月6日 追記。ホグウッド盤を聴取。trp .とtimpは入らず。C調の古典的交響曲の典型で見本とした曲。展開部の擬似再現部でob.の即興はなし。展開部の擬似再現は、今後はハイドンの典型となるが、ここではその威力を発揮している。また一部の箇所ではあるが、vc.とbass.の分離があり。 
 第2楽章は、fl.の.独壇場であるが、ob.も必要の応じて呼応。小編成で古楽器のfl.の音が柔らかいため、管楽器のパートが細かく聴き取れる。例によって、繰り返しでは管楽器のob.で一部、装飾音がある。この部分を中心に、あたかも管楽器を中心としたアンサンブルが堪能できる。
 第3楽章のtrioでは第2vn.の持続音が印象的。開放弦の最低音域のため、立つためか?
  聴き通してみて、現代楽器の演奏スタイルとは異なり、Bランクとして引けはとらず。4者の演奏の違いが堪能できる。
2013年9月23日 追記。 ヴァイル指揮のターフェルムジークの演奏。trp.は右側に位置。ヴァイルの指揮は3曲目。第2楽章で、同じ古楽器使用で柔らかい音色。弱音器をつけたvn.が主体である中、音量が小さいため、fl.の旋律が引き立たず。展開部の最後の部分で、fl.の即興が入る。
 Finaleは、思ったより普通のテンポ。ランクはBであるが、左側の第2vn.がよく聴こえるためか、全体的にvn.の音が良く鳴る雰囲気が特徴。5人の指揮者を聞いた中ではフィッシャー盤を取りたい。
 2015年4月4日 ゴバーマン盤を聴取。No.35から引き続いて聴取すると、弦の細かい動きはよく聞き取れるが意外な発見は、こちらはやや少なめ。井上著では古典派の典型的な交響曲と記載がある。この意見は賛成だ。後期のザロモンセットのNo.97は同じ調のC-Dur。この第1楽章は、この交響曲の祖先であるような雰囲気。序奏がなく楽器編成はfl.は欠けて管楽器の独自のsoloの部分は余りないが。しかし旋律の扱い方は転調など共通点が多いと認識。
 一番面白いのはFinaleで冒頭の第1主題は、得てして第1vn.の無窮動的な3連符の旋律に聴き取られがち。しかし第2vn.の下降する旋律も見逃せない。この旋律は、それほど目立たない。しかし再部のT93で第1vn.で初めてpで登場する。その後、この旋律は登場しなし。しかしながら僅かな部分とは言え、第2vn.の右側にある特徴のため、ゴバーマン版では改めて意外な発見があることを認識。
 2016年6月26日 ブリュッヘンOrchestra of The Age of Enlightenment  No41を聴取。古典派交響曲の楷書で書いたような特徴。第1楽章から、テンポをかなり遅めになっている。ブリュッヘンを聴き通してきて初めてtrp.とtimp,がはいるがそれほど目立たない。
それに対してFinaleはPresto指定でも、かなり速いテンポ。古楽器のhr.、trp.は、この3連符の速いパッセージ付いていくのが大変と想像。
 
2016年12月31日T ピノック No.41を聴取。Finaleの無窮動的な旋律に対して、第2vn.の下降する対旋律も聴き所の一つ。対旋律は展開部でも取り上げているので大切なもの。再現部のT93では、第1vn.から登場。このT93の部分では、第2vn.が逆に、4分音符が登場するがピノック盤では明確(上手参照)ただし、ゴバーマン盤と同様に第2vn.の旋律が明白に聞こえるがTuittiでの迫力はNo.35と同様に今ひとつ。
 Menuetが帰ってくる部分で、前半は繰り返しを採用するかどうかは、指揮者の判断になっているようだ。ここまで聴き通して来た中で、この曲は繰り返しを採用していない。一方Menuetの小節数が少ない曲は、繰り返しを採用している。
 


2017年4月1日T.ファイ No.41を聴取。自分のコメントでは、この時期としては生前から人気にあった曲のひとつと記載した。数年後に作曲された一つ後のNo.42と比較してみると面白い。井上著も「古典派の典型的な曲」と記述されているように、当時の聴衆にも分かりやすいと思う。分かりやすいとは言え、この曲もいたるところに仕掛けと面白さが散りばめられている。
繰り返しの後半で、装飾を含めた旋律の変化を求めているのは、従来から記載をしている。各パートの中から、今回は打楽器群を中心に取り上げたい。Timpに関しては、即興風の点も含めてスコアに記載されている以上の個所が多い。何回もこのブログで掲載しているが、この曲についても典型的に当てはまる。
 元々、ファイの解釈の一つにインパクトのあるリズム感がある。冒頭から従来の指揮者だとTuittiの4小節に渡る第1主題が、まとまりのある一つの区切りとして捉えている。一方、ファイの場合まとまり感は同じが。出だしの4分音符がスコアの f で記載されているように最初の4分音符がかなり強調されている。Vn.とhr.が4分音符以降の旋律を受け持っているので、この冒頭の4分音符のリズム感を如何に、大事に表現するかがポイントになる。Trp.が特にこの4分音符を強調しているので、第1主題がとてもキリリと引き締まった印象を与える。
 祝典的交響曲の典型なのでtrp.のリズム感がこの曲ではポイントのひとつになる。冒頭の4分音符の旋律(旋律というよりも一撃的な拍子の表現かもしれないが)が次第に、旋律として主題に近いように長くなる。小結尾部のT72では、trp.のみが独自の旋律を演奏。この旋律は重要で、展開部、再現部でも何度も調を変えながら登場する。展示部のtrp.は通常通りのようだが、繰り返しの部分が独特。T27、31では通常ならこの部分は、スラーを伴う一般的な旋律。しかしファイの場合は、T72の旋律が登場する。早い段階からこの旋律が再度登場するのでインパクトが強い。T72の旋律は再現部でも繰り返しの後半は、新たにスコアにない指定個所で登場。Timp.の独自の旋律も相まって、リズム感のある引き締まった印象を与える。
 展開部の最初の短調による導入も独特。大半の指揮者は提示部のAllegloの指定を守る。一方、ファイの場合はこの部分で極度にテンポを落とす。T87からのbassから離れた高音域のvc.を加えた独特な雰囲気。T105からの速いテンポの緊張感のある部分と対照的。Finaleの速いテンポを貴重に、リズム感のある流れで締めくくる。No.40の特徴を押さえた名演奏として推薦したい。
 

20171231日 ヘルムート ミュラー=ブリュール ケルン室内管弦楽団No.41を聴取。このCDは、他にNo.58No.59が収録されているのでNo.41から聴取。録音は20026月。録音で奥行き感が乏しい。管楽器や打楽器が前の前の方から聴こえて来るようで逆相で録音したのかと一瞬思う。弦楽器が前の方に位置していない雰囲気。

 モダン楽器を使用しcmb.が入っている。提示部の前半は繰り返しを採用しているが、後半の繰り返しは採用せず。テンポは概して中庸。第3楽章 Menuetで通常なら柔らかい雰囲気の第2楽章が終了して、力強いテンポを期待する。しかしこの演奏では第1主題から常に、柔らかい雰囲気で通している。Finaleのテンポも中庸であるが下降する対旋律を余り目立たせない。録音がよくないことも相まって印象は少ない。

 なお、このジャケットの表紙はハエステルハーザ宮殿の最初のオペラの絵画が記載されている。恐らく「薬剤師」か?ハイドンの文献では、しばしば登場する絵画であるが普段はカラーでみる機会が少ないので貴重を思った。

 2019年3月23日 エルンスト・メルツェンドルファー ウィーン室内管弦楽団 43番を聴取。作曲順番で通して聴取していく場合、hob番号では、ずれることが多い。しかしこの後のNo.41とNo.42は丁度、数年間の隔たりがあるが、前後することがない。2曲を通して聞く場合、この数年間の開きが興味深い。井上著「ハイドン106の交響曲を聴くでもNo.42の冒頭で「No.41と42の第1楽章を比較してもソナタ形式を守りながらも型にはまらない自由さがある」と記述がある。最初の方のNo.41は、古典派交響曲の教科書的な作品で、聞いてみての安心感が多い方に属するかもしれない。
 第1楽章の冒頭から、やはりob.が前面に出ていて弦楽器が目立ち難い。特に、この第1楽章はかなり目立つ方だと思う。Finaleでは3連符を含む無窮動の動機が大きい。しかしそれ以外にもスラーを伴う対旋律など、結構、色々な旋律がいたる所にある。提示部のT8の部分では、3連符の動機は2つのvn.以外が受け持っていた。展開部の類似箇所のT82で管楽器のob.と低弦のみが3連符の動機を演奏する。一方2つのvn.は音程を変えて、対立する箇所がある。この部分での緊張感が欲しいが、やはりob.が目立ってしまう。以前No.25の第1楽章の展開部でも似たようなコメントを記載した。それと同じ雰囲気。
 録音もダイナミックレンジが狭く、普段は弦楽器より奥側にいる管楽器が逆位相のように、特に第1楽章で目立っている。Hrや打楽器群は奥側に位置している様なので、ob.の録音に関しては、やはり何か指揮者あるいは、製作会社の何らかの意図があるのかもしれない。
 2022年8月20日 41番 Derek Solomons, L'Estro Armonico を聴取。第2集では打楽器群は入る最初の曲。ライナーノートには打楽器群が入らないパート譜などの記述もあり。過去のレビューの中でホグウッドでは打楽器群は入っていなかったが、その分、管楽器など細かい音が分かると記載をした。(下記のブログ)

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-180.html

No.26などと異なり、この曲の録音はレベルが高くレンジも広い。打楽器群はやや右側に位置。低弦の奏者の数はそれぞれ1名しかいない。特にva.は1名なので、tuittiの箇所で低弦は、音量が不足する可能性もある。しかし下記の今までのレビューにも共通しているように、低弦は意外にも厚みがある。録音による補正があるかもしれないが、1名ずつの奏者でもtuittiは低弦の厚みを感じる。T83では1名のva.が独自のパート。T87でvc.が加わる。T95のtuittiの箇所ではbass.以外にfg.も加わる。低弦の細かい音量の変化がよくわかる。なお、 T ファイの演奏では、この展開部の最初の部分は、極端にテンポを落としていた。この演奏ではテンポの変化は殆どない。
佐々木節夫のライナーノートにも一部記載されているが。指揮者のソロモンスは、自身がvn.を引きながら「ハイドン時代の交響曲は弦楽器を主体に各種の管楽器を交えた大掛かりな合奏によるソナタ」と定義している。このコメントにもあるように、弦楽器はもとより管楽器を含めたパートによる音の強弱だけでなく、表情のフレキシビリティーが音楽全体に寄与する点にも共通する。
 上記のレビューにも管楽器の細かい音などがホグウッド盤ではよくわかると記述をした。このCDでは、より一層、菅楽器の細かい音がよくわかると思う。この交響曲自体は、井上著「ハイドン106の交響曲を聴く」にも記述があるが、古典派の教科書的の典型的な曲の一つと記述がある。明るい C‐dur の調性で、打楽器群は入るが複雑な転調はやや少ない。小節数や演奏時間もそれほど長くなく曲全体の構成も分かりやすい。第2楽章は、ob.の代わりにfl.が入らない。fl.が独自にこの楽章だけ入る。第2楽章だけに登場する。vn.は弱音器を付けて、主に伴奏に回り、fl.の独壇場に近い。
古楽器なのでもちろん音色は柔らかい部類になると思う。しかしob.は2名のまま、第1楽章と同じように入ったままになる。柔らかいfl.の音色の中でもob.は2名の奏者が分かれていることも含めて明白に聞こえるのは特徴のひとつと思った。
 第3楽章のMenuetは、No.26では、回帰している部分は繰り返しの採用を記述していた。このNo.41についても同様に、後半は繰り返しを採用。演奏時間も長くなり、Menutetの特徴がよく出ていると思う。 

武石みどりの ライナーノートに Trioの部分で c Alto 菅の高い音が印象的と記述があった。実際、演奏でも主旋律のvn.とともに、hr.の音がかなり目立つ。この箇所だけとは限らないが、他の交響曲と比較して、hr.は低音域の箇所が余りないようだ。古典派の典型的で分かりやすい曲の記述はあるが、様々な奏者を聴取してきて、細かくチェックをしてみると、意外に面白い点があると感じた。
 2024年10月1日 41番 ドラティ盤を聴取。No.40から引き続く。井上著「ハイドン106の交響曲を聴く」の中でランドンは「このときまでに、これまでハイドンが書いた祝祭的なハ長調の交響曲の中で、最も輝かしく、かつもっとも成功した作品」という評価に私(井上)も同感であると記載がある。
大崎滋生 著「ヨーゼフ・ハイドンのシンフォニー 同時代の出版について」の論文の中に、ザロモンセットより前の出版について記載があった。この論文をもとに作曲順番に自分なりに並べ替えてみた経緯がある。疾風怒涛期を中心としたホーボーケン番号の40番代の中に、有名なNo.45(1772年作曲)は、人気のある作品のためか、既に1775年にパリで出版されている。No.41はNo.45より以前の1768年頃なので、約4年前に作曲された。上記の論文によると、1771年に出版されている。No.45など同じタイミングで出版されたかもしれない。しかし少なくともNo.45を含む過去の作品の中に含まれる。このため、当時の人気作品の一つであったと思う。因みの次のNo.42(1771年頃の作曲)は、1778年以降になっている。No.45などよりは出版は後になっている。
 井上著でもNo.41とNo.42とは、作曲年代に開きがあり「ソナタ形式の取りながらも、型にはまらない面白さ」の作風の変化も記述がある。No.42の第2楽章の書き込みの中で「これはあまりにも特別の耳のためのものだ」とハイドンは書き込んでいた。No.42は、ソナタ形式に型にはまらない、ある意味、玄人好みの様な曲にシフトしているようだ。それに対してNo.41は、古典派の典型的なソナタ形式の一言で表現しているのは、私も頷ける。
 レビューを書き始めた2010年頃の当初、ドラティ盤に関して、第2楽章のfl.のsoloが目立たないと書いた。一方、フィッシャー盤はsoloが目立ち、聴き所があると記載をした。古楽器のホグウッド、Derek Solomon は、より一層、fl.の音がよくわかるとも記載した。ドラティ盤は、soloが目立たないのはなぜか? ここまでレビューをしてきた中、全ての楽章の間で緩徐楽章を含めた音量の差を付けていない。得てして緩徐楽章は弦楽器の音に埋もれて、管楽器のsoloが聞こえにくい。このため指揮者や録音技師、レーベルによっては、緩徐楽章にsoloを引き立たせる方法がある。フィッシャー盤はその典型の一つである。フィッシャー盤は、会場がエステルハーザ宮殿のホール。無観客で録音したが、「クラッシックおっかけ日記」でのレビューも触れたように録音には、かなり苦労をした経緯がある。Soloを中心とした奏者もできるだけ、同じ奏者で腕が立つ人を目指していた。録音時期はかなり幅があり、どうしても録音にはバラツキが生じてしまう。それに対して、ドラティ盤は、同じ指揮者、奏者、録音会場、レーベルなので、どの交響曲をとっても統一感がある。 
No.41は、スコアをよくみると、第1、2vn.は、弱音器を付けている。2名のob.は第1楽章から同じ奏者で続き、打楽器群はもちろん入っていない。この第2楽章だけ、fl.が追加になっている。第3,4楽章はfl.は登場しない。fl.の柔らかい音色を生かすため、敢えて、この楽章のみfl.が入る。弦楽器、菅楽器のバランスを含め、第2楽章のみがfl.に入る。この様な経緯を考えると、敢えて、fl.はsoloの様に扱わなくてもよい手法もあると思った。
 No.41は、古典的な交響曲の模範のたとえになっている。第1楽章は明確で分かりやすい構成。第2楽章はfl.のみが入り打楽器が休み柔らかい雰囲気。第3楽章は打楽器群が戻る一般的な Menuetto 。Finaleは、短く速いテンポで快活に終わる。Finaleの演奏時間は、ドラティは展開部と再現部の繰り返しがないので、2:53しかないので、すぐに終わってしまう。一気に終わってしまう理由の一つに、切れ目のなさがある。No.39の第1楽章の冒頭から休符がはいる小刻みな主題とは対照的。No.41のFinaleは、無窮動なモチーフ。自分なりの聴き所のポイントは「Finaleはモーツァルト No.34の第3楽章の主題に類似」と当初は書いた。しかしもNo.34より
も、むしろベートーベン No.8交響曲の第4楽章の方が、似通っているかもしれない。
 無窮動なモチーフは、冒頭から第1vn.で提示されるが、第2vn.の下降する対旋律も印象的。2つの主題は、殆ど一緒に動くこともあれば、一部は単独で動く箇所もある。Finaleは全部で143小節ある。この中で休符の箇所は、提示部の締めくくりの部分(小結尾部のT65)のみが休符がある。それ以外の部分は、どのパートも8分音符の動機が入る。8分音符がある意味、殆ど続くことで終わってしまう。休符を挟まないことで、切れ目なく一気の終わることがスコアをみても分かる。