通
No |
Hob.
No. |
通称名 |
作曲年 |
調性 |
楽
章
数 |
fl |
fg |
trp |
cl |
timp |
cmb |
ランク |
聴きどころ、ポイント |
20 |
8 |
夜 |
1761 |
C |
4 |
- |
1 |
- |
- |
- |
(1) |
A |
fl.とob.2本の同時の登場によるユニゾン効果。 |
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1 |
C |
Alleglo molto |
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2 |
C |
Anante |
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|
3 |
g |
Menuetto |
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4 |
C |
Presto |
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2010年12月17日 ディビス盤を聴取。第1楽章はやや、ゆったりとしたテンポ。Hob−No.-6と7と同様に、cmb.は、装飾的に活躍。第3楽章Menuettoのテンポは逆に、かなり速め。逆にtrio.は、ややゆったり目で、cb.のsoloがやや即興的になっている。テンポの対比が効果的。
FinaleはHob−No.-7と同様に繰り返しがなく、速めのテンポとも相まってすっきりとした印象。 |
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2013年2月22日 追記。ホグウッド盤を聴取。この3部作共通するが、fl.の音色が軽やかで印象的。第2楽章のAndanteは、2人のvn.奏者となる。第2vn.は、第1vn.と比較して、左側ではあるが、中央寄り。第3楽章 trio.のcb.のsoloは、思ったより目立たない。元々、小編成で、cb.は1名のみだったのか?あるいは、使用する楽器のためか、元々、音量が小さいのか? |
2015年2月23日 ゴバーマン盤を聴取。録音の方法は、No.6.7と同じ様だ。第2楽章では、管楽器はhr.のみので、fl.登場しない。しかも、消えるように終わっている。後半のMenuettoでは、fl.を含む、全ての楽器が、Tuittiで、冒頭の主題を演奏。この対比が、印象的。 |
2016年12月24日 T ピノック No.8を聴取。第1楽章のT1の第1主題8分音符の切れ目のあるリズムに対してT66の第2主題の16分音符の下降する流れの旋律の対比がポイント。最近聴いた 佐藤のモダン楽器で流れるようにビブラートが少し聴いた重厚な旋律が印象的だったことと対照的な音色。No.6にも少し記載したが、古楽器で奏者がやや少ない編成のために、T66からのTuittiの下降旋律の迫力が不足。 |
2017年3月21日T.ファイ No.7を聴取。solo楽器がいたるところでコンチェルトグロッソ風に活躍するのがNo.6〜8の特徴であるが最後の曲も同様。Menuetのtrioでは、全てのbassにsoloがある。左側に位置するのが同じだが、伴奏する楽器の奏法も面白い。ランドン版のスコアでは、bassのsolo以外の弦のパートは全て、通常通りの弓を引いての演奏。過去の演奏でも同じ様になっていた。
一方ファイの演奏は、va.も含むかもしれないが伴奏するvc.の旋律が駒の近くで奏法している様に聞こえる。(ピチカートでないようだ)この手法は面白い。Trioの後半の繰り返しで最後の2小節はfで終わり、回帰するMenuetに引き継ぐように締める。
第1楽章のT16からの下降する32分音符の旋律。この旋律が、Finaleにも再度、登場して引き締めているように思う。第1楽章では、弦のsoloは活躍をしない。一方Finaleは、弦を含む各soloが活躍。各パートがスッタカートのような刻む緊張感もある。一方では第1楽章で一部登場した32分音符の下降旋律。様々な旋律が要所で変形しながら各のパートでsoloやTuittiで登場し、しかも流れるように終わる。ファイの演奏では、流れを重視しながらも、各のパートが明確に引き立ち印象的。3曲を聴き通して来た中では、このFinaleが一番よかったと思う。 |
2016年11月19日 佐藤裕 トーンキュンストラー管 No.8を聴取。ライナーノートに、第1楽章の第1主題でオペラからの引用について、解説がある。(井上著 ハイドン106の交響曲を聴く にもこのことは記載があった)1959年にモルツイン時代にオペラの上演を見ていた記載を始めて知る。
ライナーノーツの著者である、Michael Lorenz のブログの中には、ハイドンの妻についての考察もあるようだ。(英文の下記のアドレス)
http://michaelorenz.blogspot.jp/2014/09/joseph-haydns-real-wife_11.html
soloがいたるところで活躍するが、主に二人のvn.が聴き所。第2vn.のsoloが同じ旋律を音程を下げて演奏している個所が多い。第2楽章T16から、同じ旋律で寄り添うように行こうとするが、T19で離れてしまう部分。二人のvn.の駆け引きが、よい録音も相まって聴き取れる。
3曲を聴き通してみて、どれをベストとするかの話になったら、最初のNo.6を進めたい。パリセットのノリントンの最初の一撃と同じ様に、出だしからして、引き込まれてしまう。
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2017年7月7日 鈴木秀美 盤 No.8を聴取。No.6と同様に、第1楽章で、随所でfl.のsoloが活躍。提示部では、それほど目立たないが展開部からfl.が大きく入ってくる部分T104当たり。T104では、fl.の旋律は、冒頭と同じ様にスッタカートの指定は記載していないが、やや堅い雰囲気。T107からスラーを伴う16分音符のsoloが続く。1オクターブ高い音域の高低差がオリジナル楽器のためか、自然なやわらかさの雰囲気。
拍子こそ違うが、第1楽章と第4楽章は共通点が多いと思う。冒頭の主題は、それぞれ、スッタカートを含む旋律。しかし提示部が進むに従って、スラー指定の流れるような16分音符の下降旋律がある。この対比が面白い。第1楽章と同様に、fl.のやわらかい雰囲気が堪能できる。
展開部と再現部の繰り返しは、原則、どの曲も採用。Finaleで、ファイ他でも繰り返しの後半で装飾などを加えるが鈴木盤でも同様。T106で管楽器は、繰り返しの後半はトリルとなっている。短い一瞬ではあるが、このトリルにより、曲の締めくくりに向けて華やかさを加えている。なお曲の最後は拍手が入っている。No.6.7と違って、拍手が入ることによりライブ録音の良さが出ていると思った。 |
2019年1月27日 7番 N マリナー アカデミー室内管弦楽団 を聴取。No.6、7と同じ演奏スタイル。No.7の緩叙楽章では2本のfl.が入っていたが、ここではfl.はなく、その代わりに管楽器でfg.が活躍する。得てして高音域が多い vn.とvc.に聞き入ることが多いが、fg.も少ないが独自の動きがある。高音域が少ないので余り目立たない。しかしマリナーの演奏ではfg.の音色も重視。Manet trio.もbass.のsoloがNo.7と同様にある。bass.自体のsoloは繰り返しでの装飾は余りないと思うが、cmb.は独自の装飾を加えている。
Finale.の最初の方で 主旋律のひとつ fl.が受け持つ部分がある。通常T15の部分は8分音符で通す。しかし珍しく 版によるのか、fl.がT15の1小節の部分だけ16分音符で吹いている。Prestoの速いテンポで同じ音程を16分音符で続けるのは珍しい。その後に続くT16から「Tuittiでスラーで流れるような下降旋律と対照的。この旋律はNo.6 第1楽章、No.8の第1楽章にも類似箇所がある。冒頭の刻む様な16分音符の緊張感とは対照的。打楽器群は入らない少ない編成ではある。しかし微妙なリズム感の変化を通して、旨くまとめている楽章だと改めて認識した。 |
2019年2月28日 エルンスト・メルツェンドルファー ウィーン室内管弦楽団 8番を聴取。第2vn.のsolo はNo.7と同様に左側に位置。第3楽章 Menuet trioでNo.6や7と同様にbass.のsoloが入る。やや奥側に位置し極端に前面ではないので自然な雰囲気。
Finaleは今まで概して遅めのテンポが多かった。しかし過去に聴いて来た中で、とても速いテンポ。16分音符の下降する流れるような旋律。16分音符でトレモロの刻む様な鋭い緊張感との対比がポイントになる。速いテンポでありながらも、Tuitti とsolo の対比を旨く表現。すべての弦のパートでのユニゾンの箇所が多く、通常配置でも違和感は余りない。No.6や7と異なり特にFinaleは好演だと思った。 |
2019年8月13日 8番 ニコラス ウオード The Northern Chamber Orchestra を聴取。No.6〜8は共通してcmb.が、全て入っている。最近だと N マリナーはFinaleでfl.の旋律をスタッカートでも独自で、吹いている点を記載した。(下記のブログ)
ウオード盤では通常通り。
http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1067.html |
2020年9月19日 8番 ニコラウス・アーノンクール 、 ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを聴取。No.8の冒頭からレガート奏法の魅力が印象的。下記のブログで No.93 第1楽章の序奏 T18の部分で第1vn.のレガート奏法に関して。単なるレガートではなく、強弱を含めた ふくらみのある 響きについて触れられている。
http://micha072.blog.fc2.com/blog-entry-1598.html
レガート奏法は、No.6とNo.7でも随所に、聞こえている部分はあった。しかしNo.8の 冒頭と比べると余り目立たない。しかしNo.8に関しては随所に、このレガート奏法をい満喫できる。No.6〜8はハイドン自身、晩年の目録にも掲載されている。この頃の他の曲は晩年でもこの目録に掲載されていない中。冒頭にこの3曲がセットで掲載されている。交響曲の中でも、晩年まで記憶があるのはもちろん、気に入った曲であったかもしれない。以前、下記の自分のブログにもこの点を記載してきた。
http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-119.html
協奏曲風のスタイルは、この頃で大半は終わっている。弦楽器だけでなく、管楽器を含めたsoloのパートを随所に聞ける。特に、第3楽章のTrioの部分でbass.のsoloが入る。Trioの部分で、しかもbass.のsoloとなると、どうしてもテンポを落とさないと難しい。アーノンクールの場合も同様にテンポは落としている。それに対して、Menuetの主部は、比較的テンポが遅かった第2楽章から、急に速いテンポに変わった対比が印象的。
SoloとTuittiの掛け合いが面白みの一つなので、録音の影響も大きい。最近聴取した佐藤裕 ウイーンでのライブ録音が印象的だった。この録音は、モダン楽器だが、残響が多いものsoloとTuittiの対比が美しい。
アーノンクールは古楽器だが、2つのvn.パートは対向配置。第1 2 vn.のsoloも左右対称に分かれている。やや中央右寄りにvc.のsoloがあるのも明白。各パートの位置がよく分かる。Finale T14 でfl.は、 指揮者によっては、スタッカートの奏法として、T16からのスラーと対比させる部分もある。(N マリナーがその典型だった) アーノンクールの場合はそれほど極端なスタッカートではない。6〜8の3曲のセットを聞き通してみると、録音の良さとも相まって、T ファイ が最初に支持した指揮者であることがよく分かる。 |
2020年12月29日 クイケン /ラ・プティット・バンド 8番 を聴取。3曲目となると、この演奏の特徴も慣れてくるというか、聴き所が絞られて来たような気もする。No.6とNo.7にも共通している箇所はあったが、要所ではスラーの表示があってもスタッカートで通している箇所がある。
古楽器を使用し、しかも古楽器の奏法を徹していることもあるの観点なのか、スラーの箇所とスタッカートの箇所とは必要に応じて、No.6,7と同様に明確に分けているようだ。No.8の第1楽章でもT65からの下降する流れるスラーの動機。スコアではスラーの表示だが、クイケンの場合は、スタッカートで通している。なお、この動機は、Finaleにも類似箇所がある。Finaleでは、スラーで通しているので、第1楽章の再現といった雰囲気はないのと対照的。
No.6〜8は自筆楽譜がNo.7しか存在していないようだ。No.8の自筆楽譜は紛失しているようだ。しかし作者自身のカタログにも記載がされている。晩年の1805年のカタログでもNo.6〜8が最初から記載されている。(下記のサイトは以前の自分のブログからの引用)
http://mistee.b.la9.jp/haydonsub110-14.html
晩年ではあるが、このカタログではエルテルハージ就任以前の曲が掲載していない。その分No.6が冒頭に持ってくるのは、晩年でも鮮明であり、気に入った曲であったと自分なりに思っている。このCDのライナーノートには4番めとしての「夜」があった可能性も記述している。エステルハーザの宮殿で2度の火事により自筆楽譜が紛失したこにも言及。もし仮にハイドなが4番めの夜を作曲していたのなら?
もし第4曲目の「夜」の自筆楽譜あるいは筆写譜が一部でも残っていたら、晩年のカタログに記載がされた可能性があるかも。 しかし1805年のカタログは、弟子で写譜担当のエルスラーが書いたもの。ハイドンの記憶も衰えていることも相まって、実際には4番めの曲は、私はないと思っている。
3曲目をまとめるのあたって、奏者の数について記載をしたい。No.6〜8はvn.が2名ずつの最低限。エステルハージの初演のメンバーで通している。副楽長を就任するにあたり、デビュー曲としてこの3曲をハイドンは作曲した。この録音は当時と同じ奏者で演奏している。特にvn.に関しては2名ずつなので、vn.のsoloの箇所soloでない箇所と差は、単純に計算をすれば、2倍になる。しかし元々、弦楽器に関しては奏者が1名から2名に増えても音量は単純に2倍にならないのが一般的。弦のユニゾンの箇所で、soloに対して伴奏するもう1名のvn.奏者の音量を控えている点で印象に残った。過去の他の演奏だと、No.7の第1楽章を例にとると、第1、2vn.のsolo 1名ずつに対して、第1 2 vn.の伴奏者は2名以上の複数になる。Tuittiを含むユニゾンの箇所はどうしても、soloより大きい音になる。
一方、クイケンの場合は、伴奏が1名なので、Tuittiやユニゾンの箇所でも音量は、やや、小さくなると単純に考えてしまう。しかし奏者が多い数と比較して、余り差は私には感じない。T ファイのような指揮者の傍で聴いているいるような録音ではなく、少し残響を取りいれて、左右の広がり感を押さえているような録音が影響しているかもしれない。
クイケンはこの前の1992年〜1995年に別会場でザロモンセットを録音している。この録音は奏者が多く、7:6:3:3:3なっている。No.6〜8と異なり、ロンドンのコンサートを意識しているのか、奏者もかなり多くなっている。作品の背景や趣旨などを踏まえて、奏者を変えているのは、良い解釈だと改めて思った。
最期にこのCDの表紙について。No.6の冒頭にも掲載したが、黄色い色で日時計?をイメージしたイラスト中央の12時の位置に、指揮者の使用する指揮棒?で中央を示している。一度、この表紙を見ただけでは、曲と表紙との関係は、すぐには理解しにくい。朝、昼、晩の1日の流れがセットになった3曲がCD1枚に収録された関連が、しばらく考えると趣旨が次第に分ってくる。
昨今は音楽の配信がオンラインも多くなり、印刷物としての配布も少なくなってきた。CDの音源として配布していく場合、表紙はある意味、「顔」になる。アントニーニのシリーズのような「うんちく」のようなスタンスとは異なるかもしれない。しかし表紙を見るだけでも楽しい1枚だと思った。
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2021年8年8日 ジョヴァンニ・アントニーニ 、 イル・ジャルディーノ・アルモニコ 第8番を聴取。余り知らせていないかもしれないが、この曲は第1楽章とFinaleに類似する旋律がある。以下のサイトは、自分の過去ブログ(クイケン8番)からの引用。今回のコメント箇所についての譜面あり。
http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1372.html
クイケンの場合は第1楽章の部分のT65でスッタカートの切れるような演奏のレビューを書いた。それに対して、アントニーニの場合は、他の指揮者と同様にスラーの流れるような旋律を採用。No.7にて soloとリピエーノの関係について記載をした。これに関連してsolo とリピエーノ音量についてもこの曲で記載したい。他の交響曲Hob―No.―38 通称名:Ecco ほどではないが、この曲でもエコーのような箇所がある。第2楽章のT4の部分。第2楽章のスコアでも弦のsoloが明記されているが、冒頭は3名のsoloが主体となって開始する。(No.7にも記載したように、この曲でも常に第2vn.は第1vn.よりも高い音にならない)この後T5でリピエーノの第12vn.が続く。この箇所では奏者が多いものの音量を落とす。機会があればしばしば記載をしてきたが、vn.の各solo 1名ずつと、リピエーノ奏者は第1vn.(6−1)=5+第2vn.(5−1)=4 計9名となる。Soloの2名に対して9名の奏者になるが、あくまで音量は落としている。T5からの2つのvn.ユニゾンのように聞こえるかもしれないが、実際には第2vn.は音域が下がっている。音量を落とす箇所では、左右に広がった録音で、中央付近の2名のsolo が目立つ中、突如T5の後半で左右のリピエーノvn.奏者は、小さい音量ながらも広がった音像になっている。聴覚でももちろん、良い録音が相まって、このあたりはよくわかる。
もしライブ映像があれば、このあたりの音色の対比とともに、vn.を含めた弓の使い方などがよくわかると思う。 Youtubeの他の交響曲でもアントニーニの場合、音量を落とす部分は、弓の動きをうまく調整しているのがよくわかる。なお、展開部の最初の部分でも同様なスタイルになっている。
No.7と同様に、Trioの部分でも bass.のsoloが入る。この部分でも伴奏側に回る、弦の他のパートの音量の落とし加減も違和感がない。Trioの繰り返しの部分では、音量をさらに落としてMenuet に回帰してくる手法も、アントニーニでもしばしばみられる手法。
No.6〜8の3部作は、セットになっていて、依頼元のエルテルハージ侯爵が朝、昼、晩と命名した記述もある。副楽長として就任した年になり、侯爵もフランスあるいはイタリア風の音楽もお気に入りのようだ。コンチェルトグロッソの形式をすぐさま、作曲者が取り入れ3部作として完成した。この様式は今後はもはや殆ど交響曲では出てこない。3部作は常に調性も異なり、soloの扱い方も最初はvn.が1名。2曲目から2名のvn.。
bass.のsoloは第1曲めNo.6から登場しないなど、作曲順番もうまく考えていると思う。現代に生きる我々も3曲をほとんど、通して順番にセットで聴取することが多い。それに対して初演当時は、恐らく3曲は1度ではなく、順番に日にちを変えて披露されたのではないか。時間的には、3曲通しての演奏は約1時間。コンサートプログラムでは、それほど長い時間ではない。
一方、初演の頃は、毎週、決まった曜日に侯爵の前で曲が披露された記載を思い出す。2名のob.奏者の内、1名はfl.に持ち帰るなど、楽章の合間など、雰囲気が変わる箇所もある。3曲、一度に初演がされていないと私は思う。
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ジョヴァンニ・アントニーニ 、 イル・ジャルディーノ・アルモニコ 第8番 その2(追記 モーツァルト K239を含む)
2021年8月9日 追記
アントニーニの第10集の最後にモーツァルト セレナータ ノットルナ K239が収録されている。朝、昼、晩の後の夜の位置づけだと思われる。モーツァルトの作品でセレナ―ドあるいはノットルノ、デビルティメントなど、よく似た室内楽などが数多くある。これらの中でこの曲を採用している。ノットルノは「夜」を意味すると思うが。この意味だけに加えて、この曲の編成も3部作が共通点になっていると思う。モーツァルトのセレナードの類は、vn.のsoloが緩徐楽章を中心に入ることが多い。この曲に限っては、vn.に加えて、各弦のパートsoloが入っている。Soloとtuittiとの対比が多くちょうど3部作と類似点が多い。3部作に引き続いた共通点として採用していると思う。第3楽章のカデンツアでは弦のsoloがハイドン3部作の一部を回顧するように、引用されている。モーツァルトの作品ではないが、他の作曲者からの引用は、この当時はカデンツアの部分などを中心に、よく用いられる手法だと思うので違和感が全くない。この曲を締めくくる位置付けとしてもうまく演出していると思った。
第10集のテーマは 「Les Heures du Jour」となっている。フランス語のようだが、ライナーノーとにも英語の部分でこのタイトルの訳文が載っていない。 クイケンのCDの表紙にも日時計の写真が印象的だった。朝、昼、晩などの3部作は1日の、時間、などを意味している。フランス語なので、このタイトルの意味がよく分からないが、日 あるいは太陽、 時間 などを意味しているようだ。
作曲年代、標題に関しての考察をひとつ。ハイドンが1961年5月1日に副楽長として就任したことは、契約書が残っており記録がある。一方、名曲解説全集では、3部作の中で第7番のみは自筆楽譜が1761年と自筆楽譜が残っており、No.6とNo.8の作曲年代は、No.7の頃になっていて確定はしていない。現代の諸説でもおそらく1761年ころに推定されているようだ。ライナーノートには、1761年5月22日の披露された記述もあるようだ。
ところで1761年といえば、金星の太陽面通過が6月3日に起こった。世界的にもフランスを中心として注目されていた。元々、フランスの天文学者 エドモンド・ハレーが1761年に起こることを予言していたが、すでに1742年に死去。その後、フランスの天文学者ドリルなどが、欧州以外の世界各地で、この太陽面通過を観測しようとした年に当たる。ライナーノートにも天文学の文言が記載されているようだが、天文現象を通じて太陽の動きから暦や時間などに関心があったと推定される。この背景も含めて考えると1761年は特に太陽に関しての関心が高く、暦などを含めて関心が高かったと思う。これらのことを含めると、少なくとも、このCDだけは、日本語訳文のついたCDのほうがよかったと思う。
最後に、例によって、Magnum Photos の写真家 Jerome Sessini について。今回の写真は、 時間、日光、太陽など様々な視点からの切り口が考えられる。経歴を少しみると、世界各地で写真家として活躍しているようだ。紛争地域での写真も、1枚の写真だけでも、Magnum Photoの会員ということもあり、私にも訴えてくる不思議な雰囲気が伝わってくる。次の集の発売も楽しみだ。
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008番 G アントニーニ Youtube 2024年1月7日 追記
No.7から引き続く。CDの方は下記のブログでレビュー済み。
http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1400.html
上記のレビューで第2楽章の弦楽器、soloと他の奏者(リピエーノ)との音量の対比などを記載した。第1vn.のsoloはもちろん、引き立っているが、リピエーノの他の4人の奏者も音量を落としているのがよくわかる。
第3楽章のTrio でbasss.のsoloがある部分。Trioの繰り返しで、bass.奏者でのトラブル?があったようだ。第2奏者が、第1のsolo奏者に対して、何か文句を言っている。イタリア語の様なので意味は分からない。いったん中断し、指揮者も困ったような表情となる。その内、何とか収容できたのか少し戻ってから再開する。
映像を見直してみたら、第1奏者が演奏するとき、体をかなり動かしていて、隣の第2奏者に体があたったようだ。聴衆も最初は、この事態が分からなかったかもしれないが。ライヴならではの臨場感のひとつとして思いたい。この後に、モーツァルトのセレナータ ノットルナ の演奏はアップされていなかった。No.6〜8は打楽器群を使用しない。しかしモーツァルトは打楽器を使用する。弦楽器の4名のパートが全て登場する。ハイドン曲も違って、soloとリピエーノの対比の箇所がさらに多くなる。舞台の奥の方まで席が用意してあった。モーツァルトの演奏に関しては、演奏の配置を変えていたと思う。
Youtubeの他の映像で、過去のものは削除されているようだ。残りの曲も視聴したいが残念。
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2023年7月9日 Bernhard KLEE B クレー プラハ室内管弦楽団 8番を聴取。No.7から引き続く。No.6,7,8は Menuetto のtrioの部分で全て bass.のsoloが入る。どの指揮者もこのsoloの箇所は伴奏側に回る他のパート(主に弦楽器)の音量を抑えている。この演奏も同様。T41の部分でbass.の伴奏側とvc.のパートは、bass.のsoloよりもさらに低い音程となっているが、この演奏でも同様。概して第3楽章は、テンポは遅めのことが多い。特にこの演奏の場合、Trio のsoloの箇所を意識しているのか、 Menuetto の冒頭からかなりテンポを抑えている。
この後に、No.22が収録されているが、録音が後の2年先になる。No.6〜8は1975年の録音なので2023年の時点で48年も前の音源になる。もちろんアナログの時代。録音会場はprague 、studio dejvice kolejini となっている。
クラッシックCD 聞き比べのサイトを調べたら、別な曲ではあったが、この録音会場の写真が掲載してあった。
http://karajan2.blog101.fc2.com/blog-entry-2992.html
メンデルスゾーン 8重奏曲の録音は 左右の広がり感があり録音評価も高い。当時のスプラホンの録音は、現代でも通用するほど、良い録音ではあったと感じる。
ハイドンは交響曲を多数作曲した。一般に初期から中期の交響曲の演奏の機会は少ない。調性は比較的様々だが、楽章数もほぼ同じで第1楽章はテンポの遅い楽章は少ない。このNo.8の第1楽章はNo.6,7と頃なり異なり序奏がない。 冒頭主題からいきなり開始するので、なおさら、曲の出だしは第1主題で決まってしまう。8分の6拍子の4小節単位でまとまった簡潔な旋律。ライナーノートや名曲解説全集には、当時の民謡からの引用が記載されているが、当時からよく知られていた旋律かもしれない。また、歌えるような分かりやすい旋律だった可能性もある。
1曲ごとに交響曲の出だしは、第1主題の印象で決まると私は思うが、この簡潔な主題は分かりやすい。簡潔な3拍子単位の第1楽章の主題といえば、調性とテンポこそ違うが 同じ8分の6拍子でNo.67がある。作曲年代は1779年の頃なので、No.8からだと約18年の後になる。この2つの主題をよくみると冒頭のまとまりを含めた主題は類似しているように見える。
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2023年10月15日 8番 R グッドマン ハノーヴァバンド Roy Goodman The Hanover
band を聴取。全体的な印象はNo.6,7と同じ雰囲気。この曲は、3曲セットで録音されていることが多い。表装に関して、グッドマンの場合は、余り触れていなかった。鈴木秀美 OLCなどを同様に、余り特徴がない。色も同じ。間違って重複して購入する可能性もある。クイケン盤のように、曲の由来などに因んだ企画がふさわしい。(下記のクイケンのブログ)
http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1372.html
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2024年7月28日 ドラティ盤 No.8を聴取
3曲セットの最後の曲。No.7から引き続くと、調性がまた変わる。第3楽章 Menuetto のTrioは、3曲とも共通することの一つとしてbass.とfg.のsoloが入る。No.6の時は、bass.の位置は、左側にあるものの、余りよく分からなかった。No.6はva.のsoloもあるので、va.の音源との兼ね合いもあるのか?
それに対してNo.7、8はva.のsoloはないので演奏者に余り変わりはない。そのためか、bass.の位置は、かなり右端にあるのがよくわかる。ドラティの演奏はモダン楽器で弦の奏者数は多いと思うが。概して収録の方法に差が余りないように感じる。同じオケの同じ奏者で、短期間に同じ会場で録音したことの影響が大きいと感じる。3曲はイタリア風の合奏協奏曲のスタイル。交響曲の関しては、この前にも、この後にもこのようなスタイルは作曲されていない。いわば交響曲の中では異色の作品となる。自筆楽譜はNo.7のみ存在し、1761年の作曲年代は確定しているものの、正確な作曲年月日までは不明のようだ。
3曲のセットでレビューすると、ついつい、S クイケンの表紙を思い出してしまう。
http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1816.html
垂直式(壁掛け方)の日時計。標題が「朝、昼、夕」なので、1日の流れがポイントとなる。当時は日本と違って時間もある程度、正確に分かっていた。日時計は余り活躍がなかったかもしれないが、田舎で教会の鐘の音が聞こえない地域では、未だに役立っていた可能性がある。科学的な情報はある程度、普及をしていた。
作曲年代の1761年といえば、6月に太陽面通過の現象があり、事前に予報も出ていてヨーロッパでも観測された例がある。ロンドンの第1回の訪問の際に、ハイドンは当時の有名な天文学者 W ハーシェルの居宅を尋ねたが不在だったとのこと。美術収集家(特に版画など)でもあり、ドイツ語以外に、多くの言語が話せてかなりの知識や興味を持っていたと思う。1761年5月1日に、ハイドンは副楽長に就任した。太陽面通過はその1か月余り後になる。太陽面通過の事前の予報が既に浸透していたように、天体現象を含む科学的な情報は、現代ほどでないにしてもある程度、分かっていた。副楽長に就任し侯爵の気に入ったイタリア風の交響曲を、さぞかし自信をもって作曲したに違いない。
下記のレビューには、演奏された日にちで5月22日記述がある。
http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1857.html
就任は5月1日だったので、それより間もない時期から初演?されている。初演で聞いた侯爵を含む一部の聴衆は、この曲(3曲の中のどれかは不明かも)を聴いて、どのように感じたのか。侯爵はイタリアの音楽はお気に入りだった。イタリアの音楽が、自分の雇用する作曲家が、このように見事に演奏されたのを聴いて、初演でもかなり気に入っていたと私は思う。初演後しばらくは、筆写譜以外は流通ができなかったと思うので、この3曲は邸内で保管されていた。その後、多くの交響曲が有名になって、世界中に出版を伴って流通するが、その前の段階で、さぞかし侯爵も保管を含めてお気に入りの気持ちだったと感じる。
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