音楽聴取記録(交響曲の聴取 各曲の聴取記録 通しNo.19 hob-No7
2024年8月1日 更新

No 
Hob.
No.
 
通称名   作曲年 調性   楽

 fl  fg trp  cl  timp   cmb ランク    聴きどころ、ポイント
19 7 1761 G 4 -  -  - - (1) A 第2楽章だけを聴くと、fl.2本、vn.vc.の協奏交響曲
       1 G Adagio-alleglo
       2 Recitativo:adagio
       3 G Menuetto
4 G Alleglo
2010年12月9日:

第6番と比較して、さらにsoloパートが多く合奏協奏曲かもしれないが、ディベルティメントやセレナードとして聴いた方が良い。特に第2楽章は、Recitativoの序奏がある。ここでの g の調性とその後の G の調性の対比が美しい。(名曲解説全集では、Recitativo(2部形式)を単独の楽章として、全部で5楽章として掲載してある。2種の全集は、Recitativoを第2楽章の序奏としてあり、続けて演奏されている。(全4楽章)
 第6番と同様に殆どのパートでsoloがあるが、2本のfl.とvn.やvc.の扱いが第2楽章で目立つ。 モーツァルト初期の交響曲のように、第1楽章はob.のみでfl.なしが、第2楽章ではob.なしの編成。ob.がないので、緩徐楽章では、やわらかい雰囲気が漂う。2本のfl.がそれぞれのパートを持ち掛け合いがあって、soloの楽しさ。圧巻は再現部の最後のカデンツアでvn.とvc.が提示部や再現部であった旋律を元に両者で披露する。第2楽章だけを聴くと、fl.2本、vn、vc.の協奏交響曲として聴いても差し支えない。
 Menuettoのtrioでは、コントラバスのsoloがある。フィッシャーでは、この部分もvn.はsoloで引いており、コントラバスの音を引き立てている。それに対してドラティ盤は弦soloでない。しかし2種のいずれも、バスが編成の右端に位置してステレオでの配置が堪能できる。
 楽器の扱い方をNo.6-7を中心に書いて来た。6-8番に共通していることは、展開部の主題の労作なども初期の作品として、この時期でも典型的なスタイルで扱われている。2種とも聴き通してみて、No.6とは違った意味で、こちらも楽しめる。
(2019年12月29日追記 タグとして2010年12月9日とする)
2010年12月15日 ディビス盤を聴取。Hob−No.-6と同様に、随所にイタリア風のビバルディの合奏協奏曲の雰囲気がある。特に第2楽章は、この傾向が強い。fl.2本、vn.vc.のための協奏交響曲と記載したが、ディビス盤の演奏でも同じ様な雰囲気。ただし、cmb.がやや目立つ。Finaleは展開部と再現部の繰り返しがない。割合、速めのテンポが加わり、さらりとした流れを重視した感じ。ライブ演奏であることもあり、繰り返しがない方が、すっきりとした印象を受ける。
2011年3月9日スコアを見ながら再度、3者の演奏を聴取。楽章構成が一応5つあることもあり、規模からすると、6-8シリーズの中では一番大きいであろう。Recitativoは29小節あるが、中間部はAllegroにテンポを転じるなど、テンポの変化とともに展開が速い。その後のAdagioは、調性がG-Durと大きく変わること。ob.が全て休んで2本のfl.になり、柔らかな音色を重視する対比が一番の聴き所であることは変わりなし。
 特にフィッシャー盤では、編成が小さい分、細かい音まで聞き取りやすいのも良いポイントとして評価したい。fl.を2本としたのは正解だと思う。なお、fl奏者は2人専属ではなく、1人はob.の持ち替えではないかと推測。(それまでの楽章ではfl.は登場していないこと。Adagioの楽章はob.が休み。その後の第3楽章はfl.は休み。Finaleは、ob.2本とfl.本の通常の編成などから)Adagioの終わりに近い部分は、vn.とvc.の両者によるカデンツアが15小節にも渡る。このカデンツアは作曲者がオリジナルなもので、途中でAllegroからAdagioへのテンポの指定などもあり大規模。途中では、vc.がvn.以上の高い音域にいたる箇所もあり、vc.奏者にとっては腕の見せ所であったと思う。
 第3楽章のMenuetでは、フィッシャー盤はなぜかcmb.が入っている。No.6では入っていないと思うが。No.7でもMenuetのみ入っているのは不明。trioでcb.を引き立てることもあり、cmb.は目立たないが。 
 Finaleは今までの各楽章で登場した楽器が再度、総勢でsoloを含めて締めくくる雰囲気。
 No.6-8シリーズが協奏交響曲あるいは、セレナーデ風の様式に特化している理由として。井上著ではパウル・アントン候はビバルディが好みであったのも由来する可能性を指摘。特に、この第1楽章は、コンチェルトグロッソあるいは、リトネロ形式の様相が強い。一つ前のHob-No-5で、類似した形式を、このシリーズで開花させた印象が強い。特に作曲順番に聴き通して行くと、「開花」の表現がぴったりであると思う。
 なお、ディビス盤はFinaleで展開部と再現部の繰り返しがない。ライブ録音もあり、繰り返しがなくても良いであろう。
2013年2月16日 追記。ホグウッド盤を聴取。fl.が活躍するのは、前のhob-No.-6と同じであるが、今回は2人となる。第2楽章のRecitativoでは、管楽器でob.2人がいる。その後のAdagioでは、ob.が休みでfl.が2人となる。続けて演奏する考えとして、RecitativoをAdagioの序奏とし全4楽章の考えもあろう。しかし、楽器編成からすると、恐らくob.奏者2人が、fl.に持ち替えていると、私なりには思う。編成が、がらりと変るので全5楽章と私は解釈したい。モダン楽器と違って緩徐楽章でのfl.の音色の対比が印象的。
 Menuettoのtrioでは、cb.のsoloがある。ホグウッド盤では、この音色が他の楽器のバランスが良いためか、自然な感じで聴き取れる。
2015年2月22日  ゴバーマン盤を聴取。No.6から引き続いて聴取。No.6では、vn.のsoloは1人だったが、ここでは第2vn.のsoloの入る。当然、配置から、第2vn.は右側にやや離れて位置。vn.2名の奏者同士のsoloとなると、配置がやや離れすぎる観がある。
 Adagioの最後のカデンツアで、vn.とvc.の掛け合いの部分も、指揮者を挟んで、かなり離れた位置で聴く雰囲気。
2016年12月24日 T ピノック No.7を聴取。No.6と同様に、各楽器のsoloが随所で登場するが弦楽器のvc.の役割が多い。第3楽章 Adagioでは、vn.とvc.は同じ旋律を受け持つことが多い。楽器のサイズと音域もあり、Vc.vn.の音程を上回る個所は殆どない。しかし後半 T36から 第1vn.とvc.のカデンツアに入る部分。わずかで間でhあるがT41-42にかけて、vc.がvn.よりも高い旋律を演奏する個所がある。高い音域のvc.に対して、vn.は、音量を抑えてvc.を目立たせているのが印象的。
 2016年11月18日 佐藤裕 トーンキュンストラー管 No.7を聴取。楽器ではfl.が1本加わる。またvn.のsoloも2名となる。このためNo.6と比較してより一層、soloとTuttiの個所の対比が多くなる。第3楽章レスタティーヴォはh-mol で終わる。ここまではfl.が全く登場しない。その後、G-DurのAdagioの明るい2本のfl.が登場する部分。この対比が、No.6の第3楽章と同様に美しい。
 第3楽章のvn.とVc.のカデンツアの部分で、vc.がvn.よりも高い音域で演奏する個所がある。この部分では、vn.の方は少し音量を落として、vc.を引き立たせている。
ライナーノートについて。No.6に登場したfl.奏者の男性(Whalter Schober)は、楽器を手に持っていない状態で撮影。No.7で登場したもう一人のfl.の男性(Bright Flhch)との対比がされていて、奏者のパートが分かりやすい心難い演出。なお、Soloの写真では、vc.の奏者がいない。No.6と違う奏者だが
 

2017年3月21日T.ファイ No.7を聴取。no6.と異なり、第1、4楽章は、2名のvn.奏者のsoloがある。ファイ演奏はvn.が対向配置になっているので、3度離れた旋律で演奏する個所の対比が効果的。一方、第3楽章ではvn.とvc.のsoloが聴き所。トーンキュンストラの方は、長いカデンツアの後半の方で、vc.がvn.よりも高い音域で演奏する個所。ここでは、vc.のほうが音色を引き立たせていた。一方ファイ指揮のハイデルベルク響では、2名の奏者が常に対等で演奏。
Soloを含めた楽器の配置も良いNo.6 第3楽章のtrioも同様だったがbassのsoloが左端に明確に位置。No.7のtrioも同様。しかし、全体的にファイらしい特徴は余りない印象に終始。
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2017年7月6日  鈴木秀美 盤 No.7を聴取。No.6-8は、初期の交響曲としては、soloの活躍が多いので、視覚効果が高い部類。中期から後期の交響曲にも共通する。
 佐藤裕 トーンキュンストラー管のようにライブ録音で楽しみたいひとつ。こちらの方は、ライブでも録音会場は東京の朝日浜離宮ホールで、大ホールだと収容人数は525人。人数からして観客席と演奏者との距離はそれほど遠くないと思うので、CDからでもライブで、すぐ前で聴いているような音源を期待したい。しかし、No.6にも記したように、私の視聴環境では定位感と広がり間が不足気味で、ダイナミックレンジが私には狭いように聞こえるため、やや難しい。
 第2楽章の短い短調のRecitativo は、木管楽器はob.のみで、fl.とfg.は登場しない。Recitativoが終わって第3楽章の明るいG-durの調性に切り替わる部分。この部分がこの曲の白眉だと思う。すなわち第3楽章は明るい調性に変わるのはもちろん、ob.ではなく、2本のfl.に変わる。しかも2本のfl.は、solo、Tuitti、音程を変えたsoliなど、弦楽器のsoloを合わせて華やかな役割となる。2本のfl.は、音域の広がりは余りないが、それでもT27の部分の様に、わずかではあるが離れた音で演奏する部分がある。この箇所などが、オリジナル楽器の特色を生かして効果的。
 2019年1月26日 7番 N マリナー アカデミー室内管弦楽団 を聴取。No.6から、soloにvn.が加わり、緩叙楽章ではfl.が2名になる。第2楽章の中途の部分で2本のfl.が随所に入る箇所(レスタチーボの序奏の後からだとT11の部分)ここでは、solo vn.からvc.が2本のfl.と絡んでくる。2名のfl.は、音色がはっきりと分かれ、vn.とvc.の対比が印象的。No.6にも少し記載をしたが、soloからTuitti あるいはTuittiからsoloに変わる部分。ここでは、自然な雰囲気とは少し異なり、あくまでsoloの定位感を重視した録音。特に弦楽器のsoloがTuittiで他のパートを重なっていく部分。ここはスタジオ録音のためか、soloがメインになっている。ワンポイント録音とは少し異なる雰囲気。(1980年の録音)
緩叙楽章を中心にcmb.が必要に応じて、装飾で随時入っている。スタジオ録音ではあるが、僅かに緩叙楽章を中心に楽器外の音が入っている。しかしその分、臨場感がある。No.6と異なりvc.はかなり高音域でvn.と掛け合う カデンツアの部分も録音が鮮明、距離感がかなり近く会場の最前列で聞いている雰囲気。
 第3楽章Mnuet trio でbass の soloがある箇所。ここでのbass.はあくまでsoloとして引き立て、他のパートはできるだけ音量を抑えている。テンポは概して少し速めで、繰り返しは最低限にととどめている。作風からして繰り返しを忠実に守らなくても違和感は少ない。
 No.7は自筆楽譜がある。井上著 ハイドン106の交響曲を聴くにも、第1楽章の冒頭で10段の五線譜の写真がある。緩叙楽章のカデンツアの部分は、vn..とvc.の2名なので、五線譜は2段でよい。かなり長いカデンツアの部分は、五線譜のページ数を節約するために、1ページの中に詰めて書いたのかどうか? 当時は紙は貴重であったこともあり興味がある。
 
2019年2月27日 エルンスト・メルツェンドルファー ウィーン室内管弦楽団 7番を聴取。No.6と異なりvn.のsoloがひとり増えて2名となる。ファイの場合は2名のvn.奏者が指揮者を挟んできれいに左右に分かれていることを記載した。(下記のブログ)

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-693.html

 ファイの場合は、元々、vn.が第2vn.が右側にあり対向配置になっている。第2vn.のsoloも右側にあるのが自然な形式。一方、メルツェンドルファー の場合は、第2vn.のsolo のみが右側になっている。左右に分かれているが、solo以外のvn.は左側。第2vn.のsoloのみが、右側の離れた位置になっている。va.のsoloの箇所もないので、solo 2名を中心に聞くには、それほど支障はないかもしれない。しかし協奏交響曲のスタイルなので、soloの箇所がありながらも他の弦のパートと一緒になることもある。第2vn.は左側にあり第2vn.のsoloとは少し離れている。このため第2vn.のsoloとTuittiの差が少し生じてしまう。録音のためか、この差までは私には分からなかったが。もし実際にこの光景を見た場合、違和感があるかもしれない。
 2名のfl.奏者は分かれて聴こえていない。Cmb.第2楽章の冒頭から入っているがNo.6と同様に緩叙楽章以外は入っていないようだ。
 Menuet trio でNo.6と同じように bass.のsoloがある。ここでもNo.6と同様に、第2vn.soloと同じ様な中央の手前に位置し不自然な感じ。No.6と同様に、録音の点で不利になり印象が低い。
 
2019年8月12日 7番 ニコラス ウオード The Northern Chamber Orchestra を聴取。No.6から引き続く。No.6と比較して録音レベルが少し高いのか、soloの楽器の扱いが大きめ。その分、管楽器などの奥行き感が余りない。
 2020年8月17日 7番 ニコラウス・アーノンクール ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを聴取。No.6にも記載をしたが第1楽章の序奏の出だしからが魅力的。アーノンクールはどのフレーズも丁寧に各パートを歌わせている雰囲気。冒頭の4分音符のユニゾンから突如管楽器のみに変わる。さらにvn.のみでスタッカートのp で演奏。僅か1小節のみの部分である。
この音量は音色の対比をいかに表現するか。No.67,8は随所にsolo の楽器が活躍しどの点も魅力がある中、冒頭の1小節から各パートを引き付ける魅力があると思う。この最初の部分の序奏は、冒頭しか登場しない。繰り返しがない分すぐに終わってしまう。第2楽章にも序奏はあるが曲の一番初めの部分。一瞬で終わってしまう、ある意味、儚さをうまく表現していると思う。
Soloの箇所はもちろん各パートは十分、聞きごたえはある。しかしそれ以上に、Tuittiでの音の厚み。このとき、soloの楽器もTuittiとして演奏してると思うが、あくまでsoloの音色は聞こえない。Tuitiとsoloの音色や音量の対比。 Soloの楽器がなぜ、Tuitiiで埋もれてしまうのか? 人間の聴覚の影響、あるいは、脳内の情報処理によるのかもしれないが。アーノンクールの演奏を聴くと、音色、音量、solo とTuitiiの対比など随所に面白みがある。単に古楽器だけの解釈だけとは思えない。
 2020年12月28日 クイケン /ラ・プティット・バンド 7番 を聴取。No.6から引き続く。No.6のレビューにも一部記載があったが、弦楽器の重音が存分に楽しめる。冒頭の序奏の出だしから印象的だが。この曲、全体を通して弦楽器の重音は各所にあるが冒頭から印象的。第1楽章のob.や第2楽章のfl.の2名の奏者による分かれたパートの箇所が多いこともあり、弦楽器の重音も効果的な一つだと思う。vn.もNo.6と違って2名のsoloが入る。No.6にも記載をしたが、vn.の各パートは2名ずつ。1名ずつがsoloに入ると、伴奏側は残りの1名ずつになる。Soloの箇所と伴奏の箇所は単純に比較すると、奏者の数は同じなので同じ音量になる可能性がある。
 譜面のT82の箇所では弦楽器は6段になっている。Vc.とbass.は1オクターブ離れてのユニゾンなのでこの箇所の奏者は実際には7名。スコアでは2名のvn.のsoloが2つのパートに分かれている。伴奏側の2名のvn.奏者はスコアには記載はされていても、あくまで音量を落としている。伴奏側はsoloと比較して音程が低い箇所ではある。しかし音楽としては、あくまで伴奏の2名の奏者は伴奏の音色として聞こえる音楽の不思議さが、やはりある。その後T84のvn.の重音箇所も、うまく対比している雰囲気。
 ハイドンは、かつて低弦に関して音量を補強したい場合、単に奏者の数を増やすのは好ましくない。むしろ、vc.+bass.+fg.の3名のユニゾンの方が、好ましいと発言した記憶がある。T84からの箇所は、低弦はユニゾンになっているが、クイケンの場合は、全ての奏者が1名ずつ。ユニゾンでの低弦の音色をハイドンが狙っていたのかもしれない。
 録音に関して。弦楽器だけでなく全てのパートの広がりが、やや狭く中央寄りにある雰囲気。第3楽章Trioのbass.のsoloも右側に位置しているが、広がりは余りないと思う。右側にいる2名のfl.奏者の2名に分かれている音が少しわかり難い。宮殿の初演当時は、fl.奏者は1名であった。ob.の1名がfl.に回る。アントニーニの演奏では、ob.奏者がfl.を持ち替えた映像があった。しかしクイケンの場合は、2名のfl.奏者が記載されているので、持ち替えはない。また管楽器のhr.も中央寄りであくまで和音の補強を中央で支えているような録音。もう少し左右の広がり感があった方が、私にはありがたい。


 
2021年8月7日 ジョヴァンニ・アントニーニ 、 イル・ジャルディーノ・アルモニコ 第6番を聴取。このCD自体はすでに数回を通して聴取済。レビューを書くとなると至る所で思いつくところが多く、逆にまとめるのに苦労をする。時間が経過するほどに最初の印象を忘れてしまい、レビューが書きにくくなってしまう。第6番では冒頭の序奏のレンジの広さについて記載をした。第7番は、2名のvn.のsoloが入ってくるのが特徴のひとつ。 2名のsoloとリピエーノの関係などについて記載したい。
 No.6〜8は、コンチェルトルトグロッソの典型の一つで、soloとリピエーノとの対比が興味深い。2名のvn.奏者の掛け合いが大半だが、スコアをよく見てみると、ほとんど、第1vn.のsoloは第1vn.よりも高くなる箇所はないようだ。第2vn.のみがsoloの箇所は当てはまらないが。2名が一緒のsoloの部分はあくまで高いパートが第1vn.となっている。このため、2名のvn.のsoloの演奏でもあくまで第2vn.は第1vn.より控えている雰囲気。しかし音量に関しては、あくまで対等に位置しているようだ。アントニーニの録音は対向配置も生かして、2名のsoloの奏者の位置が分かれているので、soloの音色が明白。
 最近クイケンの演奏を記載した。クイケンの場合は、初演当時のエステルハージ楽団の奏者を忠実に守っているため、vn.の各パートもsoloを含めて2名ずつ。Soloが2名の箇所とリピエーノが入るtuittiの箇所は奏者が1名ずつ増えるのみなので、音量的には余り大きくならないと一般には感じるかもしれない。しかしクイケンのCDでは、tuittiでも音調はあくまでtuittiとしてsolが2名+他のsolo以外の2名が「別々」には聞こえてこない。人間の聴覚(あるいは視覚も一部は加わっているかもしれないが)の不思議な一つだと思うが。
 アントニーニの場合はvn.の奏者はNo.6にも記載したように 6:5:3:3:2・クイケンと違って、リピエーノの奏者が複数いる。さすがにクイケン以上にtuittiでの音量は大きくなる。Solとtuittiでの音量の差がよくわかる箇所がある。第1楽章の展開部の最初の方。T61から solo3名の箇所で2つのvn.の伴奏が入るが、レンジの広さも手伝って、この伴奏に回るvn.の音量は殆どわからないのも印象的。T68でtuittiの箇所になる部分。Soloの音色がすぐに消されて、ユニゾンに近い旋律でtuittiとなる。この音色の対比が印象的。

 007番 G アントニーニ Youtube 2024年1月6日 追記 

 CDの方は、下記の部ブログにレビュー済み。Youtubeのレビューが済んでいないため記載をする。

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1399.html

6番から引き続く。No.6と異なり、第2楽章は第2vn.のsolo の箇所が多くなる。カメラの撮影制限のためか、第2vn solo奏者のアップが全くないのが残念。第2楽章の後半から、追加nfl.奏者が入る。ハイドンが当時、作曲していた頃は、ob.奏者がfl.を持ち替えていた可能性が高い。しかし現代では、追加の奏者が担当する。第2楽章だけの登場なので、追加の奏者がどのように登場するか気になる部分。第1楽章終わると、hr.奏者の1名が左側の隅に退場。空いている席に、追加のfl.奏者が入るのは映像ならでは。第1vn.とvc.の2名の奏者のみで古尾張頃にカデンツアは入る。この箇所は、指揮者自身が全く、指揮を行っていないのも印象的。
 
 第3楽章  Menuetto  でTrioがbass.のsoloを弾く部分。Solo以外の弦楽器の他のパートは音量を抑え、soloを引き立たせる。bass.のsoloがかない高い音域になる箇所でも、左手の抑えの位置が分かる。
 2023年7月7日Bernhard KLEE B クレー プラハ室内管弦楽団 7番を聴取。

プラハ室内管弦楽団はモダン楽器だと思う。過去のレビューで s クイケンを記載した。古楽器であるが、弦の奏者が2:2:2:1:1 で初演当時のエステルハージ宮廷楽団と同じ奏者の数となっている。

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1371.html

プラハ室内管弦楽団の奏者はそれよりは、もちろん多い。No.6に関して、菅楽器のSoloを含めての奏者の広がりを記載した。対向配置ではないが、この演奏でもよくわかる。第3楽章のvn.とvc.のカデンツアの部分。ここでも2名の奏者が中央よりではあるが、分かれていて、Soloの旋律をうまくとられている。T41の部分ではvc.がvn.よりも高い旋律を受け持つ部分も、テンポを少し落として曲想に変化を加えている。
 初演当時、fl.奏者は1名だった。アントニーニの録音のYutubeでは、2名のfl.奏者は持ち替えていないようだ。
 2023年10月13日 7番 R グッドマン ハノーヴァバンド Roy Goodman The Hanover
 band を聴取。グッドマンは中央で指揮をしながらcmb.を弾いているスタイル。特には通奏低音だけでなく、soloのように華やかに活躍する場もある。第1楽章 序奏のT5の部分。ここではcmb.が独自の動きで華を添えている。
 No.7は、第2vn.のsoloの箇所が多く、fl.が2名となる。Soloの数が増える分、さらに聴き所が多い。 Menuetto のtrioのbass.のsoloは、No.6と同様に左端に明白に位置。No.6〜8の3曲は 1991年2月12〜14日の僅か3日間で収録されている。録音による差がそれほどないかもしれない。しかし心持、No.6と比較して調性の変化も伴うかもしれないが、soloの音量が全体的にやや大きめな雰囲気。

007番 G アントニーニ Youtube 2024年1月6日 追記 

 CDの方は、下記の部ブログにレビュー済み。Youtubeのレビューが済んでいないため記載をする。

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1399.html

6番から引き続く。No.6と異なり、第2楽章は第2vn.のsolo の箇所が多くなる。カメラの撮影制限のためか、第2vn solo奏者のアップが全くないのが残念。第2楽章の後半から、追加nfl.奏者が入る。ハイドンが当時、作曲していた頃は、ob.奏者がfl.を持ち替えていた可能性が高い。しかし現代では、追加の奏者が担当する。第2楽章だけの登場なので、追加の奏者がどのように登場するか気になる部分。第1楽章終わると、hr.奏者の1名が左側の隅に退場。空いている席に、追加のfl.奏者が入るのは映像ならでは。第1vn.とvc.の2名の奏者のみで古尾張頃にカデンツアは入る。この箇所は、指揮者自身が全く、指揮を行っていないのも印象的。
 
 第3楽章  Menuetto  でTrioがbass.のsoloを弾く部分。Solo以外の弦楽器の他のパートは音量を抑え、soloを引き立たせる。bass.のsoloがかない高い音域になる箇所でも、左手の抑えの位置が分かる。

 2024年7月27日 ドラティ盤 No.7を聴取。一般にNo.6,7,8の3曲は、まとめて順番に収録されていることが多い。このCDでも同様。No.6がD-durに対してNo.7はC?DURなので、調性が少し下がることになる。No.6から引き続くと調性がさがる分、やや落ち着いた雰囲気に少しなることが多い。しかしなぜか、この演奏では調性による差は感じるものの、演奏がさらに迫力を増している雰囲気。vn.のsoloが1名から2名に増えるのか? 第2楽章は2つに分かれて、前半に短調Recitativoが加わり、調性の対比がされに増える箇所が多くなるのか?
 以前だと、No.6からNo.8を一気に聴取した場合、華やかさがさがってくることが多い。しかしこのドラティの演奏は、逆に、華やかさが上がって、油が乗り切ってくる雰囲気が不思議。