音楽聴取記録(交響曲の聴取 各曲の聴取記録 通しNo.16 hob-No15
2024年8月11日 更新 

No 
Hob.
No.
 
通称名   作曲年 調性   楽

 fl  fg trp  cl  timp   cmb ランク    聴きどころ、ポイント
16 15 1761−62頃 D 4 -  -  - - (1) C ピチカートの効果
       1 D AdagioーPrestoーAdagio
       2 D Menuet&trio
       3 G Andante
4 D Finale

2010126日:
1楽章は3部形式の様。最初の第1主題は、主旋律はvn.であるが、伴奏の低弦がピチカート。曲の出始めからピチカートに会うとベートーベンの第1交響曲にも似ているかもしれない。 各楽章で、soloのパートが多くあるが、ビオラ(va.)とチェロ(vc.)のパートが第2楽章のtrioで長く掛け合いで聴ける。音色の工夫のために、楽器のsoloを今までよりもパターンを変えている。
 曲全体の構成は、一つ前のHobNo.-32と類似。第1楽章の形式が、今までのソナタ形式でない純然たる3部形式。第2楽章のMenuettrio.の部分が長く管楽器が休んでいる点などは今までにない手法。 →聴きと通しみて、過去にはあった手法である。 Finaleは中間部に短調を挟むが、かなり長い。
 全体を通して聴いてみると、細かい点まで新たな発見がある曲。ランクはCで変わらず。.井上著では、この交響曲ではハイドンは、これまでの交響曲の定型を壊そうとしたのではないか?との記述がある。この表現は、作曲順に聴いて見ると的を得ている。
20191229日追記 タグとして2010126日とする)。


 2010年12月8日 ディビス盤を聴取。各パートにsoloが多くある点から、この頃よりモルツィン侯爵からエステルハージ侯爵の副楽長に就任した一番最初の曲になると推定。ディビス盤でも、この曲からエステルハージ副楽長としての作曲のCDに入っている。

2011年3月7日スコアを見ながら再度、3者の演奏を聴取。最初のAdagioは33小節。その後のPrestoは77小節。帰ってくるAdagioは18小節。中間のPrestoは純然たるソナタ形式で、提示、展開、再現部が、きれいに並んでいる。第1楽章の構成からして、今までにない形式。中期の頃の交響曲でも、楽章によって最初の頃の部分が回帰してくる曲もあったと記憶。その先駆をなすための実験策でなかったか。なお、モーツァルトのイタリア風の交響曲でも似たような形式はあるが。
 第2楽章のMenuetでtrioは弦のみ。フィッシャー盤ではtrioの部分は例によってsoloになっている。この交響曲の最初に記載した通り、この点はひとつ前のHob-No-32に通じる所を再度、確認。
 第3楽章のAndanteも、弦のみでの演奏。この点も一つ前のHob-No-32と共通。随所で、低弦は独自の動きがあり、vn.と旨くやりとりをしている。
 Finaleは作曲者はPrestoの指示をしているが、フィッシャー盤では、これよりも遅いテンポを取っている。中間部の短調の部分でもテンポの指定はないが、3/8拍子。最後の短いcodaがあるが、聴けば聴くほど、意外な発見があり、ランクはCで良いと思った。  
 ドラティ盤での違いは、第1楽章のPrestoでのテンポの速さ。第2楽章のtrioのsoloの扱い。(フィッシャー盤では、しばしばだが、ドラティは珍しい)FinaleのPrestoの指示は忠実に守っている。
 ディビス盤では、trioの部分は、vc.のsoloのみとしている。スコアを見ると、vc.はsoloの記述はないが、明らかに高音の記号で記譜してある。作曲者は高音部でのvc.のsoloを要求したのであろう。Andanteのテンポは速めであるが、録音の良さもあってか、細かい音まで聞き取れる。Finaleのテンポは、フィッシャーとドラティの中間。
2013年2月11日 追記。ホグウッド盤を聴取
第1楽章のAdagioでは、ピチカートの効果を聴き所で記載をした。それに伴って、第1vn.の旋律が引き立たせる。このvn.の動きは、手持ちのスコアでは、単旋律のみであるが、ホグウッド盤では、さらにパートに分かれているように聴こえる。その分、小編成でも、各パートの細かい音が聴こえる例なのかもしれない。
 Menuetのtrioは弦楽器のみであるが、珍しくva.とvc.が旋律を受け持つ。両者は同じ音域であるが、ここでは、vc.が普段よりも高い記譜記号で書かれていて、vc.の方が目立つ。
2015年2月22日 追記。ゴバーマンを聴取。
曲の聴き所のポイントとしてAdagio(後半にも回帰)をあげたが、va.以下の低弦のピチカートが効果的。この部分では、普段は目立たないcmb.が、かなり大きく左側にピックアップ。第2楽章のTrioでbassは、soloあるいは、奏者を減らているか? 繰り返しの指定がない短いFinaleのテンポは中庸。
 
2019年2月24日 エルンスト・メルツェンドルファー ウィーン室内管弦楽団 15番を聴取。繰り返しの箇所が少なく、形式も今までと異なり実験的な新たな展開という感じのひとつ。第1楽章の冒頭から弦のピチカートなど斬新な雰囲気。メルツェンドルファー ではピチカートの部分は、たとえ伴奏の部分であっても低弦を含めてかなり目立たせている解釈。その後のhr.(右側)も控えめに位置。
 第2楽章 Menuet trio の部分で、vc.とbass.が聴き通してみて初めて分離の部分が登場する。ここではva.も独自の動きがある。vc.は中央、やや右よりに位置。bass.との分離もよく分かる。録音も良好。

 2019年10月22日 15番  Kevin Mallon K マロン Toronto Chamber Ochestraを聴取。井上著にも記載があるように、独創的なところが多く、どちらかといえば、通好みの曲のひとつ。第1楽章は通常は繰り返しの箇所が多いが、この曲に関しては繰り返しはない。緩叙楽章も入れ替わり第3楽章になっている。冒頭の16分音符の動機。2つのvn.で最初は提示。この楽章は、すべて弦楽器のみで構成。弦の各パートの受け渡しなどがポイントのひとつ。T6の部分で低弦のみがこの動機を受け持つことになる。この部分でも、あくまで柔らかく表現。


 2021年3月27日 15番 ジョヴァンニ・アントニーニ イル・ジャルディーノ・アルモニコ を聴取。購入はすでに2か月近く前にしていたがパソコンの更新、ブログレビューへの投稿などで、聴取が遅れていた。すでに数回、聴取はしているが自分なりのレビューをまとめると時間が空けば、空くほどに苦労をする。No45とNo15の間に、レチタティーヴォとアリアも挟む。こちらも好演と思うが、あまりこの曲について私はよくわからない。
 最後のNo15は、初期の作品の一つで井上著「ハイドン106の交響曲を聞く」でも実験的な曲の一つと記述がある。確かにそのような面があるかもしれない。手持ちのスコアを見てみると、D調を基調とはしているものの、音程の跳躍などが随所にある雰囲気。冒頭の第2vn.以下のピチカートの伴奏がはいる。この部分一つをとっても、第2vn.+va.と低減とは、同時になっていない。このため、冒頭から独特な緊張感がある雰囲気。
 第2楽章に入っているMenuetでのTrioの部分。ハイドンには珍しく va.のsoloが入る。(出しvc.もsoloになっているが) 最近、Tuittiとsoloの音量や音色、残響などについて、いろいろと書いているがこの部分も興味深い。弦の奏者は 5:4:3:2:2  Trioの部分ではvn.はSoloではなく、各パートは5名と4名。それに対して、va.とvc.はsoloなので1名ずつ。単純に奏者の数だけを比較すれば、va.とvc.の各1名の奏者が少ない。しかもvn.の2つのパートは奏者が多いのに加えて、2名のsoloよりも音程が高い。スコアだけみると、この音色の対比などが分かり難い。スコアはあくまで作曲家の設計図あるいは仕様書のようなもので、当時あるいは現代でも聴衆は、演奏者を通してこの作品を知ることになる。スコアからどのように引き出すあるいは、特徴をもちながら、聴衆へ渡すのが演奏者の役割になる。
 アントニーニの場合、この箇所では通常の奏者にも共通する例の一つだと思うが、soloと他のパートの対比が効果的。Menuetの主部ではsoloの箇所はもちろんなく、管楽器を含めたユニゾンの箇所が多い。Trioに入る、急に音量を落とし、soloを介しての音色の変化の対比は、何度も同じように記述をしているが効果的になっていると思う。

 第8集は、このNo15でもって最後になる。第8集のテーマは日本語訳では「別れ」  HMVの紹介記事に記載があるが、「旅立ちや別れ」などをテーマに最初に、パリから戻ったニコラウス候の到着を祝って、フランス風な部分も含むわかりやすい華やかな曲。それに続く、有名な告別の交響曲。そして最後は実験的ではあるかもしれないが、随所に、じっくり通好みであるかもしれないが侮れない曲。No15は冒頭からhr.が随所に活躍する。No35も一部ではあるが、hr.が活躍する箇所もある。hr.という共通したテーマが背後にあるようなテーマかもしれない。

(以下のリンクは HMVの紹介記事)
https://www.hmv.co.jp/news/article/2012141021/

例によって、表装を含む写真について。今回は フランスの Patrick zachmannの写真家。別れをテーマに様々な視点での写真がある。表紙の写真も含めてだが、被写体の直接画像だけでなく、影を効果的に使用している。照明を含めた写真の影は間接的ではあるが、訴える点が多いと思う。

 15番 G アントニーニ Youtube 2024年1月8日 追記 

 No.8から引き続く。CDの方は下記のブログでレビュー済み。

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1388.html

第1曲目のNo.35のYoutubeは聴取済。2曲目(No.15)と3曲目(No.45)のYoutubeがまだ残っていた。第2楽章  Menuetto  のTrioの部分。弦楽器では珍しく va.のsoloの箇所がある。3名のva.奏者の内、1名がsoloで弾いているのが映像でもよくわかる。第3楽章 Andante は弦楽器のみとなる。映像では、2つのvn.は弱音器を付けていた。

2021年11月30日 15番 鈴木秀美 OLC オーケストラ・リベラ・クラシカ を聴取。このシリーズの3枚目でNo.15に引き続き、vc.協奏曲 C−dur No.44の3曲が収録されている。
過去のOLCのレビューで、1晩で切りの良い選曲と調性を考慮したことを記載した。(下記のアドレスはNo.59などの場合)

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1415.html

 このCDは、2曲の交響曲の間にvc.協奏曲が入る。最初の第1曲は、最後の3曲目の前にあたるので、交響曲に関しては選曲を含めた順番もポイントになる。No.15を最初に持ってきたことについてライナーノートの指揮者自身や飯森豊水の解説が触れられている。No.15はこの2の解説にも共通するがオペラ序曲の箇所もあると記述がある。前者の指揮者のコメントは第1楽章の中間部に相当するとある。しかし中間部だけでなく、冒頭の弦楽器のピチカートからの出だしなど、通常とは異なる雰囲気で始まることからして、オペラ的な繊細に雰囲気が感じられると記載している。
 たしかにこの演奏を冒頭から聞いてみて、明るいD調でピチカートの弱奏から始まる雰囲気など、的を得ている雰囲気。曲の細かい所としての印象は余りない。3曲目を通して聴き通した後に、この曲の強弱の美しさがCDを聴取して思い出す。すなわち、2曲目のvc. 協奏曲は指揮者自身が独奏を担当する。しかもtuittiの部分もsoloの箇所以外に独奏者が引く。各vn.の奏者を4から3名に減らしている。このため2曲目は、 f の部分でも奏者が少ないので音量が、やや小さくなる。それに対して、3曲目は奏者の数は元の5名ずつに戻している。
 2曲目に弦の奏者を減らしているので、1曲目の奏者の数は分からない。しかし私が聴取する限り、どの箇所も f の部分は、3曲目と比較して音量を抑えているように聞こえる。ライヴ録音なので、1曲目から引き続き聴取していくと、演目の最後の曲が得てして印象に残ってしまい、最初の1曲目は逆に印象が少ないケースが多い。この演奏会を実際に会場で聞いた場合やはり、冒頭の第1楽章のピチカートの柔らかい印象を思い出すか? 最近は全くコンサート会場に出かけていないので、ライヴの雰囲気を味わえない。しかしCDの聴取を通して、繰り返しを聴くことで逆に、強弱、調性、選曲などの面白さを知ることができたと思う。
 J クランプ ハイデルブルク交響楽団 Johanees klumpp  Heidelberger sinfoniker 15番

2022年7月2日 Johanees klumpp  Heidelberger sinfoniker 32番 を聴取。このCDでは最後の収録。作曲年代では前の3曲よりも時代が下る。Soloの箇所があるので対照的な雰囲気。
 前のNo.32にも記載をしたが、soloの箇所では音量を落とし、tuittiとの音量の対比を生かしている。井上著でも「ハイドンは独創的な曲の一つとして作曲したのではないか?」の記述がある。繰り返しのない箇所が多いなど、従来とは異なるスタイルが多い。
 第2楽章のMenuet のTrioの部分はsolo の箇所で、vn.は他の3曲と同様に対向配置だが、vn.の掛け合う箇所は随所にある。Trioでbass.を含む全ての奏者がsoloとなる。元々bass.は1名だが、あたかも弦楽5重奏のような雰囲気。珍しいva.が第2vn.と同じように右側に位置すること。vc.とbass.は中央よりのやや左側にあるものもこの箇所でもよくわかる。



 Vn.の 対向配置を生かした各パートの対比は、前の3曲でも随所にある。この曲でも同様。特にFinaleの中間部の部分。弦楽器のみの箇所で、va.以下はあくまで伴奏に回り、2つのvn.のパートが掛け合う。通常、対向配置でも第2vn.は音域が第1vn.より低いので、余り目立たない部分になりがち。しかしこの演奏では、音域が引き第2vn.は常に第1vn.と対等に演奏しているのが印象的。


No.15で最後の収録となる。最近、この曲で 鈴木秀美 OLC の演奏を聴取した。この演奏ではライヴ録音で、最初にNo.15、その後にvc.協奏曲の後、No.44で締めくくった。ライヴが基本なので、3曲をセットでCDとして聴取した場合、No.15は最初の順番になる。2曲めのvc.協奏曲では 指揮者の鈴木自身が独奏を担当し、弱奏の部分ではvc.以外の弦楽器はsoloで演奏している。協奏曲の中でもtuittiと、それ以外の箇所で音量の対比があったのが印象的だと記載をした。(下記のレビュー)


http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1423.html


 しかし3曲目はNo.44で締めくくる。No.44は短調の調性で作曲年代も下がり疾風怒涛期の一つの作品となる。ライヴ録音の最後になるのでメインはNo.44に、なってしまう。最初のNo.15は冒頭の曲になってしまう。このためライヴ録音として意識した場合、No.15は、どうしてもメインのプログラムとしての印象は少なくなってしまう。
 それに対して、このCDではNo.15が最後の曲として収録されている。作曲年代も4曲の中では、一番最後の曲となり、打楽器群がないとはいえ、メインの曲として位置する。T ファイが交響曲全集を目指した中で中断し現在、J クランプ が後継者として残りの曲を録音中。残りの曲をどのように選択し、しかもどの様な順番で収録するのか楽しみだ。

 2023年9月17日 15番 R グッドマン ハノーヴァバンド Roy Goodman The Hanover band を聴取。このCDは、No.13〜16の4曲が収録。ファイナーノートはNo.15,16,13,14の作曲順番で記載。このため、前回と同様にライナーノートの記載順番のNo.15から聴取する。
 冒頭のゆっくりとした開始。アントニーニのレビューでも記載をしたが、冒頭から第2vn.+va.と低弦のピチカートが伴奏に回る。しかし、第2vn.+va.と低弦とは、休符をはさんで微妙に異なっている。グッドマンの演奏は、概して、緩徐楽章の部分のテンポは遅め。伴奏側のピチカートのズレもよくわかる。
 
2024年8月5日 ドラティ盤 No.15を聴取。モルツィン時代の作品かもしれないが。初期の作品の中では、異例のものの一つ。井上著「ハイドン106の交響曲を聴く」でも「独創的な所が多く、これまでの交響曲の定型を壊そうと試みたのではないか」の記載がある。この著作の中でも数点の特徴が触れられている。
「第1楽章はAdagioで第1vn.以外のパートは弦のピチカートだけの弱音にhr.だけが入るめったにない静けさから開始する」
「提示部の複縦線がない」
「2つの主題は展開部さながらに、短調やユニゾンが入るなど変化が多く通常のソナタ形式とはかなり違う」
「第1楽章は再び、Adagioの序奏で終わる。ソナタ形式の聴きなれた聴衆を意外性の連続で驚かせたのではないか」
「第2楽章と第3楽章が、通常とは入れ替わっている」
「Trioはva.とvc.のsoloが入る」
「第3楽章のAndante は16分音符の細かい動機で出来ている」
「Finaleは3拍子で中間に弦楽器だけによるd‐molかなり長い部分がある」

 誰が初演を聴いたのは分からないかもしれない。しかし初演を聴くときでも、ハイドンの音楽を含めてある程度、ソナタ形式の構成、各楽章の調性、リズムなどについては、それなりの一定の知識を持った人が多かったと思う。仮に後期の作曲の様な公開演奏のように、型式や音色等に余り変化を求めず、聴衆に対して分かりやすい目的の交響曲だとこの限りではないが。
 冒頭から第2vn.以下の低弦がピチカートで伴奏し、ゆったりしたテンポで第1vn.が歌うように演奏する。しかし早くもT2でhr.の短いながらもsoloが入る。ゆったりした序奏が33小節も続き、早いテンポでこの楽章が終わることを予測していたのに、また冒頭のAdagioに戻る意外性。第2と第3楽章の入れ替わり。Finaleの短調の長い中間部。各楽章のどれをとっても、初演を聴いた聴衆は、意外な感想を持った可能性があると思う。
現代の我々は、コンサートでこの曲を聴く場合、演奏前に曲目の調性、順番などが分かっている。再生する機械や出版されたスコアなどで、演奏前に曲のイメージをつかむこともできる。しかしながら当時は、これらの手法は殆どなかった。ザロモンセットの交響曲でも初演当時は、交響曲の調性は分かっていても、各楽章の数、楽章のテンポなどまでは分からなかったと思う。ましてや初期の頃の作品となると、初演の時は曲目についての詳細は、殆ど不明のまま、いきなりそれこそ聴衆にとっても「初耳」で聴いた可能性がある。この様な条件でこの曲をもし聴いた場合、初めての感想は「とにかく不思議で雲もつかむ曲」のイメージだったと私は思う。
ドラティの演奏としての大きな特徴は余り、分からない。概して Menuetto は遅めのテンポだがこの曲も同様。 Menuetto の主部よりもさらに長いTrioでva.とvc.のsoloが入る。過去の他の奏者でもよく聞かれたが、弱奏の部分はva.とvc.以外のvn.と低弦もsoloで弾いているようだ。伴奏側に回る低弦もこの箇所はsoloになる。録音レベルにもよるのか、第3楽章の低弦の独自の旋律の部分。下記の マロン盤の譜面あり。

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1910.html

T6の低弦はvc.とbass.がユニゾンで弾いている。この音量や音色がTrioの低弦のsoloとは明らかに違いがよく分かる。かなり前の録音であっても、要所は鮮明にとらえていると思う。
 2024年8月5日 ドラティ盤 No.15を聴取。モルツィン時代の作品かもしれないが。初期の作品の中では、異例のものの一つ。井上著「ハイドン106の交響曲を聴く」でも「独創的な所が多く、これまでの交響曲の定型を壊そうと試みたのではないか」の記載がある。この著作の中でも数点の特徴が触れられている。
「第1楽章はAdagioで第1vn.以外のパートは弦のピチカートだけの弱音にhr.だけが入るめったにない静けさから開始する」
「提示部の複縦線がない」
「2つの主題は展開部さながらに、短調やユニゾンが入るなど変化が多く通常のソナタ形式とはかなり違う」
「第1楽章は再び、Adagioの序奏で終わる。ソナタ形式の聴きなれた聴衆を意外性の連続で驚かせたのではないか」
「第2楽章と第3楽章が、通常とは入れ替わっている」
「Trioはva.とvc.のsoloが入る」
「第3楽章のAndante は16分音符の細かい動機で出来ている」
「Finaleは3拍子で中間に弦楽器だけによるd‐molかなり長い部分がある」

 誰が初演を聴いたのは分からないかもしれない。しかし初演を聴くときでも、ハイドンの音楽を含めてある程度、ソナタ形式の構成、各楽章の調性、リズムなどについては、それなりの一定の知識を持った人が多かったと思う。仮に後期の作曲の様な公開演奏のように、型式や音色等に余り変化を求めず、聴衆に対して分かりやすい目的の交響曲だとこの限りではないが。
 冒頭から第2vn.以下の低弦がピチカートで伴奏し、ゆったりしたテンポで第1vn.が歌うように演奏する。しかし早くもT2でhr.の短いながらもsoloが入る。ゆったりした序奏が33小節も続き、早いテンポでこの楽章が終わることを予測していたのに、また冒頭のAdagioに戻る意外性。第2と第3楽章の入れ替わり。Finaleの短調の長い中間部。各楽章のどれをとっても、初演を聴いた聴衆は、意外な感想を持った可能性があると思う。
現代の我々は、コンサートでこの曲を聴く場合、演奏前に曲目の調性、順番などが分かっている。再生する機械や出版されたスコアなどで、演奏前に曲のイメージをつかむこともできる。しかしながら当時は、これらの手法は殆どなかった。ザロモンセットの交響曲でも初演当時は、交響曲の調性は分かっていても、各楽章の数、楽章のテンポなどまでは分からなかったと思う。ましてや初期の頃の作品となると、初演の時は曲目についての詳細は、殆ど不明のまま、いきなりそれこそ聴衆にとっても「初耳」で聴いた可能性がある。この様な条件でこの曲をもし聴いた場合、初めての感想は「とにかく不思議で雲もつかむ曲」のイメージだったと私は思う。
ドラティの演奏としての大きな特徴は余り、分からない。概して Menuetto は遅めのテンポだがこの曲も同様。 Menuetto の主部よりもさらに長いTrioでva.とvc.のsoloが入る。過去の他の奏者でもよく聞かれたが、弱奏の部分はva.とvc.以外のvn.と低弦もsoloで弾いているようだ。伴奏側に回る低弦もこの箇所はsoloになる。録音レベルにもよるのか、第3楽章の低弦の独自の旋律の部分。下記の マロン盤の譜面あり。

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1910.html

T6の低弦はvc.とbass.がユニゾンで弾いている。この音量や音色がTrioの低弦のsoloとは明らかに違いがよく分かる。かなり前の録音であっても、要所は鮮明にとらえていると思う。