音楽聴取記録(交響曲の聴取 各曲の聴取記録 通しNo.14 hob-No5

2024年4月17日 更新

No 
Hob.
No.
 
通称名   作曲年 調性   楽

 fl  fg trp  cl  timp   cmb ランク    聴きどころ、ポイント
14 5 1761−62頃 A 4 -  -  - - (1) B No.6-8の予兆、Hrのsolo
       1 A Adagio ma non troppo
       2 A Alleglo
       3 A Menuet
4 A Presto

2010年12月4日:
初めてhr.のパートsoloが随所(特に出だしの第1主題が印象的)で聴かれる作品。hr.のsolo4本使用の後の作品もあるが今回は2本のみ。2本でも、それぞれパートが分かれていて、hr.同士の掛け合いも印象的。むしろ4本より聴きやすいかもしれない。
 第1楽章のテンポがゆったりとしたテンポと相まって、有名な45番の最終楽章Adagiocodaの雰囲気にも似ている。調性は全てAであるが、全てテンポが異なりsoloが随所にあって合奏協奏曲に近い。初期作品のNo.6-8をピークとすれば、この前段階や予兆を思わせる特徴を持つ通しNo. 7(hob. No.10)で初めて、合奏協奏曲が登場したと書いた。No.6-8に向けて、hob No. 10に向けての2番目の曲に位置していると思う。
 Prestoの演奏時間は短いが速いテンポながらも、中期以降の少しユーモアや遊び心が漂う。この交響曲で初めて、はっきり聴き取れると思う。もう少しPresto演奏時間が長くなったら、さらにランクを上げたい。
なお全体の楽章の並び方は第1楽章に、緩徐楽章が来ている。中期から後期では楽章の並び方が固定していく中、作曲者は、いろいろと先人の一つ前のNo.11と同様に、研究を重ねたに違いない。中野著や井上著では、この順番を教会ソナタ形式と表現をしている。
 ドラティ盤では、第2-4楽章のsoloの演奏はなし。フィッシャー盤との差は、余りないと思う。
20191229日追記 タグとして2010124日とする)。

2010127日 ディビス盤を聴取。Allegli ma non tropo の第1楽章は、2本のhr.が活躍するが、この演奏でも、かなり目立つ。この後に続くNo.6-8のシリーズの予感をさせる。
 ディビス盤では、soloの扱いはフィッシャー盤ほどはないが、細かく聴いてみると、Menuetの経過部でも「チラリ」とvn.soloが聴き取れたりする。trio.では初めて、管楽器を主体としたsolo.の音色(弦はピチカート奏法)の手法は、後年の先駆けとなっている。A調が続いても、何度聴いてもテンポの変化が全て異なるのも魅力は大きい。意外な発見がある点からもBランクは変わらず。
(
追記)
 ディビス盤を再度に聴取。フィッシャー盤ほど、vn.のsoloの箇所は、やはり少ない。 しかしながら、全集版の収録順番に、再度、敬服した。というのも、作曲順番通りに聴いていくと、この曲はHob-No-68シリーズの後になる。しかし私は、Hob-No-68シリーズの前段にあったと、解釈したい。(1761年作曲以前)もし前段の作曲であれば、イタリア風の雰囲気をこの交響曲を通じて試していたのではないか?ここまで聴いてきた中で、イタリア風の跳躍し休止、強弱のある雰囲気の作品はまだ接していない。前段として作曲したのであれば、理に適っていると思う。その点からも、作曲された順番に収録されているのも納得がいく。また作曲された順番に聴いて行く楽しみでもあると、再度思った。
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その後スコアをみながら、ドラティ盤とフィッシャー盤を再度、聴取をする。フィッシャー盤は、随所に管楽器のsolosoliの指定箇所は元より、第12vn.も必要に応じて、soloの箇所があることを再度確認する。Hob-No-10にも記載をしたが、この後のHob-No-68シリーズの予見をさせる点では変わりなし。Hob-No-68は、イタリア風の協奏交響曲を連想させる。ハイドンは、エルテルハージ候が当時はイタリア風に興味を持っていたことから、必要に応じて、イタリア風を作曲に取り入れていたらしい。
 そのためか第2楽章の跳躍や休止を挟む快活な雰囲気は、いかにもイタリア風の雰囲気が漂っている。第24楽章にかけては、第1楽章以上にvn.のsoloが協奏交響曲の雰囲気を味わうには欲しい所。フィッシャー盤は見事に応えている。
 それに対して、ドラティ盤は、やはりvn.のsoloの箇所が物足りない。A調が続くのは心苦しい点もあるが、テンポの変化は見事。

2012
320日追記 ディビス盤を聴取。No.6-8の予兆を感じさせると記載をしたが、この根拠は、管楽器を中心としたsoloの活躍にある。ディビス盤ではライブ録音とも相まって、管楽器を中心とした音色が、うまく聴き取れている。

2013211日 追記。ホグウッド盤を聴取。通しNo.順に聴きくと、No.11に続いて、共通するところと逆に違いが楽しめる。楽章数は同じで、最初に緩徐楽章が入っているのは同じ。ただし調が異なることと、hr.が活躍する点は異なる。
 No.11の緩徐楽章は、hr.は、伴奏に徹していたが、ここではsoliの記述があるように、旋律楽器を受け持つ。ホグウッド盤では高音域のhr.の音色が効果的。ob.は伴奏のみに徹している。フィッシャー盤では、第2楽章などは合奏協奏曲風に随所にsoloがあるが、ホグウッド盤ではなし。
 Menuettrioでは、第1楽章で活躍したhr.が、ここでも登場。ob.soloとなっていて実質、旋律楽器としては、2人のhr.1人のob.で計3人。tiroの由来に当てはまる。短いFinaleは、わずか69小節。前半と後半の繰り返しがあっても、演奏時間はせいぜい2分程度。しかしコンパクトにまとまっている。

2015222日 追記。ゴバーマンを聴取。緩除楽章から始まるのは、No.11とも共通だが、hr.が活躍。しかし弦楽器が中心でhr.はは余り目立たない。FinalePrestoの第2vn.の対旋律も良く聴き取れる。


2017527日 T ファイ No.5 を聴取。初期の交響曲から聞き始めると調がAに変わり4楽章の構成となる。No.14までは、hr.solo(2名なのでsoli)の活躍が入る。この曲の聴き所として、hr.の活躍を記載した。ファイの演奏では、思ったよりhr.は全体的に控えめ。また、自分なりのこの曲のひとつとしてコンチェルトグロッソの雰囲気でNo.68の予兆と記載した。最初に聞き始めたフィッシャー盤で、第2楽章のT32からvn.soloで引いている。この部分を例にあげたが、ファイ盤では、soloではなく通常のvn.パート。このため、コンチェルトグロッソ風の雰囲気は余りない。



No.1,4に、何度もシンコペーションについて記載をしてきた。第2楽章のT9からも登場。この動機は、他の箇所でも登場し、冒頭の跳躍するようなテンポあるリズムの動機と対照的。
 4つの楽章が全てA調のため、楽章ごとの調性の変化は難しい。(このあたりは、hob-No.-22のも共通している)しかしテンポの変化は全て違うので飽きさせない。
 特にfinaleはくりかえしを含めてもわずか65小節でファイの演奏時間でも127.冒頭主題のvn.の対向配置を生かして、第2vn.の対旋律が生きる。Finaleは短いが、中期から後期に匹敵する、無駄を極端に省いたFinaleにより、短い曲でも充実感が一杯。


 

 

2018220日 パトリック・ガロワPatrick Gallois)指揮のシンフォニア・フィンランディア No.5を聴取。今回のCDNo.1から5まで収録されているが、作曲順番で聞いているため3番目にあたる。4楽章形式で初めて。テンポこそ変わるが全てがA調であるため、通して聴くと、少し辛い思いがある。第1楽章はAdagio ma non tropo のゆっくりしたテンポ。6小節目にhr.soliがある。この部分でhr.の実音が低い。恐らく1オクターブ低いのではないかと思った。今までの奏者はここでは、hr.の音がかなり高く目立っていた。ガロワの演奏では、実音が低いので、hr.が目立たないことはないが、落ちついた印象。キーワードの「レガート」にも通ずる雰囲気。この楽章は、全て、実音は低いままで通している。
一方、他の楽章でも、低い実音が続いていると思ったが異なるようだ。第3楽章 Menutet 中間部trioの部分。ob.hr.が活躍する。冒頭の出だしの音程は、第1楽章のT6と同じ。ここでは明らかに高い音。弦の伴奏を伴ってhr.が明るく目立つ。
59
小節しかない短いfinale。対向配置で第2vn.の対旋律が効果的。

 

 2019222日 エルンスト・メルツェンドルファー ウィーン室内管弦楽団 5を聴取。No.11から引き続いて聴取すると、同じ調性が4楽章連続して続く点は共通。第1楽章の冒頭のhr.は右側に並んで位置しそれほど目立たず。
なおCD自体のソフトの影響かもしれないが、第3,4楽章で音飛びが一部あり、旨く再生できない箇所があった。

 2023年1月13日 5番  R グッドマン ハノーヴァバンド Roy Goodman The Hanover band を聴取。No.4から引き続く。1枚のcdで5曲が収録されているので最後の曲となる。作曲順番として必ずしも同じとは限らないが。No.6〜8シリーズの副楽長 就任前よりは確実なので、いずれにしても多少の作曲年代の差はある。しかし大きな変化がないと思う。
 冒頭から緩徐楽章で4つの楽章は全て同じ調性。疾風怒涛期の交響曲など、同じ調性が続く場合、第1楽章は第2楽章の長い序奏の解釈もあると自分なりに提案した。自筆楽譜は恐らく、全ての箇所の繰り返しの指示があった可能性。グッドマンもその指示に基づき、全ての箇所の繰り返しを行っている。このため、第1楽章の演奏時間も 7:12と長く、全体の半分近くを占めている。このため、第2楽章の序奏の様な雰囲気は感じない。
  5曲を通してFinaleは一般に、小節数も繰り返しのない曲もある。この曲は繰り返しがあるが、それでも1:37しかない。すぐに終わってしまう。2つのvn.の掛け合いについて、ふと思いついた。疾風怒涛期の時期などは、vn.はユニゾンの箇所が多いためか、ユニゾンで同じ音程で弾く箇所も多いと思う。しかしこの頃の曲は、2つのvn.のユニゾンの箇所が少なく、同じ音程で弾く箇所も少ない。特にFinaleは、対旋律を伴うためか、再現部の一部で目立たない程度にあるぐらい。 No.102の 第1楽章で2つのvn.の旋律についてレビューをしたことがある。対向配置など2つのvn.はさらに目立つ。初期のころからvn.パートは2つに分ける聴き所をハイドンは既に抑えていたのかもしれない。

No.102のレビュー(O クレンペラー)

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1260.html

Hr.が結構、soliを付け持つ箇所も多い。p ガロワの ように 、hr.の音域を下げて、目立たない演奏もある。(下記のレビュー)

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-884.html

グッドマンの方は、通常の音域のhr.を使用し、そこそこ目立たせている雰囲気。なお、2名のhr.奏者の氏名の記載があった。No.5の第1楽章でhr.がかなり活躍することもあり記載があったと思う。一つ前のCDで No.102の第2楽章でもvc.のsoloの箇所があるクレジットの記載がない。vc.はこの時は、あくまで序奏の役割。録音でもそれほど目立っていなかった。(殆どsoloとしては聞こえにくいぐらい)このためあえて、クレジットの記載は生薬したのかもしれない。
 2023年9月2日 鈴木秀美 OLC No.5を聴取。第20回目 の定期公演で2008年の録音。2曲目はモーツァルトのNo.41が収録。アンコールでNo.47の第2楽章が最後となる。途中に モーツァルトのcl.協奏曲も演奏された。独奏者が他のオケと共演し、同曲のCDが発売されたばかりなので、契約上すぐにリリースできないことがあった。トータルでこのCDの演奏時間がアンコールを含めると63;53。仮にモーツァルトの協奏曲を収録した場合、80分は優に超えることが予測される。このため2枚組になってしまう。たまたま1曲カットされたので、1枚の収録で済んだようだ。
 ライナーノートには今回、指揮者のみの開設。No.5の第1楽章はオペラの序曲の様な旋律の記載がある。No.15に雰囲気が似ている。同じ奏者でNo.15を1曲目に持って来たのと同じ規格がここでも言及。作曲年代は 1761年以前のモルティン時代と推定している。エステルハージに就任前なので、soloの奏者の技量が、余り期待できなかったか。就任前の弦楽器のsoloの箇所は殆どない。しかしもしこの楽団でもsoloの技量を持つ奏者がいたなら、soloの指定で指示をすると感じた。このオケは奏者の数は小編成だが、各パートの動きがよくわかる。しかもvn.は対向配置。T39〜T45の部分。2名のvn.奏者が分かれて、低弦が伴奏に回り音量を落とす部分。
 第1楽章と第3 楽章 Menuetto  Trio の部分でhr.2名のうち、1名はとても高い音がある。ライナーノートにも記載がある。調によって菅を差し替える当時の楽器は、その調に相応しく明るい音色を持っており、全部の菅が合わさった現代の楽器ではその音色が得られないし、通常考えられる現代のhr.の音域からは逸脱しているこのパートが容易になるわけでもない。高い音のhr.についても奏者の苦労は、録音からも分かる。ライナーノートも聴き所を保管するように書いてあるのもありがたい。
 P8に俯瞰した位置からの写真がある。No.78のときも記載したが、菅楽器と弦楽器、打楽器群の配置もよくわかる。No.5は打楽器群がないので、モーツァルトの交響曲の演奏の写真であろう。No.76のときの打楽器群の位置は同じ。trp.の奏者は2名。その内、1名は左手を上着の袖の中に入れている、当時の演奏スタイルと踏襲しているのは面白い。cl.がないので fg.が中央になっている。No.76のときも気になっていたが。初期の交響曲の時は、弦の奏者を減らしていたのか? 低弦の音量に厚みがある。奏者の数は減らしていないと思う。
 低弦に厚みがある録音。初期の交響曲とは言え、各楽章ともに至るところに、スコアを見ると、中期から後期にかけての萌芽のような様式があると思う。FINALEは全て繰り返しても、この演奏でも1:36。スコアでも59小節しかない。No.1のFinaleなどと比較して小節数は短い。しかし短いながらも、無駄な箇所は一切なくコンパクトに書いてある。ライナーノートで楽譜を受け取ったメンバーが「最後のページが抜けている」と勘違いした記述があった。初見に近い状態だったら、確かに抜けていると思うのには笑ってしまう。ライヴの雰囲気が随所に聞き取れる。ブログを聴き始めた当初は、No.5の面白みが余り分からなかった。しかしこの演奏を聴いてみて、初期の交響曲でもちいさな宝石箱の例えのように、随所に面白みが分かる。

 2024年4月15日 ドラティ盤 No.4を聴取。4つの楽章があるが、全体的に短い小節数のため、コンパクトにまとめてある曲の一つ。ドラティの演奏でも15分程度。No.15に類似したオペラの序曲の様な冒頭の雰囲気は共通。管楽器のsoloの箇所が、そこそこあるのでモルツイン時代の曲には思えないような雰囲気。
 一般にドラティの演奏は楷書的なたとえが適するかもしれない。この第3楽章のMenuetは典型的な一つ。ゆったりとしたテンポで軽く流れるような P ガロワなどとは対照的。短いFinaleは、繰り返しを採用しても1:49。展開部と再現部の繰り返しは採用。繰り返しの部分 T37あたりで、中央やや右寄りに、楽器以外の音が少し入っている。演奏している最中に、楽器同士があったか、あるいは何かを落としたような音。ちょうど、アントニーニのライヴ映像のNo.8 Manuet Trioの部分であったような音に類似。しかし違和感は余り感じない。