音楽聴取記録(交響曲の聴取 各曲の聴取記録 通しNo.13 hob-No.11  
2024年8月1日 更新

No 
Hob.
No.
 
通称名   作曲年 調性   楽

 fl  fg trp  cl  timp   cmb ランク    聴きどころ、ポイント
13 11 1760 Es 3 B cantabileは モーツアルトに類似
       1 Es Adagio cantabile
       2 Es Presto
       3 Es Menuettrio
4 Es inalepresto

1楽章での第1主題の歌う様な旋律。第2主題も同じ歌う様な旋律で第2vn.の伴奏。Adagioのテンポ表示でcantabileが付いているか、いないかで楽章の雰囲気が異なる。まさに、このcantabileのおかげだ。まるで モーツァルトのK287 ディベルティメントの緩徐楽章を聴いている様だ。 井上太郎著「ハイドン106の交響曲を聴く」の著書によると、この第1楽章では管楽器はob.が登場してない。hr.のみが使用されている。楽器の使い方でも、cantabileの効果があると思う。
 第2-4楽章は第1楽章と比較すると、やや淡白に聴こえてしまう。全て調性がEsに統一しているので、やや聴き飽きる。
 フィッシャー盤だと、テンポがゆっくりで、全体約20分の中で、第1楽章が、半分を占めている。それに対してドラティ盤は、Adagioのテンポがやや速め。

20191229日追記 タグとして2010123日とする)。
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2010
127日 ディビス盤を聴取。第1楽章のAdagio cantabile は、ドラティ盤と同じ様に、ゆっくり目のテンポを採用。歌うようなこの雰囲気は、ドラティ盤以上にライブ録音も手伝ってか、すばらしい。その後スコアを見ながら再度ディビス盤を聴取。第1楽章はcmb.が適宜、bass旋律以外に装飾音を伴う。あくまでメインは第12vn.のcantabileの旋律が主体ではある。cmb.の装飾はvn.を引き立てる意味で聴き応えになっていると思った。
 それ以外の第2-4楽章は、月並みになってしまう。あらためて3人の演奏を聴き通してみてディビス盤が一番のお勧めとしたい。
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2011
1119日スコアを見ながら再度、演奏を聴取。フィッシャー盤では、前回はスコアを見なかったが、今回はスコアを見ながらの聴取。ディビス盤と比較して、管楽器の音量がドラティ盤ほどではないが、余り目立たないのは前にも記載した通り。hob-No.40番から50番代を聴き通している中で、突如HobNo11を聴くと新鮮味を感じる。
 この第1楽章のCantabileに関しては、謡う様な旋律と雰囲気がぴったりであると改めて感じる。この原因の一つには、フィッシャー盤では、編成の少なさの影響ではないか。当時のエルテルハージ楽団の編成に近いものであろう。逆に大衆を意識した40番代以降だと、この様な緩徐楽章は、既に殆ど書かれない。逆に往年のパリからイギリス向けの多数の聴衆向けに対しては、この様なスタイルの作曲は見られない。
 また楽器編成に関しても、管楽器のob.が全く登場していないので、弦楽器が主体の編成に伴い、Cantabileの表現が引き立つ。(この当たりは、前述の井上著の本からの引用にも記載した通り)大衆向けの分かりやすい曲の面影は微塵もない典型の楽章であると再度、確認をした次第。
  その後ドラティ盤を聴取。第1楽章のCantabileの演奏時間は、約7分。演奏時間だけで比較するのは、早計であるがやはりフィッシャー盤と比較して目立たないのは同様。
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2012
1231日 追記
昨日(20121230日 日曜)名曲の楽しみの最終回を聴取した。その最後の方では、吉田秀和氏が愛していたモーツァルト の中で、若い頃の代表作で デベルティメント KV287 第4楽章の Adagio カラヤン指揮が放送された。このときにハイドン 交響曲でも同じ緩叙楽章の中で、同じ様な雰囲気である点を記載した。この交響曲は、どの曲であったのか、あらためて調べなおした。そうするとNo11の第1楽章であった。奇しくも同じES調。(KV287は第1楽章は、B-durであるが、この楽章はES調のES-dur
 モーツァルトの位置づけは、あくまでディベルティメントの中のひとつなので室内楽か、あるいはもっと少ない編成で演奏されたであろう。それに対してこのNo.11の初期の交響曲での演奏者は、自前のエステルハージ楽団。人数的には前期のモーツァルトのとは、大差はないであろう。この両者の小節数はもちろん異なる。モーツァルトの場合は管楽器は一切、この楽章のみは入っていない。 
 ハイドンのこの楽章は弦楽器が主体でも他の楽器、特に第2vn.から最初に、第1主題が提示されること。他の弦楽器のパートも、それなりに、第1vn.以外にも受け持っている点などは、多少の違いはある。しかし主旋律を引く、第1vn.に対して細かく分散和音風に、ところどころ寄り添うような第2vn.の動き。主旋律が抑揚と強弱のある第1vn.旋律。これらのみを注目しても、このNo.11の第1楽章は、あらためて共通点が多いと思った。

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2013211日 追記。ホグウッド盤を聴取。古楽器のためか、弦の調性による曲の雰囲気が、がらりと変わる。ES調はホグウッド盤では、聴き始めて初めての登場。フラット系の調性では通しNo.9F調、通しNo.10B調に続き3回目。
 ディビス盤では、Cantabileの第1楽章でhr.がライブ録音ということもあって、効果があると思った。一方ホグウッドでは、hr.はディビス盤ほど目立たない音量であるが逆にこれが効果的。すなわちあくまでこの楽章では、hr.は、旋律楽器としてではなく、補強の役割を持つ。やわらかい音色が、ホグウッド盤では理に適っている。もうひとつの管楽器のob.が、全く登場していないので、なおさらhr.の役割が効果的。
 それに対して第2楽章は、調は同じでもテンポが急に速くなり、がらりと変わる雰囲気。ひとつ前の序奏付きのNo.25と似ている。こちらの方は無論、別な楽章であるがob.が初めて登場して、雰囲気の対比はより効果的。
 Menuettiroは弦楽器のみとなる。フィッシャー盤ではsoloとなっているが、ここでは合奏となる。ただ編成が少ないためかsoloに近い雰囲気。しかし短いfinaleは、コンパクトにまとまっていて、中期以降に見られる大掛かりなものとは対照的に楽しめる。
 ただし聴き通してみると、やはり同じES調が続くのはテンポや曲想が変わるとは言え、やや苦しいところ。
 

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2015221日 追記。ゴバーマンを聴取。聴きとおしてみて、No.25をを除くと、ゆっくりとしたテンポが最初に登場する初めての曲。(ゴバーマンはNo.25は録音していない)Adagio cantabile の指定の表記から、モーツァルトのような旋律の美しさが特徴。ただしモーツァルトほど、長い旋律を繰り返して続けないように、微妙に変化していくのがハイドンの特徴ではあるが。第2vn.から登場する冒頭の主題が、第1vn.に引き継がれていく掛け合いがこの演奏では良く分かる。ただし全て繰り返しを省略しているのが残念。
 第2楽章のT104で、第2vn.から主旋律で登場し、対旋律が低い音程で第1vn.に引き継ぐ。この掛け合いも心地よい。
 おりしも、ここまで聴き通してきた中でなぜ楽器、特に第2vn.の右側の位置にこだわっていたのか? この曲を通して初めて契機となったのは、レヴァインの演奏だ。モーツァルトの交響曲全集のレヴァインは、第2vn.が右側に配置している。現在は、セットで販売されているが、発売当初から新譜の度に購入をしていた。レヴァインは、ヴィーンフィルの演奏で録音会場もウィーン、ムジークフェラインザール。(ただしゴバーマンの音色もウィーンのコンツェルトハウスでのセッション録音)
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2018618日 パトリック・ガロワ(Patrick Gallois指揮のシンフォニア・フィンランディア 11を聴取。Adagioのゆっくりしたテンポで冒頭から第2vn.から提示されるのは新鮮。冒頭から第1vn.以外のパートから開始する例は、少しずつあるが、初期の頃には珍しい。ここでも右側の位置にあるのが効果的。
 Finale Prestoでは、シンコペーションのリズムが効果的。ここでの冒頭の主題よりもT3からの短い動機も重要。T32で二つのvn.パートが、掛け合う部分が印象的。ガロワの演奏でFinaleの演奏は繰り返しを全て含めても僅か315しかない。冒頭のAdagioのゆっくりしたテンポとは対照的に、速いテンポで一揆に終わるのはNo.25にも少し類似している。(No.25は長い序奏があるので少し異なるが) モダン楽器ではあるが小編成で分離感のよい録音が効果的。





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 2019221日 エルンスト・メルツェンドルファー ウィーン室内管弦楽団 11番を聴取。すべてES-durの同じ調性であるのは、続けて聞くと苦しいところ。No.22にも少し共通している。第1楽章は管楽器はhr.のみ。第2vn.から主題が提示されることもあり、この曲は弦楽器で特に第2vn.の存在が大きく、対向配置の効果が大きいと思う曲。
 ob.が入らないのでNo.25のときと異なりTuitiiで違和感はない。hr.はあくまで伴奏に徹している。第2楽章もob.は控えめで通常通り。 Finaleはシンコペーションのリズムが印象的。下記の P ガロワ のブログにも、メルツェンドルファー の方も良好。シンコペーションの手法は、交響曲にすべて共通することではある。

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-937.html


この曲に関しては、ひとつ前の第3楽章 Menuet trio の部分で、既にシンコペーションのリズムが登場している。Finaleへの予兆のような雰囲気。 ob.の目立つ録音は全くない。バランスなどは良い。ただし緩叙楽章を中心にテープヒス音のようなものが時折ある。


2022年6月15日 Johanees klumpp  Heidelberger sinfoniker 11番 を聴取。No.11は、冒頭からの緩徐楽章のテンポと、管楽器ではob.しか登場しないこと。これにともない、柔らかい雰囲気が特徴となり、モーツァルト ディベルティメント K287 の第4楽章にも類似していることを、過去の自分のレビューにも記載をしてきた。このCDの1曲目 No.107は、速いテンポで快活に終始する。これに引き続き聴取をすると、冒頭の第2vn.のゆっくりと謡うような開始とは対照的。No.107と同様にvn.の対向配置を生かしている。
 従来、第1楽章が終わった後、同じ調性が第1楽章に続き残りの3楽章も同様となる。第2~4楽章の構成も一般的なこともあいまって全曲を通すと、やや散漫な印象も書いた。第2~4楽章は、このため自分なりに余り特徴もないと思っていた。第1楽章が終わると、やや退屈気味に聴取をしていたこともあった。しかし第3楽章 Menuet のTrio とFinale の冒頭の主題に、共通した動機があると記載をした。(下記のブログ)

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1088.html

 確かにTrio はシンコペーションによる共通した動機があると思う。しかしそれに加えて、第3楽章でも Menuet  の 主部とTrio の主題も、3連符を中心とした共通動機のようにも思える。この交響曲だけとは限らないが、各楽章間に共通した動機が採用されていると感じる。 楽章間だけではなく、他の交響曲とも共通した箇所も多いと思う。
第2楽章の冒頭の主題など、No.25の第1楽章にも似ている雰囲気。 この演奏では、ゆったりしたテンポと後半の快活なテンポが対照的な印象が一番に感じた。
 2023年9月13日 11番 R グッドマン ハノーヴァバンド Roy Goodman The Hanover band を聴取。No.10から引き続く。教会ソナタ型式で緩徐楽章から始まる。全て同じ調性。通して聴くと、聴取記録を聴き始めた頃は、ややつらい面があると記載した。しかしその後、第3楽章の Menuetto 主部とTrioの関係性。No.1から頻繁に登場するシンコペーションの動機などが随所に登場など。
 第3楽章の Menuetto で回帰してくる部分は繰り返しを忠実に採用。演奏時間は4’35になる。Trioで登場した一部の動機が、再度、 Menuetto の主部にも登場する。前半と同じように、繰り返しがあるので、 Menuetto とtrioの関連性をさらに意識させる雰囲気。通して聴くと、やはり第1楽章の緩徐楽章の部分。No.10でも記載したが、第1,2vn.の掛け合いが分担しながらも、ユニゾンの箇所もある。音量の変化をNo.10と同様に上手く、作曲されている。やや遅いテンポとも相まって、グッドマンの特徴をよく表していると思った。No.10は弦楽器のみ。それに対してNo.11の第1楽章はhr.が入る。和声的な補強の役割を持つようなhr.も効果的。
 2024年7月31日 ドラティ盤 No.11を聴取

第1楽章が緩徐楽章でその後も4つの楽章が続けてあるのは、やや苦しい所もある。No.22なども同様な作風。以前はこのあたりについて、やや苦しい所も感じると記載をしてきた。しかしレビューを重ねていくにつれて、No.22にも記載をしたが、緩徐楽章を速いテンポの長い導入部を考えれば、それほど違和感がない。No.10にも記載をしたが、第1楽章の展開部と再現部の繰り返しがない。全ての繰り返しを採用するのも難しいところ。しかし第1楽章に関しては、序奏の様な意味もあると思うので、繰り返しがないのは、私としては受け入れる。
 ハイドンはシンコペーションの動機をしばしば、No.1の頃の最初期から、ザロモンセットの後期の交響曲まで随所に使用している。また、同じ交響曲の中でも各楽章に散りばめるように使用している。 J クランプのレビューでもシンコペーションの動機について、随所にあることを記載した。

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1891.html

この曲を一騎に聴き通して聴取した場合。第1楽章を除けば、テンポが速く各小節数もそれほど長くないので、余り各楽章の間にあるシンコペーションの動機が分かり難いかもしれない。上記のレビューではFinaleの冒頭のみを引用した。再度、聴き直してみると、第4楽章の冒頭の動機は、第1主題ということもあり終始、一貫して登場する。ドラティは交響曲としての全集を目指して録音をしているためか、統一した解釈がやはりあるようだ。
端的に表現すると、良い意味で「楷書的」 やや悪い意味かもしれないが「教科書的」 2つの面があると思が、初めて全集を完結した先駆者でもある。その点からも私には、「教科書的」な表現でも、ある意味、良い特徴の一つだと思う。先駆者がないと、追随する他の指揮者、演奏家は、模範がいないための、自らが先駆者の役割を持つからだ。