音楽聴取記録(交響曲の聴取 各曲の聴取記録 通しNo.100 hob-No.98
2024年11月19日 更新

No 
Hob.
No.
 
通称名   作曲年 調性   楽

 fl  fg trp  cl  timp   cmb ランク    聴きどころ、ポイント
100 98 1792 B 4 -  -  - - (1) A 曲の構成が長いながらも充実し、soloを含む強弱、音色の対比がすばらしく、視覚効果の高い曲。
       1 B AdagioーAlleglo
       2 F Adagio
       3 B Menuet & trio Allegretto
4 B Finale:Presto 
今まで通して聴いてきた中で演奏時間が、一番長い曲。フィッシャー盤では、No.96-98の3曲が1枚のCDで収録されているが、トータルタイムが79:14になっている。3曲セットでも一番長いCDになっている。
 序奏は、No.90でも取り入れた実績がある主題からの引用。短い小節数であるが、同じ主題でもテンポと調性が全く異なる。短い序奏でありながら、この後に続く提示部と、とても印象深く対比。フィッシャー盤では、提示部のテンポが比較的速いが、キビキビとして気持ちが良い。曲全体の長さは今までにない一番の長さで、この第①楽章ひとつをとってみても、かなり長い。提示部はもちろんであるが、展開部が今までにない長さで、変化に富んでいる。通称名はないが、ひとつ前のの97と同様に、曲の長さも長いが、構成も全体的に、どの楽章をとっても充実している。カノン風の掛け合いが今まで以上に多く、転調も目まぐるしい。
 一点してAdagioは、ソナタ形式と変奏曲が混合したような構成。第1楽章のスケールの大きな演奏とは異なるが、逆にvc.のsoloが後半に入るなど、これまた興味が尽きない。Menuetは、主題は明るい雰囲気。一方trioは、明確な対比がある。フィッシャー盤では、ここでも各弦がsoloで引いているが、音色と音の強弱の対比があって良い。
 Prestoはvn.の独奏は元より、codaの部分は、珍しくcemb.の独奏が入る。演奏時間が長く、後半に進むに従い、曲想とテンポ、楽器などが、かなり変わり、大掛かりな構成となっている。フィッシャー盤では、中間のvn.のsolo以外に各弦のsoloを伴う。Prestoの表示であるが、ややゆっくりとしたテンポで採用。
 演奏会でこの曲を取り上げたら、最後の部分に、持ってくるにもふさわしい。cemb.を含むsoloの扱いが所々ではあるが、全曲を通してある点も大きなポイント。実際に演奏会での演奏を見たい交響曲のひとつ。
 もしハイドンの交響曲の全曲演奏会が、どこかで開催されたら、どの様な、曲の順番になるのか? 以前、トンコープマン指揮のモーツァルトの交響曲の全曲演奏会のシリーズがFM放送であった。このときも、どの様な曲順でのプログラムなのか、興味をもった。私なりに、選曲をすると、最後を締めくくるのに、ふさわしいひとつがこの交響曲であると思う。 モーツアルトの死を知った後に、この交響曲が作曲をされたらしい。 モーツァルトとの旋律的は関連はないと思う。しかしAdagioの透明な美しさやMenuetの元気で明るい雰囲気は、 モーツァルトを称えるには、ふさわしいと思う。

(2020年1月13日追記 タグとして2010年3月9日とする)
 2011年1月8日 FM放送 吉田秀和 ハイドンその生涯と音楽 を聴取。
聴取に先立ち、交響曲の紹介がある。初めてクラリネットを採用したこと。Menuetではよりスケルツオに近くなる点。Finaleでは、第1楽章の共通点など指摘。クイッケン・ラ・プティ・バンドの古楽器による演奏を聴取。古楽器による音色で、やや低い音とEsの調性とも合いまって、ややくすんだ音色に終始する。
 緩徐楽章で、管楽器の音色に、かなり特徴がある。弦の音色に対して、特にfl.の軽い音色が、現代楽器とは、大きく異なる雰囲気。主題のテンポがやや速めに加えて、終始がスタッカート風に切れ味良くなっている。この切れ味の良さとfl.の古楽器の音色とが、とても旨くかみ合っている。第2、第3楽章は、弦の音色を押さえてユニゾンを含めたスタイルを重視

(タグとして2011年1月8日とする)
2012年1月11日 ショルティ盤を聴取。
 イギリスで作曲された交響曲では、殆どcmb.が採用されないことが多い。このショルティの演奏では、最初からcmb.が入っている。その役割は目立たないが、第1楽章から主要なパートを、目立たないながらも支えている。低弦の旋律と同じではない点は、注目。cmb.の位置は、中央右の奥側。テンポは、No.97と同様に、序奏はゆっくり目なものの、その後主部に入ると、駆け抜けるテンポ。
 第2楽章に入ると、cmb.は控えめ。Menuetは、落ち着いた雰囲気。trioではfg.のsoloなどが聴き所である、スコアを見ても、ユニゾンで、vn.とfg。は1オクターブ低い音で終始。どの指揮者もfg.のsoloの指定を忠実に守り、低いfg.の音を引き立てる。
 ユニゾンの効果は、Finaleにも引き続く、管楽器と弦楽器の音の強弱の効果を考えたユニゾンは、管楽器とvn.を中心とした対比が至るところにある。cmb.は特に、第4楽章からかなり、はっきりと役割を持つ。楽器としての扱い方が、さらに目立ってくる。第1楽章と違って、Finaleでは最初からややテンポを落としている。codaでは、さらにテンポを落とし、cmb.を引き立てるために、soloでは、一番の発揮をする。最初から、codaに向かって、このcmb.の意識しての演奏と思う。Finaleではイギリス招聘者のザロモン vn.奏者のsoloをも意識しての作曲を意識。最後のcmb.を意識しての演奏。視覚効果が高い効果には変わりない。

2015年12月31日 Georg Solti London盤 の No.98を聴取。[追記)今までのNo.93~97と異なり、冒頭からCmb.が入っている。Cmb.は、中央、やや右よりの近めに位置。bass。の旋律だけでなく、独自の旋律でも適宜登場、序奏のテンポはNo.97と同様に通常だが、主部に入ると、かなり速いテンポ。
Finaleに入ると、今までの3楽章以上にcmb.がかなり目立つ雰囲気。録音にもよるか、あるいは、聴取者の意識の問題かもしれないが。CodaのT327 piu modeate のテンポからは、最後まで、今テンポを維持してcmb.が登場する。高音域を含むcmb.のsoloを丁寧に締めくくる意識かもしれない。
バースタインと違って、現代オケの割りには、重厚を特徴とせず、自然なバランス。Soloの扱いも適宜あり。No.97~98当たりが、soloとTuttiのバランスも良いと思った。
(その1)2012年1月23日 印刷したスコアがそのままずっと放置されていたので、デイビス盤を聴取。中期の交響曲から、一気に飛ぶが。初期の交響曲からずっと聴き続けてきたが、テンポの扱い方は同じ。すなわち、第1楽章では、序奏からAdagioのテンポを忠実に守る。cmb.は最初から入っていて、bass.のパートを忠実に守っている様だ。
 主部のAllegroに入ると、ゆっくり目のテンポ。前回聴取した、ショルティ盤との対比は著しい。テンポがゆっくりなので、逆に各パートがスコアで聴き取りやすい。中期以降は、vc.とbass.の分離は、特徴の一つであるが。それ以外にも、va.のパートも一部ではあるが、僅かではあるが分離あり。この当たりはショルティ盤と違って、余裕を持って、チェックをしやすい。
(その2)管楽器と弦楽器との間のユニゾンの効果は、ハイドンの特徴である。第2楽章では、主旋律を受け持つ、vn.以外にob.やfl.とのやり取りが聴き所。特に、fl.が顕著。 fl.soloの箇所が多いが。この演奏では、元々管楽器のを目立たせることもあって、弦楽器は他の楽章以上に、控えめにしている。また、再現部の冒頭で、vc.のsoloがあるが、この部分では、フィッシャーと同様に、他の弦楽器のパートもsoloに徹している。
(その3)管楽器と弦楽器のユニゾンの効果は、さらに第3楽章にも引き継がれる。fl.奏者は一人であるが、ここでは、soloの箇所が多い。さらに、trioではfg.が活躍。ユニゾンの箇所が多いながらも、管楽器奏者は、胸を張って演奏をしたのではないか。特にtrioの終わりの部分で、4オクターブの差があるfl.とbass.は今までにも、なかった手法だと思う。
(その4)Finaleのテンポは、第1楽章から第3楽章までと同じように、中庸。今まで、繰り返しを忠実に守っているが、提示部では珍しく、繰り返しはなし。圧巻は、展開部の冒頭。招聘者のザロモンのvn.パートの部分で、cmb.のsoloの独自の旋律がある。初期の交響曲でも、ディビス盤では、一部の交響曲では、cmb.が独自の動きがあったが、ここでも再現。第1~3楽章までは、cmb.の独自ンおsoloは少なかったが、codaに向けての予兆を示している。そして、」Finaleは。他の演奏家と同様にcmb.のsoloで締めくくる。最初に掲載したフィッシャー盤での視覚効果の高さは、以前にも記載した。管楽器の旋律も、実際に聴取しながら聴きたい。このデイビス盤に関しても、視覚効果の高さは改めて、変わりがないと思った。
 2012年11月1日 最近、バーンスタイン盤、ニューヨークフィルのCDを入手。録音は1975年となっている。第1楽章のAdagioから、やや遅めのテンポであったが、主部に入ってからも、今まで聴いてきた中ではもっとも遅いテンポ。Allegloとは思えないゆっくりとしたテンポ。vn.の装飾音など一部も相まって、独特な雰囲気。このバースタインの録音は、全てをまだ聴いてはいない。ダイナミックレンジは当時としては、標準かもしれない。各パートが思ったより、細かく聴き取れる。
もし、K.ベームの演奏があったら、テンポのみに関しては、これぐらいにゆっくりとした雰囲気に該当したかもしれない。しかし雰囲気は、ベームとは程遠い。濃厚な雰囲気は、元々バースタインの特異とする所であろう。第2楽章の再現部で、vc.がsoloで対旋律を引く部分がある。このところでは、いかにもバースタインという感じ。他の楽章もやはりゆっくり目のテンポ。トータルタイムでも優に、30分を軽く越え、テンポがゆっくりであることが、改めて分る。
各楽器の扱い方は、vn.の第1楽章の部分にも触れたが、Finaleのob.の部分も面白い。スッタカートで登場する所など。録音がエコーがやや多すぎて、ステレオ感がやや聞こえにくく(特にfinale)、ダイナミックレンジとは違って、聞く箇所によっては、違和感が少しある。


2015年1月10日 2015年1月11日 G.ヘルヴィッヒを聴取。テンポに関しては、ショルティ盤に類似、。主部にはいると、駆け抜ける速さ。Finaleは展開部に入って、solo vn.のためか、ゆっくり目のテンポで変化をつける。codaに入ってからも、ゆっくりめが続く。cmb.は、最後の部分のみ登場。
2015年5月2日 ゴバーマン盤を聴取。聞き違いかもしれないが、第1楽章は微妙にテンポを動かしているように思える。視覚効果の高い曲だと記載した。No.97と同様に、solon箇所が多いが、ゴバーマンの演奏は、soloの箇所が目立たず、視覚効果は、やや少なめか。Finaleのcmb.は、右側でかなり近めに位置。
 この曲でゴバーマンの演奏は終了。全曲を通しての感想。最初期のNo.6から8までの曲に関しては、第2vn.の右側に位置し、弦楽器の細かい厚みとパートの繊細さが際立っていないと思っていた。しかし 通しNo.26 hob-No.-40 第1楽章の 微妙な細かい旋律と変化が堪能できる。この頃から各パートの特徴を活かしている。No.23などは、当初は、自分なりに低いランクとしていた。しかし、このゴバーマンの演奏であらためて別な面白さを発見。
  一方、緩除楽章の 弦を主体とした繊細なニュアンスは、No.55の第2楽章に象徴される。ここでは、solo 管のsoloが主体でなく、対旋律を含めた各パートが良く分かる。Tuttiの箇所では、No.50番代頃に特徴がある。たとえば、No.56の第1,4楽章などは、各パートの独自の動きが少ない。その分、Tuttiで、2つのvn.パートが左右、一杯に広がる臨場感を旨く捉えている。
 ただ、録音によるのか、一部、音にムラがあるのが、残念。ゴバーマンは、全曲を録音していない。ドラティよりも前の時代に、全曲録音に着手を開始した。もし、全曲を録音していたら、ドラティ盤とも対比されて、聴取者も色々楽しむことができると思った。
2015年8月12日 C.デイビス ACO No.98を聴取。C,デイビス盤は、遅めのテンポ意外に、取り立てて、一度、聴いただけでは、コメントが書きにくい。これが特徴でもあるかもしれないが。Finaleに向かっていくに従って、No.97と同様に、最後に向かっての盛り上がりが特徴かも。Finaleは、提示部T64の第2主題が提示されるも、常に他のパートでは、8分音符の主題を核とした伴奏が付きまとう。
再現部では、この部分もさらに短くなり、codaに向かう。単一主題でありながらも、スッタカートやスラーなどの微妙な変化がある。最後のチェンバロのsoloは、左側の奥の方に位置。Finaleまでは、金管楽器が目立たなかったが、最後は、活躍して締めくくる。
2015年11月2日  ノリントン ロンドンセット ライブ盤 No.98を聴取。No.97から引き続いて聴取すると、両者の共通点と対比が良く分かる。こちらの方は、第1楽章の弦でのノンレガート、スタッカート、スラーの対比が、No.97以上に良く分かる。序奏の部分は短調で、強弱の起伏が大きいスタッカート。しかも弦のTuttiで。テンポがAdagio。T16からの主題は、同じ旋律でスラーを伴う長調で柔らかく登場。この対比が絶妙。
 ソナタ形式のFinaleは、前半は繰り返しがある。最初の繰り返す時点でスコアでは、フェルマータの指示がある。通常の演奏では、このフェルマータを余り考慮せず、最初に、すぐに戻る。ところがノリントンでは、このフェルマータを重視しているのか、かなり間を置いて、最初に戻る。一瞬、演奏が大きく中断してしまい戸惑いあるいは、聴衆の意図を変えるような趣旨かもしれない。CodaのT353 第1vn.の8分音符を僅か1章節であるが忠実のノンレガートでとしている分、直後のT354の16分音符との対比が心地よい。T365のCmb.のsoloはそれほど目立たく、中央に位置する。
 2016年8月11日 ブリュッヘンOrchestra of The Age of Enlightenment  No98を聴取。FinaleT328からの長いCodaの最初のModeratoの指定の部分。ここでは、Moderatoの指定よりもかなり遅いテンポを採用。T365からのチェンバロが登場する部分も同じようなテンポ。その後、Finale冒頭のテンポよりも速めて終わるのて、テンポの味付けが興味深い。
2016年10月17日 E ヨッフム ロンドンフィルハーモニー管弦楽団 No.98聴取。ノリントンほどの速いテンポではないが、今まで聴いてきた中では速いほう。ノリントンのノンレガートでスターとスッタカートの対比の面白さに刷り込まれているためか、印象が少ない。
 第2楽章からcmb.が入り中央右側に位置。Finaleの展開部当たりから、cmb.が次第に音色を上げて登場。Codaの部分では、cmb.は思ったより目立たず。
2016年12月19日 C デイビス 新盤 No.98を聴取。新盤の5曲目になる。冒頭の出だしのアンサンブルは少し足並みがあっていない雰囲気。しかしその後は通常通り。No.100と同じ様に、この曲は視覚効果が高い曲だと自分なりに評価をしている。すなわち、第4楽章のcodaに向けて、チェンバロが登場するが、どこで活躍するのか? 
 初演当時、ロンドン ハノーバースクエアーで演奏されたときも、チェンバロが登壇していたと思うが、どの場所で演奏されたのか? ネットで調べてみると、下記のサイトに、室面積と残響時間が記載されている。

http://www.nagata.co.jp/news/news9408.htm

当時の版画や挿絵からして、座席数が800人とあるので、恐らく立ち席客が大半であろう。余り広くない舞台に、チェンバロが位置し、観客がいつsoloで登場するのかドキドキしていたに違いない。第1楽章のチェンバロは、主にbassパートを影の様に演奏する。しかし、第2楽章から、デイビスの演奏では、bassパートに準じながらも微妙な装飾を加えている。
 そして最後の第4楽章。ライブ録音のためか提示部の繰り返しがない。余り目立たなかった金管とtimp.もcodaに従って爆発。最後のチェンバロのsoloの部分は、第1vn.がsoloで寄り添うように演奏し締めくくりに向かって、やさしく演奏。最後の炸裂する締めくくりと見事に対比。新盤で5曲を通して聴いてきた中で、一番の聴き応えがある印象。
2017年8月7日 N. アーノンクール  Royal Concertgebouw  Orchestra No.98を聴取。Finaleの最後の方でcmb.のsoloが登場することもあり、視覚効果が高い曲のひとつとして記載をしてきた。第1楽章の冒頭の序奏では、微妙にテンポを変えている。
ヨッフムの演奏などは、第2楽章当たりからcmb.が入るが、アーノンクールでは、codaの部分のみ登場。T328当たりからのModeratoのテンポは、忠実に守り、趣旨最後まで続く。一般に終わる直前は、テンポを少しあげて終わるが、アーノンクールは終始同じテンポ。第1楽章の冒頭の序奏では、テンポを微妙に変えていたのと対照的。
20181月10日  T ビーチャム ロイヤルフィルハーモニー管弦楽団 No.98を聴取。1957-58年のモノラル録音。Finalecodaの部分。T328からのPiu Moderateから次第にテンポが変わっていく箇所。T335からTittuiでからは恐ろしいほどの速いテンポ。通常は、cmb.soloがはいる箇所。ここでは、cmb.が入らず、vnsoloパートでひいているようだ。
2018年7月19日 98番 トン・コープマン アムステルダム・バロック管弦楽団を聴取。No.98からの聴取となるが調性はBとなり、古楽器とも相まって、冒頭から音色の変化が激しい。冒頭の序奏で、T2の部分で2つのvn.パートが重音に分かれる。この部分でも、重音が良く分かる。
No.97と同様に第1楽章のcodaに向けて、tinp.が独自に迫力ある動きは期待通り。
第2楽章は、No.97と比較して管楽器のsoloの箇所が少なく、弦と管楽器との対比が余りないような印象ではある。しかし、逆に、弦楽器と管楽器のユニゾンの箇所が随所にある。ユニゾンでの音色の変化が楽しめる。再現部の後半 T49からのvc.のsoloも、音量を落として柔らかい雰囲気。
 
 第3楽章Menuetは、No.97と同様に、テンポはやや速め。しかし、強弱の対比がこちらは少ないためか、スケルツオ風には聴こえ難い。(No.97とは対照的)
 Finaleは、井上著で「この386小節も及びぶfinaleについて、ランドンは『これまでのハイドンの中で、最大規模で、またもっとも複雑、あいまいな交響曲的フィナーレ』といっている」の記述がある。確かに、Codaの部分だけ僅か12小節に過ぎないが、cmb.の独奏が入り、不思議な雰囲気。指揮者によっては、第1楽章から随時cmb.が入ったり、Finaleの最初から入るケースもある。コープマンの場合は、この12小節のみの演奏。Finaleの冒頭から同じ動機に聞こえるかもしれない。しかしよくよくスコアを見てみると、僅か1小節の動機の中に、既にスラーとスタッカートとが混在。この動機が、スラーが増えたり、スタッカートが増えたりで自在に変化。

T64から第2主題と思う新しい主題が第1vn.とob.のユニゾンで登場する部分。ここでも第2vn.とva.は、冒頭の主題の動機が、常にあり、せわしい雰囲気で逆に統一感がある。(ハイドンの中後期からの交響曲では、2つの主題が同じ動機で構成されるケースは、かなり多い典型)
 CodaでT29からのTuittiの部分。この後に続くT298からはvn.はNo.97と98は、第1期ザロモンセットの中で通称名がなく、どちらか言えば地味な存在。2曲を同じ演奏で聴き通してみて、両者のそれぞれに曲の特徴がある。特に、No.97の第2楽章の木管楽器と弦楽器に音色の対比が一番、印象に残った。No.83-85も同じ解釈であると思うが、この2曲の方が、録音も良いのか音色の対比が良く分かる。soloで引いているようだ。

No.97と98は、第1期ザロモンセットの中で通称名がなく、どちらか言えば地味な存在。2曲を同じ演奏で聴き通してみて、両者のそれぞれに曲の特徴がある。特に、No.97の第2楽章の木管楽器と弦楽器に音色の対比が一番、印象に残った。No.83-85も同じ解釈であると思うが、この2曲の方が、録音も良いのか音色の対比が良く分かる。
 201891日 クイケン ラ・プティト・バンドのNo.98を聴取。冒頭から緩叙楽章を除きcmb.が入っている。Finaleの冒頭からも同様。Codaの部分では、今までやや中央より奥だったcmb.とは異なり、近い部分で登場。意図的に、前に聴こえるように強調したのは、録音による方法か? あるいは、、あええ、cmb.を2台Finaleに、奥と手前に分けて配置したのかは不明。しかし聴き通してみて違和感はない。
2018年9月15日 レナード・スラットキン フィルハーモニア管弦楽団 No.98を聴取。中庸に近いテンポで、要所は soloやユニゾンの楽しさを随所に生かしているのは、No.93から聴取して来たのと同じ。
 第3楽章のMenuetでTrioの部分。スラットキンだけとは限らないが、Trioの前半8小節の部分。繰り返しの指定があり、fg.とのユニゾンがある。最初はユニゾンで第1vn.とfg.がオクターブで対等に渡り合う。繰り返しでは少し音量を落とし、fg.を引き立てている。この解釈は、色々あると思うが。私なりには、初演あるいは、聴取する機会が余りな当時の、聴衆に対して。いきなりfg.とのユニゾンが登場しても、第1vn.ばかりが目立ってしまう。同じ旋律を繰り返すことで、「この8小節ではfg.もちゃんといます」と言う様な解釈だと思う。
 ソナタ形式のFinaleは、4分音符の動機が様々に変化しながらsolo vn.も含めて随所に活躍する。提示部の繰り返しがあり、全体的にも、cmb.を含む長いcodaがあるので、得てして、まとまりが難しい。端正な演奏が特徴にひとつだと思うこの演奏なら、余りこの曲を聴く機会がない人にも、流れが分かりやすいと思った。
 なお、codaの部分で入るcmb.はFinaleの冒頭からは登場せず、T365からの部分のみ。また、cmb.以外にvn.パートはsoloになっている様だ。初演のとき、ハイドンはcmb.を担当し、vn.のsoloは招聘元でプロモーターのザロモンが受け持っていたらしい。このホールで当時、演奏したハイドン。cmb.奏者のハイドンは曲の最初から登場したのか? あるいはFinaleの冒頭からか? Codaに入って 少し中断して、登場したのか? 興味があるところだ。この当たりについては、以前、C デイビス 新盤でホールについて、少し触れた。(下記のブログ)

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-646.html


かなり以前のことだが、マーラー交響曲No.4をステージでの生演奏を見たことがある。Finaleの冒頭から登場するメゾソプラノ歌手は、ひとつ前の第3楽章のcodaの近くで、盛り上がる箇所のところで、突然、舞台の袖から出てきた。Finaleの途中の展開部当たりで、tuittiで全てのパートが鳴り響く中だった。
一方、初演当時のハノーバースクエアーズのホールの舞台は狭いようなので、舞台の袖から中央?にあるcmb.へ座るのは、演奏途中では難しかったかもしれない。いずれにしても、この曲を締めくくるにあたりcmb.の部分で、vn.をsolにしているのは、コンサートの主人公2人が演じることで、理にかなっていると思った。
2018年 10月13日 98番 レイモン・レッパード The Scottish Chamber Orchesta を聴取。モダン楽器で奏者が少なめとNo.94にも記載した。この曲でも同様。Finaleの最初の方で、T8からのob.が入ってくる部分。ここでも弦は控えめでob.の方を引き立てている。4分音符が大半を常に支配している中、時にはスラーで柔らかい箇所がある。T66で新たな主題が登場するが、ここでは第1vn.とob.がユニゾンで受け持っている。それに対して、第2vn.とva.は8分音符で第1主題の類似した動機が、せわしく受け持っている。この伴奏部分をどの様に演奏するのかが、興味深いところ。レッパードの演奏は、第2主題のスラーの旋律が伴っていることもあり、第2vn.,va.も柔らかく、控えめに引いている。
Codaに近いT327からのPiu Moderatoの部分。ここでは第1vn.はsoloで引いている。T365のcmb.のsoloが入る部分も、第1vn.はsoloで引いている。指揮者によっては、この第1vn.がsoloでないことも多いが。Soloのためcmb.が埋もれることがない。
  なお、この曲は自筆が存在していた。名曲解説全集では、ベートーベンが所有していたと書いてある。どの様な経緯で入手したのか興味がある。この解説書ではその後、第2次世界大戦で疎開中に行方不明になったとある。
cbm.のパートは、印刷では最後の部分のみになっている。指揮者によっては、第1楽章やfinaleの冒頭から入るときもある。自筆楽譜ではどの様に記載があったのか? パリセット パリ国立図書館の自筆楽譜は10段の五線譜で書かれていた。もし10段の五線譜だと、cmb.の部分が足りなくなってしまう。もっと数が多い五線譜で書いたのか? あるいはcodaの部分だけ、別ページだけ追加したのか? もし自筆楽譜があれば見たいものだ。
2019年5月23 日 エルンスト・メルツェンドルファー ウィーン室内管弦楽団 98
を聴取。録音のダイナミックレンジが低く、各パートの音の分離感が不十分。第2楽章のvn.  Solo も極端に前に出すぎて違和感がある。Finaleのcmb.は最後のみ左側に登場。こちらも極端にアップし過ぎて不自然。全体的に印象が少ない。
2019年11月5日 98番 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団を聴取。No.88から引き続く。録音データによるとこちらは1961年。少し前になる。同じ録音会場だが、 Prooducer とBarance Engineerは異なるようだ。録音レベルはこちらはNo.88と比較して少し下がっている。
 第2楽章の終わりの方の部分。T72でいったん半終始し、vc.のsoloになる部分。この後の部分でもともとの管楽器んそsoloの箇所に加えて、2つのvn.はsoloになっているようだ。
 Finaleのcmb.も、ぎりぎりで登場。この部分も弦楽器はsoloになっている。全体的にNo.88と同様に、弦の厚みは多少あるがレンジが狭いのは残念。
Welser-Möst  ウイーンフィル No.98

2021年6月8日 Welser-Möst  ウイーンフィル No.98を聴取。No.103から引き続く。この録音のみ 録音会場がLuzerun になっている。スイスのLucerne 音楽祭は有名だが、ライナーノートにはこの音楽祭の紹介記事が書かれている。この曲以外のほかの プログラムは記載がない。アーノンクールと同様に、他の曲の紹介があれば、プログラムの流れがわかり(前半なのかあるいは後半のメインプログラムなのか?)によって、聞き方も意識が変わってくる。
 Finaleの最後の方でcmb.のsoloがはいるが、指揮者によってどのタイミングでcmb.をいれるのかは、いろいろと差があって興味深い。このホールの舞台はかなり大きい。cmb.は中央よりやや右側の少し奥の方。冒頭からわずかではあるが、cmb.が入っている。第2楽章になると、装飾音を生かして、かなり大きく入ってくる。Finaleに向けて、cmb.の音量をどの程度まで、あげていくのか? Finaleはソナタ形式になっている。提示部の繰り返しの後半は前半と比較して、少しcmb.の音量を上げている雰囲気。
 Cmb.以外にvn.とvc.のsoloも入る。第2楽章のT73の部分。(下記のブログに譜面あり)

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1258.html

この箇所で、O クレンペラーの場合、vn.はsoloの記載を記述した。この演奏では、2つのvn.パートはsoloではない。しかしsoloのvc.とのバランスは自然。

 こちらの録音は、残響がこれまでの曲と比べて、やや少なく聞きやすい。音源自体の低位感は、割合にわかりやすい。しかし距離感がある録音のようで、直接音はやや少ない。 会場となった録音会場をネットで検索してみたところ、下記のブログ(ノンノンのブログ アーカイブ 2021~2021年)にホールの写真が掲載されていた。

https://akira-nonaka.blog.ss-blog.jp/2013-09-07-1

 この記事によるとホールの天井はかなり高いが、音響自体はよい記載がある。ただしステージから近い位置だと、奏者の顔が見えないらしい。ライヴ録音のこの演奏は、うまく収録はされていると思う。

2023年6月5日 98番  C アバド ヨーロッパ室内管弦楽団を聴取。下記のブログであっさりしたフレージングできびきびしている印象の記述あり。

https://haydnrecarchive.blog.fc2.com/blog-entry-21.html

確かにこの印象を私にも感じる。微妙なテンポの変化に関しては、同様だが、このキビキビ
しているフレージングについて今回は記載したい。Tuittiでの音量が大きい箇所では、得てして弦楽器の細かい音符までは聞き取り難い。T71とT73のvn.の4分音符が低弦や管楽器などに埋もれてしまい聞きにくいことが多い。しかしながらアバドの演奏では、明白に聞き取れる。vn.は通常配置であるが、その分、2つのvn.が左側にまとまって位置している効果的。Finaleのcmb.は、スコアの指示通り、codaの箇所のみ入っている。

 前のレビューにもこの自筆楽譜について記載した。

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1019.html


自筆楽譜は、生前は作曲者が手元に保管していたと思うので没後、何らかのルートでベートーベンに渡ったと思う。名曲解説全集の記載によると、自筆楽譜の冒頭のページ破れ去られていたと記載されていた。ベートーベンは生前から何度も引っ越しが多く、引っ越しの際にも、この表紙が破れてしまったのかも。初演の時は、ハイドン自身がこのcmb.のパートを引いたと記載があった。指揮者によっては、Finaleあたりから通奏低音のようにcmb.が入ることもある。
自筆楽譜の原本手元にない。しかしヨーゼフ エルスラー の筆写譜でハイドン自身による書き込みの記述がある。スコアに関しては、かなり正確なデータが残っている可能性がある。ランドン版のスコアでは、codaの部分しかcmb.が入っていない。恐らくハイドン自身の自筆楽譜でcodaのみの記述だったのではないか。
 ロンドンの初演会場の ハノーヴァスクエア(今は解体されてない)の絵画や新聞情報などから、ある程度の様子がうかがえる。cmb.はどの位置にあったのか? 会場は客席より少し高い位置あった。演奏者は演壇の様に組まれ、後ろの方は少し高い位置となり奏者の姿が少しは見えるようになっている。立ち見客が多かったかもしれないが、狭い舞台の中で底面席が大きいcmb.がどの位置にいたのか。また作曲者自身が、いつの時点で登場したのか? No.98の最初は指揮をしていて舞台の中央にいたのか。あるいは指揮者はコンサートマスターの 第1vn.のsoloと担当するザロモンがかねていた。第3楽章が終わった時点で、奏者のいないcmb.にハイドンが席に座ったのか。cmb.の入る前にはフェルマータの休止箇所がある。この時点で急遽入ってきたのか。映像の記録の手段が当時はなかった。しかしその変わりとして文字による記録などを頼りに、想像をかきたてられる。
 2023年11月25日 98番 A フィッシャー デンマーク室内管弦楽団 を聴取。No.97より引き続く。第2集は3曲がセットになっていて最後の曲にもなる。弦の奏法、拍の扱い、音量の対比などについて主にレビューをしてきた。今回は各パートの明確さについて記載をしたい。vn.は対向配置なので第1vn.と第2vn.の掛け合いが楽しめる。Tuittiの箇所では、ユニゾンでない場合、各パートの音が分かり難いケースもある。あえて、各パートを目出さない解釈もあるが。指揮者によって、この加減をどのように扱うかは興味深い。この場合、併せて録音による影響も大きい。
 第1楽章の第1主題は、最初に 2分音符の長さから4分音符に変化していく。時には8分音符も登場するが頻繁ではない。第1主題が主に長い音符の旋律が、最初に思い浮かぶ。しかし全体的にはAllegloの速い指定になっているので、快活に進んでいる。4分音符の動機は、かなり細かいニュアンスの動きになる。4分音符に支えながらtuittiの箇所では各パートが入り乱れる雰囲気。提示部のT71とT73の箇所は、得てして2つのvn.の旋律が聞き取り難い。特に、他の指揮者以上にテンポが速い演奏なので、この箇所が埋もれてしまう可能性もある。しかしフィッシャーの場合は、明白に聞こえる。本来、この箇所は第2主題の部分。第2主題も第1主題と同様に4分音符から主に構成される。T75でさらに柔らかい雰囲気で再登場する。T71からの箇所は、その前に登場する。

 T71とT73の動機は頻繁ではないが、その後も随所に登場する。最後の部分も、少し動機は異なるが、T312~315の部分でも2つのvn.は4分音符で弾いている。T317からはスコアでは打楽器のtimp.はトリルではない。しかしこの演奏ではトリルで通している。Timp.のパートは目立っているのはもちろんだが。このトリルの動機は一つ前のT312からのvn.のパートを引き続いている役割に聞こえる。
 過去にも他の奏者でtimp.のトリルの奏法で効果的になっている点は記載をした。最近ではアントニーニ の No.31のFinaleの最後に近い部分でトリルが効果的と記載をした。 アントニーニ No.31のレビュー

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-1552.html

しかし上記のレビューは本来、fl.がスラーの箇所をトリルになっている。打楽器ではない、このため少し異なるようだ。なお、timp.のトリルの部分はFinaleでも同様になっている。


 Finaleの最後に近い部分で cmb.が登場する。中央に位置しているので、指揮者自身が演奏している可能性もある。ライナーノートには各パートの奏者の氏名までの記載がない。奏者の人数が詳しくは分からないが。



 第2集のレビューに関しては、下記の最後にもレビューがある。

http://micha072.blog.fc2.com/blog-entry-3848.html

その中で同じ指揮者と奏者でのYotubeによる動画がある。それによると、弦の奏者は下記の通り。

 8:6:5:4:3

上記の動画の中で指揮者自身がcmb.を弾くために指揮台から急いで降りている。事前に理リハーサルをしないとうまくいかなかったらしい。左手に指揮棒を持ったまま、右手だけで高い音域までcmb.を立ったまま弾くのは大変そうだ。ライヴで聴衆が入っている映像。各奏者が指揮者の動きが見えるように、cmb.は左端の方に位置していた。CDの録音は聴衆がいないので、cmb.は指揮者の近くにあったのかもしれない。(cmb.の音が中央にあるのもうなずける)
 cmb.のsoloの箇所で、第1vn.がsoloで弾いているのはよく見る光景。CDでは第1vn.以外に他の弦のパートもsoloで弾いていると思う。フィッシャーは、音量の強弱に関してtuittiとtuittiでない箇所でsoloをうまく使っている。スコアで管楽器を含むsoloの箇所は、伴奏する側もsoloとしているケースが多い。これが音量の対比となって効果的と思う。

ただし速いテンポは演奏会場によっては、変えているようだ。下記のブログにもグラーツ音楽祭では、残響の長い会場のためテンポは落としている記載がある。

http://blog.livedoor.jp/haydnphil/archives/2023-09-19.html

表装について。第1集の奏者の集合写真と第2集の集合写真は、カラーとモノクロに違いはあるが同じ写真は残念。表紙の絵画(ウエストミンスター 橋)も一見すると、同じように見える。同じ画家の絵だが、よく見ると第1集の方は1754年の修理中の様子。第2集は1747年で第1集よりも前の写真。同じアングルからの絵の様だが、時間の差がある。

 既にザロモンセットの後半の6曲は録音済とのこと。前半の演奏からして後半も同じようなスタイルで演奏すると思う。No.99をもし演奏するとしたら、どのようなものになるのか? たとえば、第3楽章の Menuetto は、元々速いテンポなので、スケルツオ風の駆け抜けるような演奏か? 各楽章の終わり方でtimp.をトリルを採用してあたかもライブのように熱狂的に終わるのか? 発売までの楽しみがある。
 
2024年11月8日 98番 ジョヴァンニ・アントニーニBasel室内管弦楽団 を聴取。現時点(2024年11月8日)では最新録音で第16集。No.98、No.94、No.90の3曲とロッシーニの「絹のはしご」の序曲が収録されている。レンジの広い録音なので、アンプのボリュームの位置をどこの部分に合わせてよいのかは難しいところ。過去にNo.6~8の第10集のときのこと。No.6の序奏の部分が弦楽器の音が聞こえにくいと思って、ボリュームを上げた所、その後、なりの音量であった。慌ててツマミを絞ったのを思いだす。

今回は逆のパターンでNo.98はいきなり弦楽器のみだがユニゾンのtuittiでの大音量。初めてこのCDを聴くと大きな音量にびっくりする。2つの楽団が合わさっているので弦の編成は以下の通り。一つ前の第15集のパリセットNo.85などと比較すると、さらに多い奏者となっている。

8:8:5:5:3

奏者の数が多くなってくると、弦のパートが大きくなって厚みはあるものの、細かい動きが分かりにくくなる懸念はある。しかし T71とT73の第1、2vnの8分音符の動機。木管楽器の.音の埋もれることもなく、明白に2つのvn.パートがよくわかる。下記のA フィッシャー 新盤にも同様。

http://mistee01.blog118.fc2.com/blog-entry-2923.html

上記、フィッシャーのレビューで第1楽章の譜例にある部分。フィッシャーの場合は、timp.はトリルで演奏していた。アントニーニの場合は通常の譜面通りで演奏。過去に自筆楽譜が存在していたので、印刷されたその後のスコアも一応、作曲者の指示した細かい点まで記載していると思う。序奏の冒頭の動機は第1主題の調性とは異なる。調性以外にスッタカートとスラーとの違いがある。上記の譜例でもT72とT74の箇所はスラーになっている。1小節単位でこれらが登場していること。この箇所ひとつをとっても、作曲者は細かいところまでよく書いていると感心する。

 この楽章に限らないが、対位法の手法を用いて、特に低弦の動きはどこを聴いても面白い。T76からvc.+bass.がfg.なしに独自の旋律を弾く。T77-78とT85-86とで異なる点もポイント。ハイドンは中期の頃からfg.はsoloを含む独自の旋律を受け持つ箇所が多くなってくる。 No.98の Menuetto のTrioの部分mの第1vn.とfg.とがユニゾンでありながらも音色が重なっている。Fg.はva.と重なるところもあれば、vc.のみあるいはvc.+bassを重なるパターンなどがある。弦楽器以外にも管楽器同志で重なるところも多い。

ザロモンセットの後期の6曲と違って前期の6曲は、弦楽器、菅楽器のsoloの箇所が多いと思う。No.98は第2楽章にvc.のsoloがあり、Finaleはvn.のsolo。弦楽器だけでも2名のsoloが登場する。オマケとは思わないがFinaleの codaの部分にもcmb.が入る。cmb.の奏者は指揮者によって様々。ショルティの場合は、第1楽章の最初から入っていたのもあれば、ヨッフムのように第2楽章から登場することもある。
アントニーニの場合はcodaのみ。cmb.の部分で弦楽器がsoloで伴奏するケースもある。アントニーニは通常通り。この全集のテーマは THE SURPRISE となっていて有名なNo.94が2曲めになっている。初演当時からNo.94はTHE SURPRISE とし知られていたので、この曲がメインになっているのはうなずける。それ以外の交響曲をどのように選択したのか? ライナーノートの曲目解説(英文)には同じ調性の3年度の作曲されたNo.102の関連についても記されているようだ。
 No.98の 驚愕 のテーマとしてFinaleのcmb.を考えたのか。No.98は提示部の繰り返しはあるがFinaleは展開部と再現部の繰り返しはない。その分、かなり長いcodaになっている。長さだけでなく、No.90のように、休符の箇所が多いのが共通している雰囲気。各曲の最後に驚愕のテーマとして考えた場合、cmb.の登場よりは、No.90にも共通する休符を含めた仕掛けの方が特徴だと思う。
過去にベートーベンが所持していた自筆楽譜は、今は見ることができないようだ。しかし印刷物として既にNo.98の姿を知っている。そこではcmb.は最初から登場しないのは周知のようだ。指揮者によっては、最初からcmb.を入れているケースもある。しかし大半は終わりの一部分のみが多い。初演あるいは、再演当初のロンドンのハノーヴァホールの演奏を想像してみると第1vn.のザロモンをコンサートマスターとして迎え、Finaleもザロモンのsoloの箇所がある。それに対して cmb.を弾いていた ハイドンが 最後の部分で soloとして登場し、2名を引き立てるように作曲したのか? このようなパターンはハイドンの交響曲でも見られないと思う。
狭い舞台でcmb.がどの位置にいたのか? 当時の版画によると、演奏された舞台は観客席より少し高い位置になる。弦楽器は座って演奏しても管楽器や打楽器は高さを上げないと指揮者あるいはコンサートマスターが見えない。後ろの方は舞台が高くなってくる。cmb.がどの位置になるのか。cmb.はある程度、スペースを取る。音のでる方向も考える必要もあろう。Codaに入った頃に、ハイドン自身が舞台の奥から出てきて弾いたのか? 第1楽章の冒頭から既にcmb.の椅子に座っていたのか? 仮に第1楽章から座っていると、聴衆はかなり最後の方までハイドンの演奏を待たされたことになる。待たされた長い時間がテーマの驚愕になっていたのか。初演あるいは再演当時の映像があれば見てみたい。
アントニーニの演奏自体について、今回、No.98について、余り特徴は書けなかった。古楽器を生かした弦の切れ、各パートの定位感とtuittiの音の溶け合い。録音でのレンジの広さ。どこをとっても過去の特徴を全て網羅しているので、敢えて上記のレビュー以外は書きにくいと思った。