22.聴き手とナビゲーションの例え 2015年6月24日 追記
(その1)最近、バックナンバーで入手したレコード芸術 2009年6月号から。 ラディカルな開拓者 没後200年 ヨーゼフ・ハイドン の特集記事がその中にある。 ハイドンの魅力 −仕掛けが満載 ハイドンに惚れ込んでいる男ふたりが語る の部分からの引用。ここでは 飯森 豊水、安田 和信 両氏の2名が、僅か2ページの紙面であるが、端的に交響曲の魅力について語っている。
この中では、1780年代のパリセット以前の作品では、いかに旋律線で遊ぶかで楽しんでいるところが分かること。それが分かってくると、面白さが尽きない。その細やかさは音楽通のエステルハージ侯爵の主眼で書かれたところが大きいこと。どんな作品を披露し続けてきたかの実績が、聴き手にも作曲家にも共有されている中でのコミュニケーションにもなる。
それに対して名曲のほまれ高いパリセット、ロンドンセットは、大ホールに集う都市の聴衆、つまり「一般向け」に作曲された。旋律構造が規則正しく、親しみやくすなり、和声に迫力が伴い、いっそう意図が分かりやすいところがある。和声上では、No.92の第1楽章の部分から、最終的な和声が落ち着かない仕掛けなどについて、言及されている。
これに引き続いて、キーワードとして、聴き手のナビゲーションシステムが登場。聴き手が漫然として聴いているだけは曲の魅力が十分に分からない。曲の始まりがあって、目的地があり、今までこうやって来ていてとうのを、あたかも鳥が上から見ているような視線で見る。この後どういう展開になることを予測しながら、言わば戦略的に聴く。このたとえは興味深い。
(その2)引き続き那須田 務氏の「交響曲作品 期は熟した 104曲を味わいつくそう」の中から。ここでは交響曲の3つの特徴に言及。多様性、意外性、旋律や響きの個性。多様性は、エステルハージ侯爵とその周辺の宮廷に集う聴衆を満足させることの最優先として作曲されたこと。自ら楽器を奢しみ、音楽理論を学び、音楽を聴いて和声や形式が分かる人たち。
エステルハージ時代のハイドンの聴衆の全てが、そうだとはいわないが、少なくとも仕事上の立場に影響を与える一握りの人たちはそうだっただろう。彼らは日常生活において凡庸さや退屈を嫌うと同じように、音楽においても彼らの趣味に適う洗練と品の良さを同時に、個性を満足させる変化をもとめて、そしてときには、音楽を通じて、侯爵に何らかのメッセージを伝えることもあった。ハイドンは、こうした様々な状況において作曲に取り組み、水準の高い成果を出していった。
また、旋律や響きの個性の例として、筆者は、旋律や響きは作曲者の指紋のようなものだ。ハイドンの旋律や響きは、他の時代よりもモーツァルトやヴァンハル、サリエリ等と同時代の作曲家に比べると、一層際立つ。旋律でいえば、ハイドンには幼少の頃から生まれて育ち、生活してきた周辺環境が大きいといえるが、この様なハイドン独自の個性は18世紀後半の演奏習慣(最近ではピリオド奏法のほうが通りやすいかもしれない)に準拠した演奏によって初めて、明らかになったと筆者は考える。→当時の演奏習慣も合わせて考えること。指紋に類似した考えは、ハイドン音楽史にも、このコーナーで触れている。
聴き手のナビゲーションの例え 2015年7月8日 追記
(その3)鈴木秀美 「ハイドン作品は まるで おもちゃ箱」の記事から。その2に引き続いて、見開き2ページに渡ってインタビュー形式で記載されている。
ヨーロッパでの18世紀オーケストラ や ラ・プティット・バンド等で長く演奏してきた経験を踏まえて。拍子と不協和音の2点が特徴。ハイドンといえば、四角四面で規格そのもののようなイメージを描く人が多い。スコアを覗くと機知に富んでいて、生き生きとした世界が広がっている。いわゆるソナタ形式もハイドンが作ったかのように思われているかもしれない。しかし作品には、そういった形式に嵌らないものもたくさんある。展開部の短さに驚かされ、再現部が来たと思ったら、予想を裏切られ全然違うものが来る。予期しない転調があり。例を挙げ始めたら切りがない。あらゆるところに創意工夫が見える。そこには、定石がどうかを知っているからこそ、楽しめるといった側面があるかもしれない。
ブリュッヘンもいっているように、モーツァルトは一種の「万人向け」なところ、誰にでも好まれるところがある。ハイドンは玄人好みというのか、音楽をある程度知っていて、初めてユーモアとはアイデアが見えて微笑むことができる作曲だ。少々大雑把な言い方であるが、モーツァルトは色彩の作曲家。ハイドンはアイデアの作曲家。これには二人に環境の違いも影響を与えている。モーツァルトは生涯どこかの専属の宮廷作曲家にならなかった。作曲に際して、限定的な条件は一定ではなく思った色彩を表現するためには、好きな楽器を選らんでかくことができた。しかしステルハージ家に就職したハイドンに与えられたオーケストラは、当初13人ほどであった。それで演奏できるものを書いた。ハイドンは、音楽通のエステルハージ侯爵とその客人の環境を十分にそそり、同時にオーケストラをまとめ、作曲家兼リーダーとして、アピールしなければならなかった。制約が多ければ多きいほど、アイデアを練らざるを得なかった。
私たち演奏家は、いつも、どこのハイドンが気を配っていたかを、あるアイデアを、宝探しの様に探していけなければならない。発見できなかったら、漫然とメロディーが流れる退屈な演奏になってしまう。
これらのコメントから私なりに整理をしてみると、やはり、タイトルの「おもちゃ箱」がキーワードになってくると思う。おもちゃ箱は、色々なものがあるかもしれないが、一般的なイメージとして、子どもが対象だけとは限らない。子どもなりに、おもちゃの機能として楽しむことはできよう。しかし、子どもだけが対象ではなく、大人も楽しめる。おもちゃ箱は、子どもだけでなく、大人になっても、子どもの経験や理論を踏まえて、新たな観点で再び楽しむことができる。モーツァルトの作品が、決して、ハイドンに劣るとは思っていない。しかし過去のコメントにも少し書いたが、モーツァルトは漫才の様に、感情に直接訴える万人に共通した美しさがある。
それに対して、ハイドンは、玄人好みの、筋道が分かっていてから楽しめる落語のように、基礎知識が必要とされる。形式一つにとっても、漫然と聴いただけでは、その微妙な違いが分からない。井上著の冒頭に、指揮者の岩城宏之が「ハイドンは苦手」と記載してあった。スコアをある程度読める知識や、その当時の聴衆や、演奏家、演奏された目的などの背景も理解しないと、その曲の特徴が分からない点が多い。交響曲だけをとっても106曲ある。大半は3から4楽章で構成されているので、各楽章の数の主要主題だけを上げても、400曲近く。400曲は、ぞれぞれ、調性、テンポ、拍子、演奏楽器の数が、時代とともに、大きく異なる。しかも、各楽章の中でも、調性、テンポ、拍子、soloなどの演奏者の数の指定も異なる箇所が多い。しかも演奏家の解釈で、大きく異なる。この膨大な違いを聞き比べていくには、大変な労力が必要だろう。しかし醍醐味でもある。今まで、ハイドンの魅力を何回か書いてきた中で、集約できるような考えの一つだと思った。
聴き手のナビゲーションの例え 2015年9月28日 追記
(その4)ノリントンの94番の演奏を聴く前後に、この交響曲の由来などについて、ネットで調べてみた。この中で、ハイドン106の交響曲を聴くで、最初の部分でも触れてあった岩城宏之氏の「ハイドンは苦手」の部分に関連したコメントがあった。アマチュアオーケストラ 新交響楽団でのハイドンの紹介プログラムからのコメントで以下のサイトで見られる。
http://www.shinkyo.com/concert/i214-2.html
ここでは、アマチュアオーケストラでのハイドンを演奏する機会が少ない理由などが主に論点となっている。大曲と比べて管楽器の出番が少ない。弦楽器では過去の時代を知っている我々では、現代の大編成の弦楽器で、うまく表現ができるかなど。
これらに加えて、3番目として演奏の難しさがある。ここでは、例の楽譜の風景からの引用がある。
「ベートーヴェン以後の交響曲の隆盛を知り、その恩恵を充分に蒙っている現代の我々は、ハイドンの交響曲をともすれば未だ完成されていないスタイルの「習作」のように捉えがちな気がしている。
それは速い楽章のメリハリの無さと見えたり、緩徐楽章の冗漫さと感じられたり、或いはオーケストレーションの未分化(木管楽器のパートは2本揃っていても殆どがユニゾンである)などという形で耳目に障る事がある。これらは作曲者の生きた時代背景を反映している。
我々は概ね、この印象を拭いきれない時点で、ハイドンの交響曲をプログラム検討の俎上から下ろしてしまっている。実に残念且つ愚かしい事だと考えざるを得ない。
現実にはそうした点を克服し、一個の確立したスタイルを表出した演奏を作り上げる過程で詳細に作品の構造を見てゆくと、岩城氏のいう「複雑さ」に気づき、「難しさ」に行き当たるのである。ここで初めてハイドンの交響曲の演奏に対するやりがいが理解されうる状態になる。」
ここでは、やはりハイドンを含めて過去を知っていることから、ある意味ジレンマも考えられる。すなわち、ハイドンの前はもとより当時、及びその後の歴史まで、現代の我々は知っている。一方、ハイドンの演奏された当時は、現代音楽であった。特にロンドンでは、新作が披露され、演奏会では聴衆も演奏に反応した。当時は作曲と演奏がセットであった。
それに対して我々、現代はハイドン以降の作曲者や演奏を知っている。特にベートーヴェンの様な曲を最初に知ってしまうと、ハイドンは後ろに追いやられてしまう傾向にあろう。それに伴いハイドンの複雑さ、難しさなども影に追いやられてしまうのではないかと思った。
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