21.ハイドン全交響曲を関わり始めた経緯
(その1) 2014年12月29日 追記
クラッシック音楽の接点は記憶にない幼少の頃は不明だが。しかし記憶がある幼少の頃には既に、ステレオセットがあったので、色々と聴いてきた覚えはある。当時は、まだステレオセットは珍しいと思ったが父親の影響かレコードの大半は、クラッシックのものが多かった。自宅にあるジャンルは、ベートーヴェンを初め、ポピュラーな曲だったと思う。小学生の頃はそれほど、興味は持たなかったが、中学校のとき、音楽の授業の中でハイドンの名前を聞いた。無論、授業では名前の紹介程度であったと思う。しかしその中で音楽教師が「104曲もの数を作曲したのだが大半は、毎日、侯爵のために同じ曲が続かないように、せっせと作曲した」と話があった。このときも耳の隅に記憶にあった程度。
中学から高校にかけては、やはりポピュラーな名曲が中心で、小遣いをためてはレコードを聞いていた。その主なものは、モーツァルトが中心だった。その後、吉田秀和氏のモーツァルト その生涯と音楽 の第1シーズン(後で調べてみたら、第1シーズンは1980−87年の時期)はカセットテープに録音して聞きながら主に、モーツァルトを聴いていた。その中では、ハイドンは余り触れていないことが多かったが、わずかに、No.43の交響曲の部分で触れた様に、モーツァルトの交響曲と一緒に、合わせて聴いた。また同じ頃に、後期の交響曲も少しずつ、LPのバラで数枚ずつ、買いながらも聴いていた。しかしながら、全曲を通して聴いてみるまでは至らない。
後期の交響曲を中心にバラでは聴いていたが、モーツァルトやベートーヴェンと違って、かっちりとして、几帳面な印象が中心。その頃は、ベートーヴェンのような、内面的な精神面の誇張?にも はまっていた。この影響なのか楽章の最後には、codaがあるのが当たり前。これに対してハイドンの交響曲は、後期こそはcodaは少しあるが、ベートーヴェンほど長くもない。また曲自体も多い中で、パターンが決まっていて、それほど、はまって いなかった。しかし、それでもなぜか、No.102だけは、とても興味があった。ニックネームがない交響曲であったが、有名なNo.104やNo.100などに挟まれている。知名度は低いと思ったが、かっちりして、じっくりと聴く人にとってはとても、聴き応えがあると思った。このときはドラティの演奏だった。恐らく全集からの分売だったかもしれない。LPではなくカセットテープで、何回も聞いていた。このときはハイドンは、未知の世界の入り口に、まずは立っていた段階だったと思う。
その後CDの時代にシフト。モーツァルト大全集はさすがに、買わなかったが、J レヴァインのモーツァルト 交響曲の全曲が発売された頃、新譜のたびに買い足していた。新譜が出るたびに、このCDは楽しみにしていた。レヴァインの演奏は、第2vn.が右側に位置していて、各パートが鮮明によく聞き取れたのが印象的であった。この頃からスコアをみながら作曲者がどの様に、演奏者や聴衆に旨く聞かせるための手段について興味を持ち始めた。楽器については私はほとんど接点はないが、スコアをみるのは、中学時代から好きだった。その後、楽典に精通するほど、レベルは上がっていない。(未だにスコアをみて、この部分の調性を読み取ることが苦手)しかしスコアの中に、細かい指示記号や文字を見て、作曲者の意図しているものを、汲み取ることは今でも続けている。
スコアを見ながら、交響曲を見ていても、モーツァルトは、やはり、ありふれていると思ってきたのが、今から約5年ぐらい前。その頃に、フィッシャー盤の全集がCDを購入した。値段も格安だったが、未知の世界の交響曲を初めて聞く。中学生のときに殿様を相手に毎日、飽きないような曲を書き続けて来た印象を最初は思った。しかし、井上著 ハイドン106の交響曲を聞くの本を購入し、その冒頭の部分で、ハイドンの初期から中期の交響曲は、エステルハージ楽団のために書かれてsoloの部分が多いことを発見。確かに、モーツァルトの初期の交響曲と比べるとsoloの箇所が多い。またスコアにも細かい指定が多いのには、びっくりした。
吉田秀和氏の執筆の中で、モーツァルトとシュトラウスのワルツ「美しき青きドナウ」の比較があった。具体的にどの本からか良く覚えていないが、ここではモーツァルトの時代より、100年以上も後に作曲されたワルツと交響曲39番の比較があった。それぞれの冒頭は類似したテンポでES調。導入部から主部に入っているが旋律は、両者とも序奏や主題の旋律が似通っている。序奏の部分は、同じぐらいの小節数でありながら、モーツァルトの方が、いかに奥が深いかを記載してあった。楽器数はモーツァルトの時代では象徴されるような2管編成で、シュトラウスよりも少ない。しかしその冒頭の序奏からでも、旋律、テンポ、調性を変えながら陰影をつけている。それに対してシュトラウスの方は、単発的で調性の変化も変化少ない。楽器の数が少なくても、作曲者によって意図された曲は、大きく変化することには、印象に残った。これにより、スコアによる曲の面白さには、さらに興味を持った。それまでスコアは、主にモーツァルトやベートーヴェンなどを中心に、こずかいをためて購入した。しかしハイドンには、あまり縁はなかった。
4年前から現在に至るまでドラティ盤とデイビス盤を購入。3者を比較しながら現在も続けている。ハイドンの魅力は、現在の私には初期、中期の交響曲の技巧的な面白さが、メインだと私には思う。初期・中期の交響曲は、録音数も余りなく、また余り知られていない。特にニックネームが付いていない交響曲は、なおさらだ。初期、中期の交響曲は、ニックネームの有無に関わらず、スコアなど一緒に細かく聞いてみると意外な発見がある。この意外な発見の根底には、演奏家の比較が少ない分、スコアを見ながら、ハイドン自身がどの様に、演奏を通した作曲者の意図を聴衆が汲み取るかになると思う。当時の音源は、録音システムがない分、演奏会や楽譜のみであった。限られた一部の大衆ではあるが、めったにない機会で、当時では真作でポピュラー音楽であった、新譜の交響曲を聴きながら、聴衆がわくわくしながら聞いてきた雰囲気が大切だと思う。その場合、当時の様々な状況、たとえば、楽器、演奏者、会場、聴衆者のTPO(経済的な余裕や、めったにないチャンスで出向くタイミングなど)にも影響される。当時の様々な状況も加味しながら、現代に生きる時代にも通じるもの、あるいは、新しい解釈なども織り交ぜながら、今後に新譜のCDも含めて、執筆を続けて行きたいと思う。
(その2) 2015年1月3日 追記
スコアを見ながらのハイドンの魅力について、先ほど記載をした。全ての曲のスコアを見ながら、聴取をするには、限度があるかもしれない。しかし見ながら聴取をすると、その面白さは倍増する。私自身、調性は和音などの細かいところまでは理解ができないが、下記のサイトに指揮者としてのこの考えからについて理解の手助けになる。ここでは、No.100 第1楽章の序奏の部分で、G調でありながらも、1オクターブ12音のすべてが、すでこの序奏の中に奏されていると記されている。
http://dialzero.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-46ec.htm
また、ここではハイドンの魅力のたとえとして、落語と漫才の比較がある。 落語を楽しむためには何がくるのか、ある程度予想をたてたり、どうなっちゃうの?などの知識や事前の予習が必要となる。「このメロディーがきれいだな」とか、「分かるよ〜」みたいに、単に与えられたものに対して同調するだけでは、ハイドンの面白さは、分からない。ハイドンを聴くには、落語の様に聴取者側にも、それなりに知識や予習あ必要となる。これに必要なのは、スコアや当時の作曲された背景(演奏者、演奏会場、聴衆者側のTOPなど)も、ある程度、知っておく必要あある。このためハイドンを聞く・演奏するときには、「能動的」でなければならない。 スコアを見ながらの聴取も、このスタイルにあったような気がする。ある程度の経験み必要となる。
それに対して漫才は直接的で考ええる時間を与えない。与えられているギャグがはまるかどうか。聞き手は受動的な聞き方のスタイルとなる。
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