9.野球の監督として,ハイドンを例えてみたら 
 (その1)フィッシャー盤とドラティの2種を聴き通してみて、ハイドンの交響曲の全曲は氷山の一角としてしか知られていない点について記載した。さて、この氷山の区切りについて考えてみた。1770年の中頃からは、ハイドンは、交響曲という多くの市民に対して「聴きやすさ」をより一層重視をした転機ではないか?
 エステルハージ楽団の楽長として、将来の身分保障は安定している。1770年を過ぎてから、自分の作品が出版を通じて、少しずつヨーロッパは元よりアメリカにまで広まって行く。広まって行く方法は、やはり筆写譜などによる出版による影響は大きい。出版は、作曲者の許可を得ないまま、いわゆる海賊版も出回っていたかもしれないが。それにしても、当時の音楽愛好家に広まって人気が高まって行ったのは事実である。また、パリやロンドン向けにも作曲の依頼があり、コンサート会場で披露をされてきた。
 このコンサート会場などで披露されて来た曲が、後半に当たり、今日でも有名になっている。CDの発売や録音でも、やはり最後の12曲のものが多いようだ。この交響曲の前半と後半の区別をどの様に自分なりにしたら良いのか? このキーワードは、音楽愛好家や一般市民への分かりやすさを重視し始めた違いではないか。前半では、もちろん、過去の作曲家や演奏家の技術等を習得し、楽団を通して、様々な実験なども行っている。曲によっては演奏技術が、かなり高いことも要求される。楽器の種類も限られている。
 それに対して、後半では、分かりやすさをキーワードとして考えると、主題一つにとっても、親しみやすいもの。一度聴いただけで、覚えやすいと、誰もが作曲家に愛着を持つ。このチャームポイントを作曲自身は、常に抑えていながら作曲をしていたのではないか。ただし、聴衆は年月を経るに当たって、同じ曲のスタイルばかりでは飽きがくる。当時は、ステレオ装置などは無論ない訳であり、演奏の保存はできない。保存は、楽譜のみである。
(その2)
 現代はLPやCDでは何回も、好きなときに聴取ができる。しかし18世紀後半の時代では、当時の人気の曲を知るためには、楽譜か、演奏会へ出かけるしか手段がない。この楽譜と演奏会による影響は今日では、当時としては、図りしえないことであっただろう。
 演奏会は、楽譜を通して聴衆へ知られていく。また、楽譜は、出版物からしか得られる手段がない。そうなると、当時としては、楽譜がのみが交響曲を知る元となる手段に帰着される。合わせて楽譜を通して、室内楽を中心に編曲され、それを多くの市民が演奏を通して、さらに、楽譜が広まる。(無論、当時はコピーなどは存在しないから、オリジナルの筆写譜を購入するか、自分で筆写をするしな方法がない。)
 この様な、状況の中、楽譜に関しての楽譜に関しての出版は大きなウエイトを占めている。作曲家ハイドンは、楽譜の出版に関して、出版社と契約をしながら、多くの交響曲を作曲して行った。
(その3)
 楽譜を出版して行く中では、同じ交響曲では意味をなさない。このため、毎回、違う交響曲をせっせと、書き上げては、出版を繰り返す。しかし、単に違う交響曲と言っても、交響曲に対する聴衆のニーズを常に、敏感に感じ取っていた。また、ニーズに応じて、作曲が繰り返されたのではないか?
 当時、ハイドン以外にも多くの作曲家がいたし、多くの交響曲もあった。しかし、18世紀後半頃の交響曲は、現在、ハイドン、モーツァルト以外には、余り演奏される機会がないと思う。当時より淘汰された交響曲のみが残って、今日まで生き続けているためだと思う。
 この淘汰された原因としては、一人の作曲家が、自分の生涯の間、常に、自己研鑽を繰り返しながら、作曲していった賜物であると思う。(それが交響曲の父と今日でも言われる由来)
 また、聴衆のニーズは様々なものがあると思うが、大きな一つには、調性があると思う。様々な調性を聴衆が知るようになって、これに呼応して交響曲の調性が複雑になって行くことではないか。
 この調性とは、各交響曲の主調の種類の数ではない。むしろ交響曲の主調の中で、曲の中途で様々に転調する妙味を、聴衆が敏感に感じ取っていたのではないか。たとえば初期の頃の交響曲は、転調も少なかった。しかし時代を経過するに従い、楽章数も増えることも合い間って、各楽章での調性も変化が増えてくる。また各楽章内でも、提示部は元より、展開部では、めまぐるしく転調の箇所が多い。聴衆は、この転調の妙味を知りたいが故に、今でも、演奏会に取り上げるのではないか。当時の他の作曲家の作品を余り聴取していないし、スコアなりで転調を中心としたチェックをしていたいので、直ぐには比較なり結論は出せないが。
(その4)
 ここでもう少し曲の中での調性について、考えてみたい。この欄の上記2「聴取記録のポイント」の中で、ソナタ形式について記載をした。ここでは、初期や中期では、ソナタ形式が完全ではないこと。また、調性に関しては記載をしていないが、初期や中期は、調性の広がりが余りない点も付け加えてみたい。
 ただ、初期や中期の中でも、もう少し詳しく見てみると、さすがに初期の頃は、楽章数が少ない。各楽章の中でも提示部や展開部のそれぞれの中でも転調が少ない箇所が多いと思う。しかし1761年頃の作品とされるHob−No.-3の交響曲の第1楽章。この展開部では、主調からの転調の箇所が短いながらも多い。(属調、下属調)
 初期の交響曲の一つのピークはHob−No.-6-8を私なりには、上げている。その頃の作曲の中でも、既に、展開部を中心に、第1主題の動機が十分に転調を含んで展開されている。これよりもう少し数年後の1964年頃とされるHob−No.-24の第1楽章では、展開部の調性の変化は元より、再現部でも主調で再現されない。(D‐durで d−molの短調) 他の作曲でも当時採用をしたかもしれないが、それにしても、斬新的な手法ではないか。エステルハージ楽団により、作曲者は、ソナタ形式を育てて行きながら、調性の広がりを通して、交響曲の持つ可能性を早くも育ていると思う。自前に近い楽団がなければ、この様な「育てる」と言うことは中々、当時としては困難であっただろう。
(その5)
 次に演奏の中で、楽器の役割について考えてみたい。エステルハージ候より赴任前のモルツィン侯の時代では、管楽器は、ob.とhr.が2本のみが大半。楽器の種類も限られている。しかし限られた中でも、一部の箇所であるが、ob.は独自の旋律を持っている箇所もある。たとえばHob−No.-5(通しNo.14)の第1楽章では、hr.2本がsoli(soloの複数)でスコアの表示がされている。
(その6)
 初期のモルツィン時代では、soloの箇所は余りなく、各奏者の独奏は余りないと思う。当時の楽器の使用でhrは、和音の保持が一般的であったと思う。(その分エステルハージ時代になるとhr.を含めた独奏の箇所が多くなる) 
 しかし注意深く聴いてみると、意外に奏者にとっては、かなりの技量が要求されるのではないか? たとえば、もっとも初期の頃のHob-No-4の第3楽章。提示部ではtuittiで音量の大きな箇所が多い。hr,もリズムの補強のような使い方で持続音が少ない。
 しかし、一転、この展開部では、この箇所は、その展開部では、約8小節にも渡り、「pp」の指定で、hrが持続の異なる和音の音程で2人により演奏している。この箇所では、va.とvc.は同じ補強的な4分音符で終始し、それに対して、第1.2vn.は3連附で細かい動きになる。hr.は和音として単に支えているのだが、ppで一定の音量で補強するは、かなり大変だったのではないか? 演奏の中でsoloやsoliの指定がないものの、演奏家にとっては、かなり技量を要すると思う。
(その7)
 弦楽器の例としては、Hob-No-27を取り上げたい。通常の番号からすると、もっと後と捉えられるかもしれないが、最初期の一つ。この第3楽章でも、曲自体も短いし、主題も一つで3部形式。良く聴いて見ると、小結尾部で第1−2vn.が1オクターブの上行音を引く、この部分は32分音符になっている。Prestoの速度指定で、3/8拍子。32分音符で引くのは、当時としてはかなりの技量を必要としたと思う。
(その8)
 この場では、調性の中の、転調と楽器の使い方を中心に最近、記載をしてきた。最初のタイトル「野球の監督としてのハイドンをたとえてみたら」について、再度、考えてみたい。18世紀の後半、ヨーロッパでは様々な交響曲が芽生えながら、そのスタイルが多くの聴衆へ拡大していた時期であった。
 この中でハイドンは、エステルハージ楽団と言うプライベートに近い形で、様々な交響曲を作曲してきた。1761年に副楽長として就任して来た当初は、楽団のソリストの活躍の場を与えるために、soloの箇所が多く、協奏交響曲に近いスタイルに近い時期もあった。
 その後は、やや協奏交響曲のスタイルは、減って来たが、交響曲の様々な様式を確立して言った。また同時に、これらの交響曲は、出版を通じて、ヨーロッパ全土は元より、開拓しつつあったアメリカにまだ知れ渡ったという。ハイドン以外にも他の多くの作曲家はいた。しかし、現在では、余り知られていないであろう。
(その9)
 当時のハイドンは、交響曲という流れの中、一つ一つ天塩にかけて、送り出していったと思う。手塩と言う概念は、プロ野球にたとえてみたら、野球の監督ではないかと思った。監督は、1軍の選手を目指して、リーグ優勝を目指す。そのためには、球団の理念を自分で確立し、若い選手をスカウトし、まずは2軍からスタートをする。時間をかけて、1軍の選手を育てていく。
 1軍の選手は、晴れの交響曲の表舞台で現在も知れ渡っている。しかし、そこに至るまでには、2軍の長い経験を積んだ選手を育てた経緯があった。2軍の選手は、残念ながら、現在では余り知られていないかもしれない。しかしその背後には、苦労をして来た事実がある。これらを一手に企画から実践まで行えるのは、野球で言えば「監督」に相当するのではないか。また、その選手が交響曲に相当するのではないか。
 1軍のリーグ優勝で淘汰された交響曲が今日まで残っている。逆に当時の2軍の選手は、埋もれたまま。当時の選手(交響曲)は、その後も、指揮者やオーケストラを言う、過去から現在に至るまで、姿を変えながら様々に披露されていると思った。