17. 石井 宏 著 反音楽史を読んで 

(1)その1  音楽の先進国であるイタリヤ
 今回は、これまで、このコーナ−(1)〜(16)まで書いたものとは、正反対に近い視点から記載をしたもの。新潮社から2004年に出版された。この本の表紙が、まずは面白い。学校の音楽室に掲載してあるベートーベンを初めとしたドイツの音楽家の絵画。この絵画に象徴されるように、日本の西洋音楽は、ドイツの古典派をいかに尊重して来たか。その中には、ハイドンも入っている。ハイドンが生きていた18世紀の時代も、ドイツは音楽の後進国であったことが、この本のテーマである。
 この典型的な例が、ベートーベンの生まれる前の100年間の間に、音楽の友社 「主要作曲家年表」のリストが掲載されている。この中では主に、ドイツ流の史観に基づいて選択されている作曲家の28人の人物(もちろん ハイドンも含む)が掲載されている。(生誕1660年〜1760年まで) この中で半分以上は、イタリア人となっている。

(2)その2  エステルハージ侯爵の意味
 宮廷音楽家の立場や雇用条件も、別な視点から記載がされている。その前に、ハイドンの雇用主であるエステルハージ侯爵の位置づけが興味深い。侯爵というと、貴族の中ではある程度、上のクラスであることは、一般にも想像される。しかしながら、この貴族の爵位は、フェルスト fursut (Uの上には¨がある)となり、日本では侯爵と訳されている。しかしこのフェルストは、ドイツでは皇帝 Kaiser、王 Konisg に次ぐ爵位である。他の国の侯爵 marquis よりは、ずっと重要な意味をもつ高い身分の位である。
 その上、エステルハージ家は、パラティーン Palatin 、ハンガリーで、副王とされている。 その点から、英語やフランス語の文献では、エステルハージ家の人たちは、Prince  王子や大公 など敬称が付けられている。単に侯爵というよりは、 公 あるいは、 大公の敬称の方がふさわしい。
 実際、エステルハージ家はハンガリーの筆頭貴族に由来する。ニコラウス エステルハージ(1583−1645)は、並外れた外交政策の手腕によって、ハプスブルク家に忠誠を誓ったこと。トルコ軍との戦いで、防衛の最前線にたち、その功績で1626年にハンガリー副王に任ぜられたこと。(このあたりは、ハイドン復活委員会の エステルハージ家の歴史に、かなり詳細に記載がされている。)

(3) その3 楽長としてのハイドンの役割
 ハイドンは1761年のエステルハージ楽団の副楽長に就任するが、年俸が400グルデン。その当時、ウィーンの楽団の楽長は、数千グルデンの年俸であったことと比較すると、かなり低い。また、1761年の副楽長就任に際し、このときの契約書は現存しているが、この14条にわたる契約書は、厳しい条文が列挙されている。例えば第3条と第6条では、 楽士同士が争いを起こさないように仲裁をすること。 
 それに対して、当時、 ドイツ人の作曲家 アードルフ  ハッセ(1699ー1783)はどうか。彼はドイツ人でその当時は、最も有名だった作曲家)は、 ドレースデンの楽長であった。この年俸は、ハイドンの10倍以上であり、殆ど、ドレースデンにいたことがなくヨーロッパを渡り歩いていた。ハイドンは、年俸も低く、楽士たちの服装やマナー、出欠、技術訓練など、責任を負わされていた。それに加えて、程度の悪い楽士たちの喧嘩の仲裁、公の昼食の音楽の手配係など。本来なら、人事・総務・管理課といったセクションが行う仕事を任されてかされていた。それでいて、年俸は、都の楽長よりも低かった。
 この理由は、学歴もなければ、イタリアで活躍した楽歴もない、海とも山ともつかぬ男として、当初は低くみられていたと推定される。さらに宮廷楽士達の当時の生態を知る上では、この条文は興味深い。第5条で、宮廷劇場や大広間だけでなく、殿下の食事や宴席の音楽のサービスの提供もあった。第12条では、従僕たちと、同程度の食事を一緒にとることが記載されている。ザルツブルク時代のモーツァルトは、このサービスが大嫌いであった。彼はプライドが高く、無教養でゴロツキのような従僕や楽士たちとの、食事をとることは拒否していた。

(4) その4 青年時代の苦労  
 チュコのルカヴィーチェ モルティン伯爵に採用される前の17才から27才までの下積みのウィーンでの生活は、余り知られていない。伝記作家たちは、晩年のハイドンが折節に漏らす回顧談を伝記で形に記録をしているが、確かなことは分かっていない。この本では、当時の主な収入は、夜の「流し」と記述されている。イタリアでは、セレナータ(セレナード)といえば、男と女が「くどく」ために、窓の下に立って歌うものと相場が決まっていた。当時のウィーンでは、管楽器を交えた少人数のバンドが演奏したものであった。その目的といえば、女を くどく というものでなく、「音楽の出前」といった方が適する。良い音楽を街角で演奏していると人が集まってきて、楽士たちは「おひねり」をあずかっていた。
 たまたま住んでいた屋根裏部屋の記述も面白い。ヨーロッパの都市の建物は、1階は、商店や職人たちの仕事場に与えられ、2階から上が住居であった。エレベーターがないから、家賃は2階が一番高く、上に行くほど安くなる。貧乏人は上層階や屋根裏で暮らし、金持ちは2階で暮す。従って1つの建物に、金持ちと貧乏人が一緒に住んでいる構図が出来上がる。
 たまたま、ハイドンの住んでいた建物3階にウィーンの宮廷詩人 メスタージォが住んでいたことがあり、時折、屋根裏部屋でチェンバロを引いているハイドンの音がこの大詩人の耳に入る。そしてある日、この大詩人の友人の娘がピアノを習い始めるというとき、彼は屋根裏部屋のこの青年のことを思い出して、友人の娘を紹介した。後ににこの娘は マリアンネ・マルティネスが著名なイタリアの音楽家で、声楽の教師としても知られた ニコーラ・ポラポーラ(1686ー1768)に歌を習うようになったとき、ハイドンも彼女の伴奏役としてポラポーラの元に通うようになる。そのおかげでオペラの作品に接したり、イタリア語を学んだりすることができた。
 ハイドンはマルティネス嬢の縁で、一時期 ポラポーラの従僕を勤め、避暑地へも、お供をしたようだが、そのおかげで、グルックの雇い主のヒロトブルクハイゼン大公やその家族に接触できた。さらに、当時のウィーン宮廷で活躍していたワーゲンザイルやグルックといったドイツの音楽家とも顔見知りになった。それやこれや、定職がほとんどないままに、あちこちの様々な音楽のフリーターをこなすことが10年間経過した。人生の一番よいときが下積みであったが、このおかげで忍耐強く、腰を低くして波風立てることなく、長い生涯を生きていく強靭さを身につけたといえよう。1759年のモルツィン公爵家の年棒は200グルデン。年棒がわずかとはいえ、二度と飢えないためには、何がなんでも耐えることは身についていた。年棒は上を見ればキリがない。

(5)その5 当時の職種の年俸
 宮廷楽長の年俸に合わせて、当時の他の職種の年俸の記述も面白い。1706年 21才のヘンデルは、ハンブルク劇場をやめて、イタリア留学の旅にでる。当時のドイツ人は、音楽家として成功するためには、イタリアに行くことであった。
 ヘンデルの伝記作家 マナーリングは、ヘンデルは自分でお金をため、実行したと記述しているが、これは信じがたい。なぜなら、当時の下級楽士の給料などは微々たるもので、旅は極めて高くついた。プラフォードという研究家によると、「腕のよい料理人や男の召使の給与は、18世紀の後半でも年俸15グルデン。経験により12〜30グルデンの差があった。当時のお抱え楽士たちと料理人や召使の大部分は似たようなものであったから、ハンブルク劇場の1楽士のヘンデルがもらっていた給料も大差がないと推定される。
 一方、そうした安月給に対して、旅は1日につき、9グルデンと高価であった。モーツァルト親子の旅は1日9グルデンと記載されている。ヘンデルは、おそらく、だれか宮廷筋のスポンサーがついたのではないかと推定される。

(6) その6 ハイドンの師 C.P.E バッハ
 モーツァルトの伝記に執筆者でも有名な アルフレード・アインシュタイン の バッハの息子 カール フィリップ エマヌエル バッハの記述を見てみる。大バッハの第2子は多種多産であったが、北ドイツの革新家としてもっとも影響力の強かったのはクラヴィーアのためのソナタであった。彼のソナタは「多感時代」のもっとも豊穣な証拠であった。それは、ため息 と こだま と溢れる涙に満ち、早い第1楽章は、コケティッシュとは言わないにしても、驚異と斬新な細部に満ちていた。 そして彼は、ハイドンその様式を伝えた人物として賞揚される。
 古典はの3巨匠のうち、エマヌエル バッハの影響をもっとも喜んで受け入れ、それを明らかに認めたのは、最年長のハイドンであった。 しかしながら、この記述は正確ではない。ハイドンは エマヌエル バッハと顔を合わせたことはない。貧乏で全ては独学のハイドンであったので、彼の曲集を1冊か2冊かは持っていかかもしれない。後年、伝記作者たちに、自分の半生を語ったと変わっていった。

(6) その7 シンフォニーのフレーム(このあたりは、前述、紹介した交響曲の生涯と共通することが多い)
 ハイドンの頃のシンフォニーといえば、音楽会の初めと終わりに演奏されるもので、丁度、オペラの序曲のようなものであった。初期の音楽会の冒頭では、オペラの序曲が流用されいたが、それは単なる、ガヤ沈めの音楽のつもりであり、だれも聴き耳を立てなかった。それが、パリのコンセール・スピリチュエルのような「音楽会」をシリーズで行う組織が栄えてくる (1725−1790) これにともない、メインプログラムの宗教音楽のほかに、シンフォニーのようなオーケストラ音楽にも人々の注目が集まってきた。
 ロンドンでは、ヘンデルが、オペラの前に、オルガンの腕を活かして、オルガン協奏曲の演奏のサービスをしていた。ロンドンのハイドンのコンサートでも、声楽曲と同じように、シンフォニーなどの器楽曲に対しても注目が集まっていた。先進地の都会では、ドイツやイタリアを差し置いて、大衆がいち早くオーケストラ音楽の面白さに目を向けだした。
 その魅力とは何か? まずは、フォルテからピアニッシモにいたる音量の変化が出せる。ささやくようなヴァイオリンの弱奏のあとに、ドカンと40人ほどの全員がフォルティシモにいたる音量がでてくる。というまもなく、また、ささやくようなチェロの低音に替わる。このような芸は、他のジャンルの音楽ではできない、オーケストラのみに許された特権であった。イタリア人がオペラという声の官能性にうつつを抜かして、伴奏のオーケストラに注意を払わなかった時代に、イタリア語の歌の魅力にイタリア人ほど反応できない連中があったのは、自然のなりゆきであったかもしれない。

(8)その8 マンハイム楽派の幻想
 このコーナ−No.13 交響曲の生涯(5)に、このマンハイム楽派の特徴を記載してある。アインシュタインの記述では、1742年 J.シュターミッツがマンハイムにやってきた。彼自身や同僚の作曲家、弟子達が作ったスタイルは、マンハイムを中心として速やかに広がって、各地に影響を与え、この時からの後の交響曲やソナタの主導権はドイツに移った。パリは全く驚異の念に打たれ、ドイツとの競争を断念してしまった。この誤った記述こそ、典型的なドイツ史観と言えると記述している。
 しかし実際には異なる。オーケストラのダイナミズムの面白さを最初に楽しむことを覚えたのは、ロンドンやパリといった先進の都会の聴衆であった。彼らに支えられて、これらの都会、特にパリで、音楽会用序曲におけるダイナミズムの面白さが発掘された。その傾向が最初に飛び火をした先が、マンハイムであった。 パリのコンセール・スプリチュアルは、1720年代に始まった。一方J.シュターミッツがマンハイムに来たのは、1742年でその後となる。この原因は、マンハイムの領主が、フランス「かぶれ」で、よろずフランス式を尊び、模倣しようとしたからによる。ドイツの宮廷人はフランス コンプレックスがあった。全ての点でフランス式を尊び模倣した。日常的にフランス語を話し、外交語はフランス語であった。大国オーストリアにおいても当たり前のことで、ヴェルサイユ宮殿を模してシェーンブルン宮殿が建てられた。ハイドンのいたエステルハージ家の離宮エステルハーザも例外ではなかった。諸々の諸侯は、それぞれの財政の許す範囲内で、自分の領地に作ろうとした。
 この音楽好きのカール・テオドール選定侯はフランス趣味を音楽の上で再現してくれるようなスタッフを養成するため、イタリア人の音楽家を雇う代わりに、ドイツの演奏家や作曲家を登用した。グルックがある時期、ウィーンで登用されるようになるのも同じ流れだった。
 当時のクレッシェンドは2小節以内の小さなものが普通であった。後のベートーヴェンのような「しつこい」クレッシェンドというものはなかったが、マンハイムでは、かなり長いクレッシェンドを効果的に使うのが評判であった。この技法は、マンハイムから遠くないシュトゥットガルトの宮廷楽長 ニコロ・ヨンメッリの好んだスタイルだった。このような構図が分かれば、マンハイム楽派などというものななかったし、その作曲が独創的なこともなく、単なるパリの模倣でもない。
 しかしながら、オーケストラの訓練、特にヴァイオリンの奏法を指して、マンハイム流と言ったのである。これを豊富な作曲家の一派にすり替えてしまったのは、 フーゴー・リーマン(1849−1919)のドイツの音楽学者であった。彼は著名な音楽辞典の編者であり、、この一派が後の「ウィーン古典派音楽」つまり、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどの直接の源流なのだと極めつけた。
 なお、マンハイム学派に関しては、「交響曲の生涯」でも、無理な点があることを記載されている。すなわち、Menuetを第3楽章に採用した点をとっても、バッロク時代から組曲として普通に既にあったこと。サンマルティーニやマンハイム学派とほぼ同時期のウィーン前古典派の交響曲にも、見られていたことが記載されている。

(9) その9 ソナタ形式の祖
 アルフレード・アインシュタインは、ハイドンは、彼がソナタの作者であったところにある。それまでは即興的で定形のなかったあらゆる器楽に、彼はソナタという具体的な形式を与えた。こうして尊敬に満ちた発言をみると、いかにも、ハイドンがソナタ形式の創始者であるような標記である。しかし、この形式は、クリスチャン バッハ も既に、ハイドン以前に使っている。彼はソナタ形式をイタリア留学時代に学び、ロンドンに訪問してきた8才のモーツァルトにも教えている。
 むしろ、ドイツの史家たちが、ソナタ形式を金科玉条と考えている。18世紀という絢爛とした宮廷文化の華というべきオペラからみれば、ハイドンの主要な武器である器楽という分野は、マイナーであった。ハッセ、ヘンデル、クリスチャン・バッハなどの華々しい国際的な檜舞台での活躍ぶりとは比較にならない。ただ19世紀の前の間に、形成されていく音楽史の中で、器楽がオペラを押しのけて最重要な音楽ジャンルに据えられる日がくると、ハイドンは、器楽の祖の地位が与えられる。
 そもそもソナタ形式の源流の3部形式 は、イタリアの ナーポリを音楽の聖地に位置づけたアレキサンドロ・スカルラッティ(1660-1725)に起因する。彼は18世紀にオペラ様式のスタンダードなモデルを作り上げた。当時オペラは生まれて1世紀を経ようとしていた。聴衆の好みは、朗唱ふうに歌われるドラマとしてのオペラから、名歌手たちの声を聴くオペラの方向へ向かっていた。そのためには、1つのオペラの中に、50も60も入れ込めたアリアを整理し、数を減らして時間なりのバランス良くまとめる必要が生じた。
 最初の頃は単純な形をしていたアリアは、時間の流れの中で、形の複雑化が進んできた。一本調子からの脱却は、聴き手と歌い手の双方からの注文であったと推定される。アリアはA、A"(Aダッシュ)から始まった後半に変化を与える。それからA・Bの2部形式になり、その変化形としてA・B・B”などの形式も生まれた。その中でスカルラッティの天才的な感覚は、AプラスBの2部形式をさらに推し進めて、A・Bのあとに、もう一度、最初のAを繰り返す、 A・B・Aのの形が理想であることを発見し、以後、一筋に、このアリアの形を推し進める。この形はいつともなく、ダ・カーポアリアと呼ばれるようになり、オペラアリアの基本となった。 分類好きのドイツの学者たちは、この形式に倣ったオペラを「ナーポリ派」の作品とするが、派などはなかった。スカルラッティと言う一人の天才の後は、その模倣者があっただけである。

(10) その10 協奏曲の誕生
 上記(9)のところで、オペラの成立について記載をした。ルネッサンスはイタリアから始まり、そこに起こった芸術は学問は、アルプスを越えて、北の方へ、少しずつ波及していった。音楽の技法は、アルプスの北にも、もたらせるが作曲技法や演奏家(歌手)の面でも、北の諸国は、輸入国にならざるを得なかった。当時の宮廷演劇はギリシャ・ローマ時代の英雄的な悲劇を中心とした題材による芝居だった。題材そのものは、高尚で教化的であったが、観客である貴族は、人格が高潔で趣味が高尚であったとは限らない。なによりも娯楽であるべき お芝居 の正解には、それなりの眼の保養、耳の保養、口の保養が求められた。
  一方、当時のイタリアが、仮に声楽に優れたとしても、器楽に関しては、ドイツと言う印象が思われるかもしれない。しかし、器楽の面においても、圧倒的に優位に立っていたのは、イタリア人であった。ヴァイオリン演奏家でも、多くのドイツの宮廷では、楽長職はもちろん、コンサートマスター級の奏者を高給で招聘していた。18世紀までには、歌や踊りの伴奏をする ヴァイオリン属は、どの楽器よりもよく鳴り、よく響くので、オーケストラ一族の主流になっていく。ただ、音が大きく、表情が「あつかましい」というので、王侯貴族の女たちの部屋からは敬遠された。彼女らが自分の歌の伴奏用として愛した楽器やギター、マンドリン、小型のチェンバロなどであった。
 モーツァルトが1770年 当時の歌手たちを音符で記録している。今の人の眼には、超絶技巧と言うべき発声の技術を当時も持っており、難曲をこなし、その音域は3オクターブを持っていた。それに比べると、楽器は全て見劣り、せいぜい伴奏の役しかなかった。
 実際、演奏家の年俸の器楽の奏者は歌手と比較して低かった。(年俸ひとつをとってみても、歌手と奏者では格段の差が当時はあった)
 その後、イタリア人の声への挑戦が始まり、声楽をしのぐ演奏をする人たちが出てきた。歴史に残る名前として、トレッリ、ヴィヴァルディ、マルッチェロなど。この人たちは、声楽にも優る、みごとな響きを聴かせた。そうなれば、楽器の名人たちが、まるでオペラ歌手と同じように、オーケストラを伴奏にして、至難のアリアを歌いまくる革命的な曲が出現する。これをコンサート concerto 用の曲、 つまり協奏曲と呼ぶようになった。1楽器の身分で人の声をしのぐような離れ技を聴かせる。それは、有史以来、初めての、だいそれた革命的な事件であり、名人奏者がそれを可能にした。18世紀も後半になると、振興楽器のピアノも仲間入りし、協奏曲は花盛りのジャンルになる。

(11) その11 音楽会と交響曲の位置づけ
 ウィーンなどでは、さぞかし昔から音楽会が行われたと思いこみがちである。パウル・ベッカーは18世紀のウィーンを音楽の都とと定義した。しかし音楽会なるものは、それほど数が多かったものではない。ハイドンの時代のウィーンにおける音楽会 という研究書を書いた メアリー・スー・モロウ によれば、18世紀の後半の公開演奏数はおおよそ、以下のようであった。
1761年:6回
1762年:1回
1763年:5回
1764年:1回
1766年:1回
1770年:1回
 10年間のコンサートの数は 、わずかに15回である。多少の見損じがあるかもしれないが、仮に、この2倍としても、10年間にわずか30回である。それ以前には、音楽会はアルプスの北では、存在しなかった。ヨーロッパの国では、一般的に、次ぎの期間は、劇場は閉鎖されることになっていた。
1.待降節  クリスマス前の4週間
2.4句節 簡単にいえば、復活祭の前の40日間
 そのほかに宮廷の喪の期間、夏休み、キリスト教その他の祝祭日がこれに加わる。この長い劇場の休止期間中は、せっかく高給で雇ったイタリア人の宮廷歌手たちが、暇で、ブラブラしていることになり、もったいない。彼らを活用しようと考えだされたのが、貴族の私邸を中心にした音楽会であった。
 最初のころは、オペラのアリアなど、こうした謹慎期間中に歌わせるのは、教会の手前、憚られた。音楽会は、宗教的音楽劇 オラトリオを中心に、プログラムが編成されていた。その音楽会は開始の前にオペラのアリアと同じように、オーケストラによる序曲が演奏された。(このあたりは、前記の(6)を参照)最初の頃は、音楽会専用の序曲がなかったので、適当にその辺りのオペラの序曲を転用や流用していた。
 このため、音楽は、1にカトリックの教会、2に劇場、3に王侯貴族の宮殿は私邸で演奏された。私邸の演奏は、古くから行われていて、それを公開し、入場料をとるようになったのが、音楽会と考えてもよい。18世紀以前のスターは、圧倒的に声楽家であったのは、前記したとおり。

(12) ロンドンコンサートプログラム
 (6)のシンフォニーのフレームで、コンサートのプログラムは位置づけについて記載をした。ウィーンでの1783年 3月31日 モーツァルトの公開音楽プグラムで、ハフナー交響曲が演奏されたのは、かなり知られている。ここでは、10曲の演目のうち、ピアニスト モーツァルトが興行を目的としたものなので、ピアノ協奏曲 K415とK175の2曲が演奏されている。それでも、半分は、モーツァルトのオペラ歌手のプログラムがある。
  「交響曲の生涯」にも、1768年に、スイスのチューリッヒのプログラムの例もある。ここでは、第1部と第2部に分かれていて、第1部の最初と最後に、ハイマンとグラーフの交響曲。第2部の最後にグライナーの交響曲。それぞれの間には、ハッセ作曲のアリア「気高い花婿、美しい君よ」のアリアなどがある。しかしながら、ここでもシンフォニーはフレームで、演奏家の独奏がメインであった。
  一方、1791年のロンドンのハイドンコンサートのプログラムはどうか。ハイドンの招聘前にも、 バッハ アーベル コンサートを企画し、好評を得ていた。 当時のイギリスは繁栄し、海軍国として経済力では、大陸諸国を大きく引き離していた。そこで支払われる金の価値は、大陸の何倍にも相当したから、田舎の楽長には、生まれて初めて、気の遠くなるような大金を提示された。
 1791年3月23日 ハノーヴァー・スクエア・ルームのザロモン主催のコンサートプログラムでは、第1部と第2部に分かれている。第1部と第2部の冒頭に、ハイドンの交響曲が2曲演奏されている。第1部と第2部を合わせれば、3時間以上もかかろうという大規模である。ここでの交響曲は、フレームとしては構成はされていた。しかしフレームといっても、ウィーンなどと違って、パリやロンドンといった都会は、これらの交響曲は、早い時期から、鑑賞の対象になっていた。聴衆の方からみれば、枠外であろうとなかろうと、ハイドンの大序曲=交響曲を、お目当てに聴いていた。
 ハイドンは、サービス精神に溢れた作曲家で、客を喜ばすことを念頭に作曲していたのは、周知の通りであった。特に、ロンドンでの交響曲は、極めてうまく作曲され、洗練され、ウイットに富む旋律をはじめとした効果が満点であった。コンサートの目玉は、やはり、3人の人気歌手が、それぞれ1曲づつを歌い、最後に3人が一緒に、3重唱を歌って、お開きになっている。また、いろどりとしての器楽は、ヴァイオリンとハープの協奏曲が演奏されている。

(13)その13 宮廷楽士の位置づけ
 (5)にもハイドンの雇用しした宮廷楽士の様子について、程度のの悪さは、料理人たちとヒケをとらないほど、 タチが悪いと記載をした。ベートーヴェンの父親は典型的な例である。無教養のノンベエで、飲んでは、家族を殴る。月給は持ち帰らず、飲み屋に巻き上げられるとあって、少年ベートーヴェンは、ボンの宮廷に直訴して、月給を父に支払わず、自分に渡してくれるように嘆願し認められた。
 ハイドンの使えたエステルハージ楽団にいたイタリア人のヴァイオリン奏者は、酔っ払いであった。ハイドンはその女房に同情しているうちに、その女とできてしまった。ついでに、自分の女房も死んだら結婚しようと、女に約束手形を与えたとされている。1761年 エステルハージ副楽長の採用の契約書では、前記(3)にも記載したとおり、喧嘩の仲裁も仕事となっていた。20世紀になっても、戦前のヨーロッパの高級ホテルでは、音楽家、俳優、その他劇場関係者などは、立ち入り禁止にされていた。
 L.モーツァルトは、ザルツブルクを解雇になり、新しい就職先を探す旅に出たモーツァルトに、父親は前夜、宮廷で楽士達が酔って起した事件について、報告している。音楽会が終わると、皆が酔っ払い、互いに肩を抱き合って部屋の中をつながって歩き、蜀台をたたく。しまいには、天井にぶら下がっている大きなシャンデリアまでたたいたものだから、真ん中のガラスの皿やその他の部品が壊れてしまい、ヴェネチアに修理を出してしまった。
 もちろん Lモーツァルトは、このような下品な楽士たちにの仲間には加わらない。しかし宮廷楽士の大半は譜は読めるが、字は書けないような手合いだった。
ウェブ アニメータ2014年1月31日追記。話は、少し外れるが、当時の、各国の識字率については、興味が深い。私は、吉村昭著の歴史関係の愛読をしている。この当時は、日本では江戸時代の半ば。当時の日本は鎖国政策と取っていて、殆ど、外国との接点はない。日本人のごく一部が漂流民となって、外国へたどり着くのが、唯一との接点であろう。ロシアで漂流し、無事に帰国できた、大黒屋光太夫は、その一人。井上靖著、「おろしや国酔夢談」を昔、読んだが、吉村昭も同じ様に「大黒屋光太夫」を執筆。それれらに関連した中で、当時の日本人の読書きや識字についての記載が間接的に触れられている。藩の米を江戸に運ぶ船が難破し、ロシアのエカテリーナ女帝に謁見し、日本に帰国した。その時期は、1782年から1792年で今回の年代に比較的近い。
 当時の船は、帆で航行し、船の乗員数は16人。その中で読み書きが堪能であったのは、光太夫であった。しかしながら、他の乗組員も読み書きができる人が多かったと記憶。当時の日本の識字率は、かなり高かった。それに対して、日本以外の諸外国では、識字率が、かなり低かったと思う。


(14)その14 オペラ演目
 
1766年にエルテルハーザ離宮の主要部分が落成する。(庭園を含めた新宮殿は、その後、約20年を要する)1768年にはこけら落としとして、ハイドンの薬剤師が上映される。しかしながら、常設のオペラ団はまだなく、間に合わせの歌手で対応した。1773年は、オペラ劇場の反対側に人形劇場も完成し、ハイドンはこのジャンルにも取り組む。 
 1772年の夏ごろからオペラ劇場では、巡演一座による、演劇の定期的な上演が始まった。ハイドンは幕間の音楽の作曲も入る。侯爵はこうした娯楽性を強化し、あでやかさを加えるため、1775年から76年に巨費を投じて、楽団を一気に、倍の25人に拡大した。声楽も歌手人と各声域を取り揃えた。そしてハイドンはオペラ監督になる。
 ハイドンは、毎年、オペラを作曲するほか、イタリアやウィーンの評判オペラを次々に上演する。この辺りの記述は、中野著 ハイドン交響曲にもかなり詳しくが記載されている。具体的に、ハイドン以外に、どの演目があったのか、気になっていた。
 この頃のヒットしていたオペラは、その筆頭は、イタリアの作曲家チマローザ('1749−1801)であった。各地の上演記録音楽会の記録などを見ると分かる。(当時の音楽会のプログラムはの中心は声楽だった)ハイドンは、チマノーザのオペラを少なくとも12タイトルは、レパートリーに入れていた。
 オペラ時代に、ハイドンの交響曲が少なかったのは周知の通りである。1778年は、完全な上演リストが残っている。楽団の出番は下記の通り。この頃に、オペラが中心の演目で交響曲の作曲が少なかったかが、分かる。
1778年
 演劇の伴奏:242夜(そのうちオペラの上演 52夜)
 オーケストラの演奏 3夜
同様に、中野著でのその前後の演奏会に記録も下記の通り
 1776年
 17のオペラをハイドンは125回に渡って指揮。
中野著 ハイドン復活の歌劇の部分の記述から
 1776年〜1990年までの14年間 エステルハーザ宮殿初演された歌劇
・ハイドンの作品をを含めて88曲。
・新たな演出で作曲された作品 6曲
・以前の演出で再演された作品 10曲
・指揮した歌劇の作品
 チマローザ、バイジェッロ、ピッチンニなどのイタリアの作曲家
 ガスマン、ディッタースドルフなどのウィーンの作曲家
 グレトリといったパリの作曲家
 チマローザの名声は、モーツァルトを大きく引き離していた。モーツァルトは主として、その神童時代のピアノ演奏が有名で、そのため、大人になっても、ピアノの名演奏家としか評価されていなかった。ウィーンで独立したときも、彼はピアニストとして考えられていて、ピアノレッスンや貴族の邸での演奏などで生計を立てざるを得なかった。ウィーン宮廷でただ一人、モーツァルトの支持者といえるヨーゼフU世でさえも、「モーツァルトは楽器の名人だが」の認識しかなかった。それに比べれば、チマローザは、65のオペラを書き、その名声は、アルプスの北の津々浦々まで及んでいた。19世紀になって、ロッシーニが出現するまでは、スターの座にあった。
 
(15)その15 オラトリオ トビアの帰還と交響曲
  音楽の友社 名曲ライブラリーのハイドンの生い立ち(大崎滋生)の部分で、ハイドンの生涯を概観するに、交響曲の作曲順番はオペラの関連が大きいと思われる。1766年頃からエステルハーザ離宮の主要部分の完成に向かう。1772年夏ころから、オペラ劇場では、巡演一座による演劇の定期的な上演が開始となる。(ドイツでは、オペラ専用劇場が殆どない。このため、各地を巡業する)1776年ー1778年の3年間は、交響曲は僅か3曲しか作曲されていない。
 一方、1775年、 ハイドンは、復活祭の祈りに手兵を連れて、ウィーンに乗り込んで、「音楽家共済協会」のチャリティーコンサートで、伝統的なイタリア語オペラ「トビアの帰還」を上演している。その直後「経歴素描」において、このオラトリオと3曲のオペラ及び「スターバト・マーテル」を代表作にあげた。それまで70曲以上作曲してきた交響曲には一言も触れていない。その当時交響曲のの人気がオラトリオやオペラほどではなかったのも、この発言から垣間見れる。
 中野著 ハイドン復活によると、このオラトリオは、晩年の天地創造と四季のものとは、全く異なり、ナポリ派を中心とする、スタイルになっている。1771年、ウィーンに音楽芸術家協会が創設され、この協会は、毎年、イタリア語の演奏会を開催していた。ハイドンは、この協会に入会するため、作曲をした経緯がある。さらにさかのぼれば、この題材は、バロック時代の作曲家に好んで取り上げられていた。ハイドンが音楽修行を重ねる前、18世紀の前半のウィーンでも、3人の作曲家が上演されていた。その中の一人は、少年時代のハイドンがシュテファン大聖堂で直接教えを受けた ゲオルク・ロイターだった。ウィーンではなじみの深いものだったこと。また、当時は、ナポリ派が流行していたのは、自然の成り行きだった背景がある。
 従って、ハイドンの交響曲は、やはり、当時と同様に、フレームの位置づけだったかもしれない。1770年代の前半頃までは、楽譜出版社と正式契約はしていなかったと思う。そうなると、特に、オペラ時代に入る前の交響曲は、原則として、エステルハージの中でしか、演奏の機会がなかったのは、明らかになる。このため、試行錯誤を繰り返しながら、侯のために、作曲を継続していたに、違いない。
 
(16)その16 ウィーン音楽家協会とは
 ここで、別な文献からの引用を記述。先ほど音楽家協会協会について、記載をした。水谷彰良著「サリエーリ モーツァルトに消された宮廷楽長」から。イタリアの作曲家でウィーンでハイドンと同じ頃に活躍していた、サリエーリに関する本からの引用。サリエーリはガスマンの弟子として、幼少の頃から神童として注目されていた。その師匠であるガスマンは、清廉な人物として知られ、サリエーリ以外にも優れた才能を見出して、音楽教育を実施した。ガスマンはサリエーリの人格形成にも寄与し、慈善活動や教育者としても実践する活動の模範とされた。
 ガスマンは、ウィーンの最古の音楽協会である「音楽家協会」を1771年に設立した。その協会の副会長を務めた。なお、同協会は別名「ウィーン音楽会未亡人と孤児の会」といい、各自150フローリンの出資金を拠出して会員となる。年会費12フローリンを払い続けると、会員が病気や貧窮に陥った際には、見舞金が。また、同人がなくなったときは、その未亡人と遺児に年金が支給される共済制度であった。皇帝の認可を受けた同協会の会長は、パトロン貴族の名誉貴族であったことから、実質的な運営責任者は副会長のガスマンが務めた。
 ガスマンは、1772年3月29日に開かれる同協会の第1回慈善演奏会のために、オラトリオ「解放されたベトゥーリア」を作曲し、200人の音楽家によって演奏され大反響を呼んだ。慈善演奏会の純益は、会員の年金基金に充てられることから、ウィーン中の音楽家が無報酬で出演した。これ以後、イタリア語のオラトリオを毎年4句節と待降節に演奏する慣行ができた。(イタリア語以外の作品が認められたのは1791年から)
 ウィーンの作曲家にとって、同協会からの作品依頼は大きな栄誉であった。また、そこで発表されるオラトリオは、作曲家の知名度や評価の指標になった。ガスマンの死後、副会長職は、新宮廷楽長 ボンノが就任。1781年〜82年 ボンノの病気が悪化したことから、これ以降、実質的な運営者はサリエーリとなり、1788年から1824年まで従事する。ハイドンはボンノが会長をを務めた1778年に、同協会への入会を打診した。しかし、ウィーン在住でないのを理由に、許可されなかった。この巨匠に対する非礼はハイドンを激怒させたが、サリエーリが責任者を務める1797年に入会金免除の特例で迎えられている。

(17)その17 ウィーンでの演奏会とサリエーリ
 
先ほど、ウィーン音楽家協会について、記述をした。サリエーリは、ハイドンの作品をを度々、演奏している。有名なのは、ハイドンの晩年の天地創造等の演奏であろう。1808年3月27日同協会が「天地創造」のイタリア語版をウィーン音楽講堂で演奏した。この日は、朗ハイドンが主賓として招かれた。トランペットとティンパニの輝かしいファンファーレとともに、エステルハージ侯爵夫人とサリエーリの先導で会場に姿に現すと「ハイドン万歳」の歓呼で迎えた。続ハインリッフ・ヨーゼフ・コリンとカルパーニがそれぞれ、ハイドンを称える詩を朗読し、続いて、サリエーリの指揮で演奏が行われた。この演奏会のおいて、冒頭の「光ありき」の部分で、壮麗な総奏が響き渡るとハイドンは手を上げ「あの高みより!」と叫んだエピソードとしても知られている。
 この日の天地創造について、グリージンガーのハイドン伝では(1810年) 「サリエーリの指揮による演奏は、あらゆる点ですばらしいものであった」とされている。しかし4月20日付けの「総合音楽新聞」では、「演奏そのものは、すばらしくなかったが。 (中略) けれどもそれがすばらしいとされたのは、ただそこに、天地創造の創造者が列席していたためである」と皮肉な意見を載せている。4月10日と11日 同協会の慈善演奏会がブルク劇場でも行われ、サリエーリの指揮でオラトリオ指揮が演奏された。
 逆に ハイドンはサリエーリの作品を上演している。1780年ハイドンはエステルハーザで、「やきもち焼きの学校」を披露した。この作品は、当時、大成功を収め、ヨーロッパ各地で上演された。

(18)その18 楽譜の流出と雇用関係
 1761年の副楽長就任の際、第4条に、「殿下の承認と許可なしに、他人のために作曲してはならない」と記載がされていた。この文言が一人歩きをして、侯爵以外のために、作曲してはならないとの認識が広まる。晩年の回想記でも「ひたすら、主人のために、作曲を一生していた」と知られてしまうことも多い。邸外での活躍は、交響曲を含む、器楽曲の創作にも反映されている。
 しかし少なくとも1782年までには、既にハイドンの交響曲は、エステルハージ宮廷には不要のものになったようである。1779年には、ウィーンのアルタリア社と出版の契約を結んでいる。その年の1782年以降、No.76番以降は、外部のために作曲家された。
 一方、宮廷も、作曲家としてのハイドンを迎えたのではない。元々、1761年の雇用契約でも、作曲家としてだけでなく、宮廷音楽全体の所轄を任されていたのは、前記(3)にも記載したとおり。特に楽長に就任して、オペラを中心に、、音楽監督の様な仕事になってからは、その分、作曲も減ってしまう。こうしてみると、1780年代に入ると、給与の受給者として雇用者に当然、拘束はされていたが、音楽家としては半ば、半分は独立した存在であった。それを支えたのは、ロンドン、パリ、ウィーンのの出版社と、それを通じて、その存在に驚喜していった台頭する市民階級であった。オペラ時代以降は、常に、外に向けた聴衆を意識しての作曲にシフトしていく。これまでの音楽史研究家は、大作曲家とされた人物の芸術活動を中心にすえて、それを歴史記述の理由にするだけでなく、物差しにしてしまう嫌いがあった。その結果、音楽活動を主快適形成の全体に位置づけず、翻って音楽活動の実質を捉えきれないことが、無きにしもあらずだった。

(19)その19 シューマンとソナタ形式
 ベートーヴェンの死後、その遺した音楽を持ち上げ、その伝道に力を尽くし、音楽を毒なものと聖なるものに分け、後者を称揚するため、批判を書き続け、その後の音楽批評の尺度を作り上げた作り上げたのは、、ドイツ・ロマン派のシューマンであった。ショパンのソナタの批評を書きながら、ソナタ形式を最高の音楽形式としてたたえた。また、ソナタを含めて、形式を重視するのが、普遍的なドイツ流の考え方で、歌の好きなイタリア人を斬っていくのも、シューマンから始まっている。交響曲という用語は、器楽の世界で到達した最大規模のものをたたえた。その後のドイツ音楽が進む道は、重・厚・長・大への道を歩む。ワーグナー、ブルックナー、ブラームス、マーラーに受け継がれる。
 形式において、18世紀に起こったドイツ哲学の理屈っぽさから、流れ出た音楽鑑定術が、これに相当する。シューマンからすれば、音楽から受ける感動のほどを測って決めるのではなく、書かれた曲の形式や作曲家曲技術を審査し、作曲者の狙いや精神を探ることに行う。こうして音楽を譜面審査という方法で図るのが、今でも音楽の審査の基準にもなっている。(ただし、全ての音楽がこの様な譜面審査の基準が根底にあるとは、私は考えにくいが)
 この考え方によると、仮に100年も歌い継がれた民謡がいいものか、悪いものかを審査しようとしてもできるものではない。1つの歌が歌い継がれていくとすれば、その歌には、多くの人の心に、なにかを呼び起こす力があるに違いない。そうした歌を、優れた歌と呼ぶのも差し支えないだろう。その小さな歌は影響力からして、ベートーヴェンの第5交響曲よりもはるかに大きいといえるかもしれない。しかしこの種の民謡は、形は小さいし、作曲者の意図などは知るすべもない。作曲技法は最も原始的なもので、シューマン流の審査基準からいえば、問題にもならない。
 ソナタ形式は、対立する2つの主題からできている。それは弁証法にいう、2つの命題、テーゼ(主命題)とアンチテーゼ(対立命題)に相当する。これらがソナタ形式では提示部で提示され、展開され、そこで葛藤が行われる。それらが再現部で解決され止揚されたものになる。それゆえ、ソナタ形式こそは、弁証法を体現したものといえ、あらゆる、音楽形式の中で、もっとも優れた形式と詠っている。 だからこそ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームスに続くドイツ器楽音楽の大家たちは、みなこのソナタ形式を用いて、彼らの交響曲、室内楽曲、器楽のソナタなどの第1楽章を書き、それらの器楽音楽を偉大なものにすることだできた。
 一見して、この論理は、旨く適用するように見える。そして現代でも、まことしやかに、振り回す人もいある。しかしこれが、いかに、ただの「こじつけ」であることがバレル。たとえば、シューベルトの最後の交響曲 ハ長調の長大な第1楽章。ここでは、対立だの、葛藤など、止揚だといった弁証法の用語は、だれも聞き取れないだろう。2つの主題は、ある程度、対照は見せるが、ともに、天上的なゆったりとした雰囲気を持ち、両者が調和と均等の中にあることは、だれの目にも明らかである。
 また、ハイドンは副主題を第1主題の派生系、つまり分身として作ることもあった。そうなると、そこには、対立も葛藤もなく、両者は一つの穴ののムジナになる。

(20)その20 譜面審査と追創造
 18世紀は、音楽に関して、批評であつかっているのは、主に、上演(演奏)されたときの批評である。まだ、その頃は音楽を譜面の上に固定して、それを分析して優劣の評価を与える考えはなかった。人は実際の音楽を聞いてその印象を述べ合っていた。それに対してシューマン演奏評とは別に譜面審査の道を開発した。作品の良否は譜面で判定する。クラッシック音楽の批評家は今でもその譜面の上に、書かれた音楽を調べその技法や作曲者の意図を審査の対象にしている。
 しかし譜面に書かれた音楽のスケルトンを見て、実際に演奏されたときの様子を完全に自分の耳に思い浮かべることが、何人もいるのだろうか? まずは、その譜面を読み、それから音を思い浮かべるためには、特別なな音感とか、想像力といったものが必要になろう。
 音楽のプロたちでも、そんな芸を持っているのは、そう多くいない。ましてや、普通の人間には、譜面とは ちんぷんかんぷん の代名詞である。シューマンともなれば、簡単に譜読みをしただけで管弦楽の轟く音を頭の中で鳴らすことができたのだろうか?彼の持論からすれば、イエスとなろう。しかし、シューマンはうっかり口を滑らしている。本物のスコアを持っていないで、リストがピアノ用に編曲したベルリオーズの演奏交響曲の譜面を見て、分析を進めているとき、途中でこんなんことを発言する。「ベルリオーズの偉大にな変化に跳んだ音の効果やコントラスト、音色の組み合わせなどを頭の中で完全に思い描くことは、どんなに想像力の発達した人にとっても、極めて困難であろう」つまり、実際に聴いてみなければ、譜面だけではどんな響きがするのか分からないと、彼自身が言っている。(リストのピアノ用の編曲の譜面には、使用される楽器の名前が殆ど、フレーズごとに書き込まれているにも関わらずなのに)
 ブルックナーやマーラーでも、自作の交響曲を演奏(リハーサル)してみては、自分の思惑と違っていた箇所を訂正している。音楽は音になって初めてわかるものになる。それやこれやとすれば、音楽史というのは、作曲家史あるいいは作曲技法史と言うべきかもしれない。
 モーツァルトは、自作の曲をどう変えて、歌うかをコーチした譜面をわざわざ書いて歌手に与えていた。そこでの作曲家とその譜面の価値はかなり低く、歌い手(演奏家)のほうが、はるかに重要な問題だった。実際、当時の年俸を見ても分かる。宮廷楽長クラスになれば、別だが、作曲家でもさえも、一般に歌手と比較して年俸が低いのは、このコーナーでも何度も記載をしてきた。
 今でも、音楽が生きている世界、つまりクラシックという特殊なジャンルでなく広く一般の人たちが楽しむ音楽の世界でも、歌い手と題名は知っていても、作曲者の名前を知る人は少ない。おそらく音楽のありようによっては、こちらの方が正常で、健康であると思われる。作曲家はあくまで、シナリオ・ライターであり、譜面と言う台本を作ったあと、これを料理するのは、監督や出演者の仕事である。作曲の魅力は、後から付いて回るに過ぎない。
 「悲しい酒」は美空ひばりのために書かれた作品ではなかった。最初にレコードを吹き込んだのは、別の男の歌手だった。それはヒットせず、後に、美空ひばりにより、100万人の愛唱歌になった。音楽は、譜面から音を再生するときに、音楽になる。その際に、演奏演奏する(歌う)人の行為は、追創造と呼ばれ、一緒の創造行為である。この追創造の良し悪しによって原曲が左右されるのは、「悲しい酒」が典型的な例である。


(21)その21 譜面から演奏の音源が変わって

 井上著「ハイドン106の交響曲を聞く」の冒頭で、18世紀後半の当時とクラッシック音の位置付けについて記さがされている。何度もこの本は時折、交響曲の詳細を比較していく上で、中身をチェックしていたが、冒頭は、最近読んでいなかった。その中で、18世紀の後半当時、「コンサートはあったが、この時代にクラッシック音がウィーンkのコンサートはなかったのか?」と言う、参加者への質問が興味深い。
 当時の現代音楽が、ハイドンの作曲していた時代の音楽であった。その点、現代のポピュラー音楽と同じといえる。音楽というのは、演奏と言う行為によって成立する。作曲家が書いた楽譜は、設計図に過ぎない。反音楽史でも、作曲家と演奏家の年収の作曲家や聴衆の興味の対象について、記載がされていた。作曲家が自作を演奏することは可能であるが、それは、一人で演奏できる楽器に限られる。オーケストラで自作を指揮することは、また、違う行為となる。
 また、音楽には、作曲家と演奏家がいれば、どれで終わりではない。聞き手の存在が必要となる。音楽は聞き手の存在によって、完全になるところが聞き手の受け取り方は自由であり、時代や環境によって大きく変わる。
 作曲家が書いた楽譜を、演奏家が解釈し、聴衆に訴えて成立するコンサートの音楽は、作曲家と演奏家の心の反映である。つまり聴衆との対話となる。そして演奏が終われば、聴衆は拍手かブーイングで応える。聴衆の心は我々変わりやすく、聴かないという自由もある。20世紀に入り、レコード音楽が普及し始めると、聴衆の範囲は大きく広がり、それが評価の基準となる。
 ハイドンが生きていた18世紀後半は、音楽の伝達手段は、楽譜しかなかった。音楽愛好家が家庭で演奏するために、楽譜の需要は想像以上にあった。また楽譜が贈答用に使われることも多く、楽譜出版は作曲家にとって、有力な収入源のひとつであった。しかし著作権が確立していなかたので、偽作や海賊版も多く出回っていた。
 19世紀に入ると、それまで貴族や上流市民階級だけだった音楽が、一般市民に行き渡る。また文学や哲学への結びつきが強まって、ベートーヴェンに代表される自己主張の強烈な音楽に聴衆が関心を抱くようになる。それはまた、楽器、特に、鍵盤楽器に大きな変化をもたらす。それとともに、リストやパガニーニなどの超絶的な技巧の演奏を聴くばかりでなく、見て楽しむ傾向も現れる。これはモーツァルトが神童と言われた時代と同じで、一種の見世物的な間隔とも一致する。また、オーケストラの編成が大きくなり、ワーグナーやベルリオーズの様な、巨大な音楽こそ芸術の極みである様になった。 そうなると、モーツァルトやハイドンの音楽は軽いとされ、コンサートプログラムでは、前座を飾るものになってしまう。もはや21世紀の現代は、ハイドンの生きていた時代の当時のコンサートとは、大きく様変わりをしている。