12.ヨーロッパ各停列車で行く ハイドンの旅 を読んで 
(その1)ネットでハイドン関係を調べてみたら、 表記の本が目に入った。元々、鉄道には興味を持っていたので、ネット経由で購入をした。「あとがき」をみると、著者は、元々、「海外鉄道研究会」と言う同好会の会員で、会報誌に、「ハイドンの旅」と称して、5回を連載。かなり鉄道に偏った内容だったので、それを元にして鉄分を薄め、鉄道マニアには、ほとんど興味のない部分をハイドンの作品についてを言及。著者のオーケストラ体験 (ob.)を含めて、まとめたものである。
(その2)本編は、6章からなっており、ウィーンとその周辺、オーストリア、ドイツ、イギリス等に渡り、最終章は、晩年のハイドンで締めくくられている。ヨーロッパは、高速列車も充実しており、2日間もあれば、ウィーンから、ロンドンに鉄道で行ける。しかし、「はじめに」の部分を読むと、それでは余りにも面白くないので、ウィーンからロンドンまでの遠征の風景や鉄道の乗り心地を体験し、途中下車を繰り返しながら浸ろうとの考えからだそうだ。
(その3)第1章は、ウィーン周辺のハイドンゆかりの地。生誕地のスロバキヤに近い、ローラウ。生誕の家は現存しており、観光名所のひとつにもなっている。ローラウには、鉄道が通っていない。ウィーンから近郊電車に乗ること、1時間、ドナウ川に沿う、ハインブルグ・ドナウ駅に下車。直線距離で10kmあるが、バスはいくつかの集落を丹念に回るので、ローラウまで約40分かかる。著者は、10月初旬の気候の中、この近郊を徒歩。この部分で印象が深かったのは、小麦、ジャガイモ、トウモロコシなどの畑が続くが、遠方には、風力発電のプロペラがある。
(その4)ハイドンは、作曲家では珍しく、大半がサラリーマンだった人の表現は、的確を得ている。同じ時代を生きて来たモーツァルトは、主君を変えながら、また、独立して転居を繰り返した生涯とは対照的だ。エルテルハージ公爵に仕えたアイゼンシュタットで、人生の長い間を過ごしている。アイゼンシュタットは、ウィーンの南東にあり、ブルゲンランド州の州都である。この州は、オーストリア・ハンガリー帝国時代には、ハンガリーに属する地域だった。第1次対戦後に、両国が分離したとき、ドイツ系住民が多いと言うことでオーストリア側になったところ。そのせいか、ウィーンとの間の交通は不便で、直行するバスがあるが、鉄道だと途中で乗り換えなければならない。
 著者は、官公庁の所在地にも詳しい。過去の著作に、「地理が面白い‐公共交通機関による全国市町村役所・役場 めぐりの旅」を出版している。そのせいか、アイゼンシュタットに関しても、「州都ではあるが、人口はわずか一万3千人余り。17世紀交換に作られた2−3階の建物がそのまま残る古い街並み」など、町の概観の様子を的確に記述している。町の中心にあるのが、見上げる様な堂々としたエステルハージー宮殿がある。
(その5)アイゼンシュタットの中心にあるがのが、見上げる様な堂々としたエルテルハージ宮殿がある。宮殿の中には、豪華な広間があり、ハイドンホールと呼ばれている。
 歩いて数分の所には、ハイドンの住んでいた家があり、ハイドン記念館として公開されている。ローラウの生家と違い、こちらの方は、普通に民家の作りで狭い。それでも見学客は常にあり、自筆楽譜や古楽器のたぐいが展示されている。
(その6)夏の離宮のエルテルハーザ宮殿は、アイゼン主タットから南東へ約50km離れている。今はハンガリーの属している。保存状態が良いとはいえず。、部屋の壁が剥がれ落ちているところも一部あるが、かつての豪華さは容易に想像出来る。この離宮では有名な告別交響曲がある。著作の中で、2009年11月にオールトリア・ハンガリー・ハイドン・フィルハーモニーが来日した。アンコールで、このフィナーレが演奏されたそうだ。
(その7)
さて、物語は、第2章「オーストリアj国内を西へ」に入る。エステルハージ家のニコラウス1世が1790年没すると、楽団は解散となり、ハイドンは自由の身になる。1790年12月に第1回のロンドンへの旅が始まる。鉄道のない時代であるが、馬車交通のため、ウィーンからロンドンへ、16日間で到着した。今回の旅行の目的は鉄道であったが、高速網の発達している現代では、2日間もあれば、ウィーンからロンドンへは到達できる。今回は、各駅停車の列車を中心に著者は利用。
(その8)
 著者の駅の描写は、日本の駅にうまく例えられている。ウィーンには、日本の首都 東京と同じ様に、主要な駅が分かれている。現在、最も主要な駅は西駅で、リンツやザルツブルクへ向かう起点となっている。他にも主要な駅はあるが、これらは19世紀中頃に作られた。駅舎は当時は、最先端の堂々たるものであったが、大戦で消失し、今は、その後に建てられた応急的ななもので、何の変哲もないコンクリートの四角い建物。今回の旅の起点は、 フランツ・ヨーゼフ駅。この名前は、作曲家ハイドンに因んだものではなく、1848年から 66年間、オーストリアハンガリー帝国の 名称からに寄っている。北の郊外に行く、近距離郊外列車が、発車する地味なターミナル。これを日本の長距離列車のなくなった上野駅に例えている。
(その9)ハリゲンシュタットを経由して、ドナウ運河を遡る。リンツまでは、こちらの方は、ローカル線になるため、河川を航行している船や、対岸には修道院などが見えるなど、おすすめの路線とのこと。リンツはオーストリアでは3番目に人口が多い工業都市。車窓からも多くの工場の煙突が見える。鉄道軌道の敷設・保守用機械の製造・販売を行なう プラッサーグループの主力工場も見える。日本の新幹線や在来線、大手私鉄に納入されているのは、同社が大半であるとのこと。(その後、調べてみたら、マルチプルタイタンパーが車両の正式名称であるが、俗称のマルタイでも有名)
  リンツに続くザルツブルクは、ハイドンにも縁がある。弟にミヒャエルは、兄と同様に優れた音楽家で、1763年 26歳の時から、ザルツブルク大司教に仕えた。宮廷楽団のコンサートマスターを勤め、1781年から、モーツァルトの後任として楽長にもなった。ミヒャエルは死ぬまでザルツブルクを離れなかったが兄が旅行の途中で立ち寄ったことは考えられる。弟の家は、中世の城の形を良く残しているホーエンザルツブルク城に登る、ケーブルカーの駅舎となっている。
 著者の「駅」に関する描写も的を得ているが、世界史に関しても、門外漢の私にも、上手く表現している。この頃のザルツブルグの時代はどの様な様子だったか? ドイツは神聖ローマ帝国と言う、ゆるやかな連合国の元、たくさんの小国があった。諸侯がそれらの国を治めていたのだが、中には貴族、すなわち日本の大名家に相当するものだけでなく、有力な協会が収める国もあった。ザルツブルクもその国の一つで、この城は、信長に滅ぼされる前の大阪の浄土真宗石山本願寺の様なものだったのかもしれない。この記述は、当時のドイツの国のイメージをつかみやすい。
(その10)ミュンヘンからシュットガウルトに向かうのは、複数あるらしいが、当時は、どのルートを通ったのかは不明。旅行記では、少し寄り道に近いルートのチューリッヒ方面からドナウ川源流のドナウエッシンゲン駅を目指している。各駅停車を乗り継ぎ、マンハイムへ到着。18世紀後半のカール・テオドールは宮廷楽団の育成に熱心で、、ここにヨーロッパ各地から優秀な作曲家や演奏家が集まった。いわゆる。マンハイム学派の中心でもあった。観光都市としては、知られていないかもしれない。しかしマンハイムは、ドイツ最大の河港を持つ。(ライン川とネッカー川の合流点にあたるため) マンハイム中央駅は、ドイツ南部と、ザール地方、フランス方面への幹線も分岐する重要駅であり、接続のため、10分以上停車する特急列車もあるそうだ。
(その11) 第4章は、ルクセンブルク、ベルギーからフランス北部へのルートとなる。ルクセンブルクはナポレオン戦争が始まるまでは、オールトリアの飛び地で、ハプスブルク領の一部だった。神奈川県ぐらいの面積で、人口はわずか45万人。ヨーロッパの主要鉄道が交わる重要拠点である。また国内の主要鉄道が5方面に出ており、1時間に1-2本の電車が出ていて利用しやすい。ベルギーのアントワープは、かつて大航海時代はヨーロッパ随一の港であった。また、当時のネーデルランドの中心地でもあった。ブリュッセルとは違って、落ち着いた町並みを見ていると、著者は、この旅の中で、一番、ハイドンらしいと感じた印象を記載。
 フランス北部のカレーからイギリスのドーバーまでは、今回は、フェリーにて、約1時間半のたび。58歳にして、初めて海を見て、そして航海した。7時半に船に乗り、午後5時にドーバーに着いたので、ほぼ1日がかりでを要していた。
(その12)第5章 イギリス上陸からロンドンへ。ドーバー海峡には、ヨーロッパでは、まだ少なかった灯台が、ローマ帝国時代に立てられたらしい。かつては、ドーバーも大陸連絡列車として鉄道路線があったらしいが、今は、線路らしきものは、見当たらない。
 ロンドンの鉄道は分散しており、中央駅に相当するところの回答は難しい。かつては、大陸への玄関口として、ヴィクトリア駅は昔から最上級の客が集まっていた。しかしユーロスターがセント・パンクラスへ発着している。このため、ヴィクトリア駅は通勤電車のための通過駅になっている雰囲気らしい。
(その13) 当時のロンドンは、経済的な繁栄のもと、音楽市場としても世界一で、観客動員数や楽譜の販売数も多く、オーケストラの技術も高かった。当時出始めたクラリネットは、現在と同じレベルに近かったらしい。1790年と1794年の2回にわたり、ハイドンは渡欧している。このうち、1回目のロンドンでは、主としてハノーファー・スクウッェア劇場で初演されている。ハイドンの伝記などに、このときの初演の様子の版画などを何度も見てきた。また、約800人の収納劇場であったが、当日は、1500人が押しかけるほど大人気だった記録がある。ホールの構造にも興味があったので、この行方はずっと気になっていた。
(その14) この本によると、今はその劇場はなく、地下鉄オックスフォード・サーカス駅のすぐ近くに広場として残っている。中央には、東西50m、南北70mの四隅が円で削られた緑地公園があり、説明版がある。説明版には、建設から撤去までの経緯が細かく記載されている。すぐ近くにはヘンデル博物館がある。(この当たりの描写は細かいが、現地の様子が、ひしひしと伝わってくる)
(その15) 最後の第6章は、その後のハイドンとして、晩年を過ごしたウィーンの居住地、アイゼンシュタットのハイドンの墓地などの紹介で締めくくられている。終わりにに部分で、音楽を通した、ヨーロッパの交通体系と日本との関わりについて、触れられている。鉄道を通しての交通体系の基幹としていること。この戦略は、EUの共通していて、各国ともそれに従っていること。逆に日本では、その様な他国との約束を守る関係にないことで、締めくくられている。


 児井正臣著 幻冬舎ルネサンス新書 「ヨーロッパ各駅列車で行くハイドンの旅」